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信虎の手が伸び、柚子の口を塞ぐ猿ぐつわを外した。
柚子は大きく息を吸い込んだ。
「お前はすぐに殺すつもりだったが、もうひと働きしてもらう」
信虎が言った。
柚子からやや離れ、その様子を油断なく見つめている。
「信竜はお前を殺すと脅せば、喜んで自分の首を差し出すだろう。父に背く、あの恩知らずに道理を教えてやらねばな」
(今度は信竜様を…。我が子を殺そうというのか…)
柚子は自らが生かされている理由を知った。
(信竜様はどうされるだろう? よもや私のために命を投げうつことはなされない…)
柚子の胸の芯が、ずきりと痛んだ。
(でも…もしや…信竜様は信虎に降伏してしまわれるのでは?)
家族を皆殺しにされ、このうえ愛しい想い人まで同じ相手に奪われるとは。
信虎に利用されるくらいなら今、この場で舌を噛みきって自ら命を断つべきでは?
それこそ武家の娘としての死に様ではないか?
だが、柚子は出来なかった。
怒りの表情で我が子への罵詈雑言を吐き続ける信虎を見ていると、どうしても復讐を諦めきれない。
信虎の息の根を止めるまでは死ねない。
絶望的な状況だが、柚子には一抹の望みがあった。
(冥…骸…)
初めて出会ったときのように二人が現れ、この窮地から救い出してくれるのでは?
大山城で姿を消した冥と骸。
もう見捨てられたのか。