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その眼を見て、藤十郎は信竜が自分の提案などまるで聞いていなかったであろうと気づいた。
おそらく信竜の頭の中は、ずっと柚子でいっぱいだったのだ。
庭で化け物二匹を撃退した後、柚子と片時も離れようとしない信竜を必死で説得し、この部屋に入ってからほとんど時は経っていないにも関わらず、まるで母を恋しがる幼子のように信竜は柚子を求めている。
藤十郎は改めて信竜に対する柚子の影響力に驚き、さらにそれを通り越し、ぞっとする思いがした。
この執念は危険である。
(殿の命を奪いかねぬ)
しかし、藤十郎はそんな胸の内は顔に出さない。
「お変わりございません。別室にて、くつろがれておられます」
冷静に答えた。
「あの化け物たちが柚子様を取り戻しに来るのでは?」
信竜の声は低い。
藤十郎を見る眼が明らかな怒気に渦巻き、その光を強めた。
信竜に使えてから、何度か藤十郎が見たことのある眼だ。
それは決まって信竜の感情が自ら押さえきれないほど、昂ったときに出現する。
すなわち、信竜が父、信虎の所業に憤ったときだ。
信虎によって小諸義時が討たれたと知った際、信竜は今とそっくり同じ状態になって藤十郎を斬り殺さんばかりに、にらみつけたのだ。
皮肉なことにその表情は信竜が嫌う信虎と似たものになる。