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泣き虫の少年と幸せの少女

作者: 乙女座布団

   一


 新井想はバスを降りると、視界の先にそびえる病院に向かって歩いた。

 バスの中はクーラーが効いていたから、外に出るとどうしてもジリジリと日差しに焼かれるような感じがした。まだ五月なのにもう夏になってしまったみたいで、思わず手を額に当てる。

 夏は好きだけど、嫌いなところも沢山ある。夏バテとか、会話が高確率で「暑いね」から始まるようになるところとか。だからまだ夏の到来は先であってほしい。

 想は病院への道をとくに意識もせずに進む。何度も来ているから、特に道順を考える必要もない。

 途中にある銀行やカラオケボックスの前を通りすがり、周りよりも頭一つ抜けた大きさの白い建物――想の目的地である市立の病院だ――に近づく。

 歩道に沿って五分ほど歩いていると、病院の駐車場がみえてくる。想は駐車場に足を踏み入れると、中を突っ切り、正面玄関から病院内に入った。

 自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いが混じったエアコンの冷気が体を撫でる。想は受付を済ませてエレベーターで二階にあがり、廊下の角にある個室に向かって歩いた。

 個室のドアを開けて、足を踏み入れると、中にはベッドに横たわる中年女性の姿があった。

 肩まで伸びた髪に痩せこけた頬。静かに閉じられたまぶた。眠り続ける女性の周りにはどこか深海めいた雰囲気が漂っている。

 想はベッド脇に置かれたパイプ椅子に腰掛けた。


「おはようございます。母さん。今日の調子はどうですか?」


 けれど、返事は返ってこない。何年も、母は眠り続けている。

 想は母の奇妙なまでに皺の少ない顔を眺めながら、その手を握った。そして、何かを確かめるように目を閉じると、ややあってため息をつく。


 ――今日も駄目か。


 諦めの混ざった感情が胸に広がる。ここに来るたび、いつも同じ結果を突きつけられる。想は来たばかりだというのに、席を立って窓際に向かって歩いた。そして、窓の外からみえる病院の中庭に目を向けた。

 芝生に覆われた庭の中心に大きなケヤキが植えられていて、そこから少し離れたところに休憩用の長椅子が置かれている。

 もし母が目覚めていればあそこで日向ぼっこでもしていたかもしれない。想はなんとなくその光景を思い浮かべてから、自嘲気味に微笑んだ。今日は生憎中庭には誰もいない。妙に暑いから。そのせいだろう。

 気分転換に青々とした緑をなんの気なしに眺めていると、中庭にひとりの少女が足を踏み入れるのがみえた。

 想は思わず少女を視線で追いかける。相手はゆっくりと長椅子に向かって歩き、そのままそこに腰を下ろす。悪趣味だと思ったが、ついその様子を眺めてしまう。

 肩にかかる程度までカットした、つややかな黒髪。白磁のように白い肌。顔立ちは遠いからわからないけれど、全体的な雰囲気から勝手に美人だと推測する。少女はたんぽぽ色のブラウスに、青色のジーンズパンツといった出で立ちで、緑あふれる中庭に現れた、花の妖精のようだった。

 想は彼女の全体像をもっとみようと窓辺に寄る。そのときだ。視界になにか引っかかるような違和感を覚え、想は眉根を寄せた。

 それは言い換えるなら、直感と言ってもいいだろう。彼女は中庭の長椅子に座り込んで、そのままじっと動かない。まるでなにかに耐えるように。その姿が、やけに印象に残った。

 なにか、辛いことでもあったのだろうか。そこまで考えて、想は自分が下世話な考えに支配されていることに気づく。そして、頭の中に現れた疑問をかき消すように首を振った。

 ここは病院だ。悲しいことや辛いことなんて、吐いて捨てるほどある。落ち込んでいるようにみえるからと、勝手な想像を膨らませるなんて。

 きっと、それは最低だ。想はもう一度ため息をつく。未練を断ち切るように視線をベッドに戻すと、眠り続ける母に向かって偽物の笑顔をつくる。


「喉が乾いたから、飲み物を買ってくる」


 さっき来たばかりだというのに、もう帰りたくなっている自分がいた。

 想は、自分の手のひらをみつめて、顔を歪ませる。


 ――なにを考えているんだろう。ぼくは。




 この世界には、能力がある。それは人の思いによって発動し、様々な結果をもたらす奇跡にも似た不思議な力だ。

 想は一階の待合室にある自動販売機で飲み物を選ぶ。自分用にひとつ、母親のためにもうひとつ。小銭を入れてボタンを押し、出てきた紙パックを掴んだ。買ったのは。緑茶とオレンジジュース。

 取るときに、ふと自分の手のひらを眺める。

 能力は、発現者の精神の影響を受けたものになると言われている。そのせいか、殆どの力は本人にしか使い道を見出だせない奇妙なものが多い。想の能力も、日常生活では全く役に立たない。

 手をつないだ人と同じ気持ちになる能力。それが想の能力だ。空が飛べるわけでも、念力で遠くのものを動かせるわけでもない。

 想は立ち上がって手を握りしめると、待合室を出た。

 エレベーターの前まで行くと、うつむいた少女の姿が脳裏をよぎって、ついボタンを押そうとする手が止まる。

 勝手に覗き見ていたことは事実だ。一方的に観察していただけなのだから、無視すればいい。何も知らないふりをしていればいい。本人にとっても、自分にとってもそれが一番だ。きっと罪悪感が、判断を鈍らせている。相手が悲しんでいるのかすら定かではない。こっちが勝手に決めつけたことで、その実笑っているのかもしれない。そう思って、なんとか納得しようとする。

 想は振り切るようにエレベーターのボタンを押した。最上階まで上がっていたエレベーターは、下に降りる人たちを載せながらゆっくりとこちらに近づいてくる。

 その間、想は中庭に向かうかどうかを考えつづけた。この建物は中庭を取り囲む巨大なコの字型をしている。そのおかげで角の病室は日当たりもいいし、緑はすぐ近くにあって窓からの景色も綺麗だ。引っ越しして二ヶ月程だが、いい病院だと思う。でも今はこの建物の構造が恨めしかった。

 八つ当たり以外の何者でもないし、余計なお世話なのもわかっている。

 眼の前のドアが開き、中にいる人が全員出たのを確認する。 想は敷居を跨ごうとしたが、途中で足を止め、くるりと身を翻した。




 中庭に足を踏み入れると、青々と茂った芝生と木の匂いが鼻をくすぐった。想は顔を動かして少女の姿を探す。

 時間が経っているからもう居なくなっているんじゃないか、そう思ったけれど、目的にしていた相手は二階で眺めていたときと変わらずに、けやきの木の側に置かれた長椅子に座り込んでいた。

 想は少女をみつけると、自分は休憩しにきた、という態度を装って近づく。

 丁寧に刈られた芝生を踏みつけるざくざくという音が、やけに耳に残る。自然と足取りは慎重なものになった。自分でも気づかないうちに、妙に神経質になっている。

 座高から推測すると、少女の背格好は自分と同じくらいだ。彼女は相変わらずうつむいて、地面を眺めていた。下を向いた黒髪の隙間から覗くうなじに思わず目が吸い寄せられそうになって、慌てて気を取り直す。

 想は長椅子の端にさり気なく腰掛けると、少女の声が聞こえないか、耳を澄ました。でも、いくら注意深く聞いても、聞こえてくるのは風に揺れる木々や草花の音だけだった。

 想はうつむいてじっと芝生を眺める少女がどうしても心配で、かける言葉を探す。

 それほど豊富とは言えないボキャブラリーを総動員しても、適した言葉は見つかなくて、結局――


「やあ。今日は暑いね」


 最終的に自分がいちばん嫌いな一言で、会話の火口を切ることになった。

 想は内心頭を抱えた。でも、一度口から出た言葉を回収する方法なんてこの世界に存在しない。能力なら話は別だが、想にそんな能力はない。

 次の言葉を探していると、長椅子の反対側に腰掛けていた少女が、ゆっくりこちらを向いた。

 彼女は振り返るように顔を上げて、黒水晶のように透き通った瞳でこちらをみた。その瞬間、想は体を強張らせる。

 彼女の容姿が、とても整っていたから、というのもある。細い眉、愛嬌のある大きな黒い瞳、すらりとした鼻梁の下にある、桜色の唇。頬は熱を帯びているのか、ほんのりと朱に染まっている。さっきは冗談で花の妖精に例えたけれど、間近でみると本当に綺麗で、自分の嘘に騙されそうになる。でも、そんなことは次の事実に比べれば、些細なことだ。

 少女が、まるで何かに怯えるような表情をしていたからだ。眉根は寄せられていて、瞳は涙こそ溜めていなかったけれど、奥底は確かに揺れ動いていた。

 まるで、悲しみに揺れる水面のように。

 彼女は無関心そうな瞳でこちらを二度見すると、自分が話しかけられていると理解したのか、何かを考えるように視線を下に向ける。

 しばらくすると彼女はその桜のつぼみのように奥ゆかしい唇を動かして、言った。


「なにか用?」


 輪郭の揺れた、不安定な声だった。それでも、端々から確かなプライドが感じ取れる。想は面食らって、息を詰まらせる。それから唾を飲み込んで、口を開く。


「用ってほどのことじゃないんだ」


 世間話の一種だよ。そう言って、顔の前で手を横に振る。どこか大げさな仕草になるのは、緊張しているからか。

 焦想の様子を、少女はガラス玉のような瞳で観察していた。透明な、そのことを悲しげに感じてしまえるくらいなにもみつからない視線で。

 思わず想は嘘をついた。


「暑い中、ここに来る人がいるなんて珍しいから」

「それを言うならあなたこそ、どうしてここに?」

「ジュースを飲みに。病院の中は消毒液臭くて好きじゃない」


 窓の外からみえたきみが気になったからなんて、口が裂けても言えないから、それ以外に返す言葉をみつけられない。

 少女は想の答えを聞くと、視線を僅かに泳がせてから言った。


「わたしは、緑をみに来たの」

「木や草花が好き?」

「そういうのとは少し違う。でも、静かな場所は好き」


 いまの時期、だれもここには来ないから。そう続ける彼女に向かって、想は内心苦い顔をする。話しかけないほうがよかったかもしれない。

 少女の表情からは感情が読み取れなくて、正解がわからない。席を立つべきか考えていると、想の考えを察したかのように彼女は言った。


「別に、あなたのことを責めているわけじゃない。ひとりでいるときは、静かなところがいいだけよ」


 言葉の端々は震えていたけれど、さっきよりははっきりした声だった。もしかしたら話しているうちに、心の調律が済んだのかもしれない。


「じゃあ、ふたりでいるときは?」

「それなりに話しやすい場所がいい」


 それなり――曖昧だけど難しくて、なのに誰もが実現できると簡単に錯覚する状態のこと。例えるなら食事における「なんでもいい」や「適当でいい」みたいな。


 見た目の物静かさとは裏腹に、風変わりな思考をしている少女は、前方のけやきの木に目を向ける。


「ここは、私の基準で言うところの、『それなり』に近いのだと思う」


 彼女の瞳は想と同じで真っ黒なのに、何故か透き通っているようにみえる。

 想の目線は自然とそこに吸い寄せられる。まるで誘われるようだった。


「初対面の人の基準なんてわかるわけがない」

「つまり、ここはふたりで話すにはうってつけの場所じゃないか、ということ」

「邪魔だからあっちにいけと言われるかと思った」

「そういうあなたは意地悪なんだね」


 皮肉を言い合って、お互いの間にある壁のようなものを削る。想は、右手を彼女に向かって差し出した。

 そこには、オレンジジュースと緑茶の紙パックが一緒に握られている。

 首をかしげる彼女に向かって、想は言った。


「ぼくの名前は新井想。飲む?」


 うまく言えるか不安だったけれど、特に詰まることなく言い切る。

 少女は想の言葉を聞くと、口の端を微かに釣り上げ、笑みを浮かべた。


「わたしの名前はミドリ」


 そう言って、ミドリは想の手の中にある紙パックをふたつとも掴む。それをみて、想は困ったように眉尻を下げた。


「そんな、ずるい」

「どちらか飲むと言わなかったからよ」


 彼女の声色はもう震えていなくて、想は少しだけ安心する。でも、せっかくの飲み物を両方取られてしまった。

 でも特に気にすることでもないので、思考を切り替えて長椅子に座り直す。

 今度はミドリの近くに少しだけ寄った。すると想の頬に、ぬるくて湿ったなにかが当たる。驚いて顔を動かすと、目の前に紙パックのお茶があった。

 ミドリが、想の頬に当てていたのだ。

 想はいつもより大きく目を見開いて、彼女をみた。そんなことをするなんて、夢にも思わなかったからだ。


「びっくりした……!」


 ミドリの顔には、感情がみあたらない。なのに微笑んでいるから、浮き世離れしてみえる。

 ミステリアスな笑顔を浮かべたまま、彼女は言った。


「ひとりじゃ無理そうだから、やっぱりあなたも飲んでくれる?」


 真意のわからない態度は空の天気みたいに気まぐれで、他人に縛られない気高ささえ感じられた。

 想は戸惑いながら、ぎこちない動きで紙パックをつかむ。

 これが、新井想と不思議な少女との出会いだった。


   二


 あれから想とミドリは、まるで引力に引かれるみたいに交流を重ねた。

 想は週に三回、決まった曜日と時間に母親に会いに病院へ足を運ぶ。ミドリは想が二階の病室の窓から中庭を覗くと、まるで示し合わせたかのようにそこにいた。決して約束をして待ち合わせていたわけじゃない。想は彼女の姿をみつけるたびに、飲み物を買って中庭に向かった。

 彼女は大抵の場合長椅子に座って、太陽の光を浴びながらけやきの木をみている。そこに飲み物を差し出しながら話しかけるのが、ふたりのお決まりのパターンとなっていた。

 今日も想は、母のお見舞いの帰りに中庭に足を運ぶ。ミドリはいつもの場所にいた。

 右手に持ったオレンジジュースを隣に差し出しながら、想は言う。


「そういえば、きみの名字をぼくはまだ知らない」


 出会ってからそろそろ二ヶ月になる。話題も尽きてきた頃だ。だから、ずっと気になっていたことを尋ねてみる。

 ミドリは、飲み物を受け取りながらこちらに顔を向けた。


「名字?」

「うん。ずっと気になってたんだ」


 もう七月だが、長椅子が木の影にあるおかげで暑さが軽減されていた。冷えた風が頬をくすぐる。


「親しくなったら教えてくれる?」

「この状態は、親しいと呼べないの?」


 確かに、ぼくとミドリは親しいのかもしれない。と考えて、想は心の中で首を振った。――違う、そうじゃない。


「友達のフルネームを知らないのは、なんだか少し寂しいよ」


 認識に靄がかかると言ったほうがいいだろうか。足元がおぼつかない感じがして。

 冷静に考えると、彼女も定期的に誰かのお見舞いに来ているのかもしれない。だから本名を明かさない。もし病室前にネームプレートがあったりしたら、一発でバレてしまうからだ。

 考えれば考えるほど短絡的な行動だったことがわかってきて、想は頭を抱えそうになる。謝ろうと思い隣に目を向けると、ミドリはうつむき、なにかを呟いていた。

 横にいてもわからないということは、相当な小声で喋っているということだ。想が無言で距離を離すのとほぼ同時に、ミドリが顔をあげた。


「友達とは、そういうものなの?」


 ミドリは首を傾げる。果たしてそれはふたりの距離が開いていることに関してなのか、ただ目の前の疑問に素直なだけなのか――どうでもいいことを考えながら、想は答える。


「お互いのことを話せる仲を、友達と言うんだと思うよ」


 ミドリは開いた距離をずいと詰めた。透明なガラス玉のような瞳を、まっすぐ向けてくる。

 想も、全く同じタイミングで距離を離す。間隔は変わらないまま。


「……どうしたの?」

「本で呼んだことがあるの。友達というのは、言わずとも言葉が伝わるような関係なのだと」


 なにかが違うような気がするけれど。


「口頭で伝えるのはだめなのかな?」

「わたしは、自分の名前を他人に明かすことを許可されていない。でも、バレなければいいから、こうやって」

「知らない人にはついて行っちゃいけない、みたいなもの? じゃあミドリって名前は、仮の名前?」


 ミドリはこくりと頷く。彼女の口ぶりは、教育熱心な母親に指導されていると言うよりは、仕事について話しているときのようだ。それだけ厳格な家庭なのだろう。

 ふたたび、ずいと近づいてきたミドリをどうにか手で押し止める。


「ここにはぼくら以外、誰もいないよ。だからバレないし、話したければ話せばいい」


 追い込みが止まり、想は一息つく。

 どんどん距離を詰められて、しまいには長椅子の端に追い込められていた。


「あなたには飲み物をもらっているし、できる限り誠実にしたいと思ってる。でも、わたしにできることはあんまりないから」

「見返りを求めて友達を作るわけじゃない。だから、気負わなくていい。いつか、許可が降りたら教えてくれればいいよ」


 代わりに想は、裏技みたいな質問をした。


「ミドリって、どこの中学校に通っているの?」


 彼女が想と同年代ということは知っていた。間接的に伝えるのなら、これがいちばん手っ取り早い。友達を偶然みつけたと言い訳も効く。

 でもミドリは視線を彷徨わせると、やがてふるふると首を振った。


「ごめんなさい。小学校に上がる前から市の施設で暮らしてて、学校には通ってない。名前を明かしちゃいけないのは、施設のルールなの。だからきっと、許可も降りない」


 そして、最後に一言、付け加える。


「能力が、ちょっと複雑で」


 彼女の様子に、想は口を閉じた。

 能力というものは、人の思いによって発現する。そして能力の核となる思いは多くの場合、マイナスに属するものだ。

 後悔、疑念、怒り、悲しみ、渇望。自分にとって足りないものを埋めるかのように、本人にとってどうしようもない魂の軋みを具現化するかのように能力は発現する。

 そして能力を持ってしまえば、使わずにはいられない。それはなによりも甘い果実のように、人を誘惑する。

 現実を思い通りにできるのだと、誰もが信じられるようになる力。それが能力だ。

 その呪縛の中に、能力者は――新井想とミドリは――囚われているのだ。

 両手のひらを広げて上に向けた彼女を、想はじっとみつめる。

 想自身、どうしようもなく感情に流されている。一縷の望みを能力に託すために、ここにいる。


「そんな大事なことをぼくに話してしまって、大丈夫?」


 ミドリは両手の指を組み合わせて、祈るような形にした。


「あなたになら、言ってもいいと思ったから」

「どうして?」

「わたしとあなたは、どこか似ている気がする」


 似ているから話す。どこか悲しい理由だ。

 はじめてまともにみつけた彼女の感情が、悲しみだったことに想は胸が締め付けられる。

 でも、想は自分の感情をおもてに出さないように、偽物の表情をつくる。丁寧に、慎重に、いつもどおりの、普通の表情を。


「ありがとう。話そうとしてくれて。だけど、辛いのなら言う必要なんてない」


 ミドリは目を伏せたあと、困ったように笑った。


「いいえ。きっと、わたしが話したいんだと思う」


 ――だから、話させてくれない? 頼りなく続ける彼女に、想は頷くことしかできなかった。




 小さい頃からミドリは、強力な能力を持っていた。それは小さな子供が持つには過ぎた力で、能力を管理する組織が彼女の存在を察知した頃には、すでにミドリは能力を暴発させ、多くの人に被害を与えていた。

 その口ぶりからして、取り返しのつかないレベルの被害であることはなんとなく想像がついた。

 彼女はすぐに能力を管理する組織に保護され、親元から離れて生活することになった。


「そのときのわたしは、自分がどんなことをしているのか理解していなかった。どんな残酷なことをしているのか。どれだけ自分が傲慢だったのか、わかってなかった」


 ミドリは中空を眺めているようにみえたけれど、実際は遠い過去を眺めているのだろう。目の前の光景を微塵も映さない暗い闇のような瞳の奥底が、静かに揺れていた。

 たったひとつの感情が支配するシンプルな闇に潜る、潜水士の瞳だ。想は彼女の言葉に注意深く耳を傾ける。ただの一言も、聞き逃さないように。

 ミドリは音を並べるように、慎重に話す。感情に飲まれないよう、バランスを取っているようでもあった。


「自分のしていることがどれだけ罪深いかを理解したのは、九歳のとき。施設で暮らしてたら、どうしても家族に会いたくなって。抜け出して会いに行ったの」


 そこで彼女は、自分の能力に絶望にも近い感情を抱いたらしい。

 ミドリは言葉を切ると、深く息を吸って、吐いた。自分の体のリズムを整えるように。

 想はじっとその音を聞いていた。それは、眠り続ける母親がする呼吸の音と似ていた。悲しみの混ざった、藍色の音だ。


「大丈夫?」


 思わず手を握りそうになって、こらえた。代わりに声をかけると、ミドリはゆっくり頷く。


「ありがとう。そういえば――あの日もこんな風に、晴れていた。わたしは家の庭でひとり泣いていて、探しに来た施設の人が走ってきたの。白い制服のまま、女の人だった」


 ミドリのことを少しでも理解したくて、想は彼女の言葉から過去のイメージを思い浮かべた。

 一軒家を彩る、芝生の茂った小さな庭。その中心で、少女が泣いている。きれいな茶髪をした少女だ。小さな体を縮こまらせて、怯えるように泣いている。自らの犯した罪の大きさに耐えられなくて、崩れ落ちそうになりながら。

 膝を抱えた少女のそばに、ひとりの女性が駆け寄った。女性は震える少女の背中に手を置くと、安心させるように抱きかかえる。


「歩くことができなくて、抱えられて帰ったのを覚えてる。その人の制服を涙と鼻水でびしょ濡れにして。きっと、迷惑だったと思う」


 夏の日差しに照らされた道を抱えられて進むミドリ。その眼からは絶え間なく涙が溢れ出す。顔をくしゃくしゃにしながら、悲しみに耐える彼女の姿。空想であっても苦痛しか残らない光景に想が思わず顔を歪めると、それにミドリは敏感に反応した。

 彼女は手を小さく顔の前で振って言う。


「ごめんなさい。これじゃあなたが大丈夫じゃなくなるね」

「そんなことは……」


 言いかけて、これは適切な言葉なのかわからなくなった。

 想は抗い難い衝動に駆られ、手のひらを握りしめる。それは強迫観念に似ていた。言葉から感情を読み取った頭が、能力を使えと命令してくる。いつもやっているように、母親の悲しみをいつも感じているように。

 能力を使えば、正しい言葉を、彼女にふさわしい言葉をみつけられる気がして。

 想は、ミドリからはみえないように、握りしめた左手の拳を右手で覆う。決して開かないように強く、強く。

 無差別に他人に共感するなんて、馬鹿げている。そんなこと、わかっているつもりだった。なんの解決にもならないことを、世界でいちばんよく知っているはずなのに。


 ――それはきっと、彼女が言っていたことは、ぼくにも当てはまるからだ。


 ミドリは話す前、わたしが話したい、と言った。想は話すことが能力を使うに置き換わっただけ。

 想は内心、自分の浅はかさに舌打ちする。

 これに能力を使うのは卑怯だ。彼女は自分の言葉で話している。自分が借り物の感情で話してはいけない。だから想は、必死に頭の中で言葉をかき集めた。

 でも、いくら探しても言葉はみつからなくて。

 呆然と口を開けたままの想をみて、ミドリはどこか、傷ついた表情になった。そして次の瞬間、はっとして顔を背ける。

 彼女はいつもより早口で言った。


「やっぱり、ごめんなさい」


 それを聞いた想は慌てて弁解しようとした。けれど空いた口を閉じて、言葉を出そうともう一度口を開いたとき、ふたりの間に携帯電話の着信音が割って入った。

 ――ぴぴぴ、ぴぴぴ。甲高い音に阻まれて、想は黙らざるをえなくなる。いつも使っている携帯電話の音とは違ったから、必然的にミドリの携帯からだとわかった。

 彼女はこちらを気にしながら、ポケットから携帯電話を取り出す。想は彼女の様子よりも、携帯電話を持っているという当たり前の事実のほうに驚いた。

 四角いモノリスみたいな形をした携帯電話を耳に当てるミドリの姿を、ミスマッチに感じたのだ。

 ミドリは電話の向こうの相手と二言三言会話をすると、静かに頷いて通話を切った。そして、こちらに顔を向ける。


「ミドリ。なにかあったの?」

「これから戻らないといけないみたい」


 そう言うミドリの表情は、さっきとは違ってどこか緊張しているようだった。彼女は長椅子から立ち上がると、ついてもいないホコリを落とすように服をぽんぽんと叩いた。


「ありがとう。想。わたしの話を聞いてくれて」

「そっちこそありがとう。ぼくに話してくれて」


 一拍の間をおいたおかげで、さっきよりはスムーズに言葉を選ぶことができた。ミドリの表情はやっぱり晴れなかったけど、さっきよりはマシだ。想は強引に自分を納得させて、中庭を後にするミドリを見送る。

 想は視界に映る彼女の背中が小さくなるのを待ってから、大声で話しかけた。


「きみのこと、ぼくはもっと知りたいのだと思う!」


 いつもとは違う大声に振り向いたミドリに向かって、想は手を振った。


「だから、また明日!」


 小人になった彼女は、控えめに手を振り返してくる。その表情の詳細を知ることはできなかった。想は残念に思うと同時に、安堵する。

 こんな恥ずかしいセリフを言っている表情を近くでみられたら、恥ずかしさで叫んでしまいそうだったから。

 だから想は、離れていても聞こえるように、できるだけ声を張り上げた。


   *


「なにか、いいことでもありましたか」


 ミドリが病院の駐車場に止められた黒いバンの後部座席に乗り込むと、運転席に座る女性が話しかけてきた。


「どうしてそう思う?」

「今のあなたは、とても楽しそうにみえます」


 女性はミドリの暮らす施設の職員だ。周りからは、フクエさんと呼ばれている。

 彼女はバックミラー越しに微笑んだ。


「新しくできた友人との関係は、良好なようですね」


 ふっくらとした体をパンツスーツに包んだフクエさんは、柔らかな笑顔と合わせて母性的な印象を見るものに与える。

 ミドリは見慣れているはずの笑顔を直視できなくて、ウインドウの向こうにある白い建物を眺めながら呟いた。


「友達というものを、わたしは理解していない気がする。でも、楽しく話せる相手が友達というのなら、そうなのかも」

「それだけで十分ですよ」


 ちらりと前に視線をやると、まだフクエさんは微笑んでいた。ミドリはなんだか妙に恥ずかしくなって、不機嫌そうな声を作る。


「仕事なんでしょ。資料を頂戴」

「はい」


 助手席に置いた鞄の中から、フクエさんが一通の茶色い封筒を取り出す。ミドリはそれを受け取ると、彼女に尋ねた。


「期限はいつまでなの?」

「決まっていないようです」


 珍しいな、とミドリは内心一人ごちる。

 ミドリがやっている仕事は急を要することが多い。こうやって車の中で仕事内容を話すのも、時短のためだ。

 今回、いきなり電話で呼び出されたということは、この依頼を渡されてすぐにフクエさんはこっちに来たということ。でも、期限が決まっていないのならそんなに急ぐことはないように思えた。


「そんなに急ぐ必要があるのかしら」

「お友達との時間を邪魔してしまって、本当にごめんなさい。でも、ちょうど近くにあなたがいたから、伝えておいたほうがいいと思って」

「近く――?」


 どういうことだろう。そう思いながら封筒を開き、中にある資料に目を通そうとした。

 でも、彼女は資料の一番上に書かれた『能力を使う対象の名前』をみた瞬間に、顔から表情が失われる。

 フクエさんの声が聞こえた。


「対象は、この病院に入院しています」


 ミドリは、記憶として覚えてはいるが、感覚としては忘れかけていた感情が湧き上がってくるのを感じた。

 震える唇で、言葉を紡ぐ。


「――今日は、もう帰るわ」

「ミドリ?」

「お願い。早く出して」


 そのあと、激情に任せてウインドウに拳を打ち付けると、急いでフクエさんは車のエンジンをかけて、駐車場を出た。

 こちらを心配するようにちらちらとバックミラーを覗き込むフクエさんを尻目に、ミドリは手のひらに顔を沈ませる。

 資料に印刷されていた名前は『新井桜』

 ミドリが能力を使う相手は、新井想の母親だった。


   三


 ミドリに会う前の、母とのささやかなふれあいのひととき。気持ちのいい日差しが差し込む病室で、新井想は過去に思いを馳せていた。母に関する記憶で一番古いものはなんだろう、と。

 想はよく記憶の中を探って、母について覚えていることがないか探すことがある。

 だけど、もう記憶は薄れ始めていて、結局、思い出すのは同じ記憶だ。そして、いつも最期は苦しくなって考えることを打ち切る。

 想が覚えている母との記憶、その中にいる母の笑顔は、ひとつ残らず偽物だ。作り物の喜楽を貼り付けた、はりぼてだ。その中に一瞬だけみえる悲しみだけが本物で、過去を思い返すたび、想は打ちのめされそうになる。思わず怒鳴って、周りのものを壁に叩きつけたくなるけれど、そんなことをしても疲れるだけだ。

 自分の持っている能力が、他人を癒す力を持っていればといつも思う。自分を満足させるものではなく、誰かのためにあるような能力であればよかったと、つい考える。

 そうすれば、眠り続ける母を救うことだってできたかもしれない。泣いている誰かを助けることだってできたかもしれない。

 窓から外の景色を――ミドリがいつもいる中庭を眺めていた。今日は彼女はまだそこには来ていなくて、からっぽの長椅子がちょこんと芝生の上に載っているのを見下ろす。

 想は眠り続ける母のほうに振り返る。

 白いベッドの上に沈んでいる中年女性は、不自然に若々しい。でも、想はその理由を知っている。顔に皺が見当たらないのは表情の変化が全く無かったからで、もう栄養の点滴しか受けていないから体型も変わりようがない。

 暗い水底に沈んでしまった石像だ。生きてはいる。でもそれだけで、浮き上がりはしない。目覚めることはない。もう、母の笑顔をみることはできない。

 想はいつもどおり、母の手をとった。やせ細った枯れ木のような指に自分の指を絡ませて、手をつなぐと、能力を使う。

 瞬間、想の心は母と同じになる。母が沈んでいる、悲しみの海の中に、想は飛び込んだ。


「――っ!」


 それは、まるで心臓をナイフで抉られるような恐怖と、終わりのない悲しみが支配する闇の世界だった。想は目の前の視界がぐにゃりと曲がったような気がして、もう片方の手で目頭を押さえる。

 想の能力は、『相手と同じ気持ちになる能力』。つまり、相手のありとあらゆる感情を、自らの心にそっくりそのまま写し取る。

 いま感じているもの、それは眠り続ける母が抱える闇だ。彼女が世界に対して抱える絶望だ。想はできるだけ理性的に判断しようとする。この感情はぼくのものではないからと、必死に考えた。でも、それは難しい。世界のなにもかもが、自分の心でさえ、色彩を失ってしまったように感じられた。

 モノクロに転じた世界で、手を目から離した想は母に話しかけようとする。今日も、このために来た。

 想はいつもより慎重に息を吸って、吐いた。


「母さん。今日はいつもより早く来たんだ。最近は暑いから。それでね――」


 想は、一言一言、音を並べるように話した。ひとつひとつの言葉を自分の中から取り出して伝えるたびに、母の心に耳をすました。もしかしたら訪れるかもしれない、心の変化を見逃さないために。

 時々想は、会話を切って天井を見上げた。自分を見失わないために。

 能力を解除すればいいだけなのはわかっていた。でも、どれだけ辛くてもそれをするつもりはなかった。想は、母と話すときは繋いだ手を離さないと決めていた。

 感情の整理が追いつかず、声に嗚咽が混じりはじめ、視界が霞んだ。

 本当に、嫌になる。こうやっていくら話しかけても、母の気持ちに変化はない。足しげく通って、楽しかったこと、嬉しかったこと、驚いたこと。たくさんのことを話しても、母は悲しみの海に落ちていく。想のせいで傷ついた心は、ずっとそのまま。能力でわかった。

 胸に広がるじくじくとした痛みと、鉛のような重苦しさに、想は耐えるように唇を強く結ぶ。

 手を繋いでいても、心を繋いでくれるわけじゃない。一方通行のテレパシーは、想の心をゆっくりと、確実にすり潰していく。でも、やめることは許されなかった。責任のとり方なんて、初志を貫徹してやり遂げるか、すべてを諦めて身を引くかくらいしかない。ふたつにひとつしかないのなら、前者を選びたかった。

 想は大きく深呼吸をして、話を再開しようとする。

 そのときだった。

 病室の扉が、こんこんとノックされる。想は、看護師が来たのだと思って、目に溜まった涙を拭う。

 そして、できるだけ明るい声を装って、言う。


「はい。どうぞ」


 一拍おいて、控えめに病室の扉が開かれる。そして、想は扉の向こうにいた来訪者に向かって、瞳を大きく見開いた。


「ミドリ……?」


 出会ったときと同じ、タンポポ色のブラウスに身を包んだ彼女は想を視界に収めると、表情をそっと崩して夕日みたいに儚げな笑顔を浮かべる。


「こんにちは」


 ミドリがそっと病室に入ると、扉が音もなく閉じた。




「どうして、きみがここに……?」


 動揺する心を抑えて、想はミドリに尋ねた。

 彼女は、そっとベッドに近づく。


「あなたに話があってきたの」


 いろんなことがわからなかった。想は、声が震えているのを自覚しながら、いつも通りを装う。


「それなら、中庭でしよう」

「いいえ、ここじゃないとだめ」

「どうしても?」


 彼女は黙って頷いた。想は内心苦々しく思いながら、相手のただならぬ様子に疑問を抱く。

 ミドリは部屋に備え付けられた適当なパイプ椅子のうちのひとつをつかむと、想のいるベッド脇にまで持ってきて座る。彼女は気遣いの感じられる口調で言った。


「あなたの、お母さんについての話よ」


 想は、自分の顔がはっきりと歪むのがわかった。

 何故彼女が母のことを話すのか。つながりがみえなかった。ミドリと母に、一体何の関係があるというのだろう。

 エアコンの効いた室内で、嫌な汗がじっとりと滲み出す。相手の口調が、これからとても良くないことを伝える証明のようで。

 想は、まるで陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクと動かしてから、頷いた。

 それをみて、ミドリはゆっくりと口を開く。


「わたしは、あなたのお母さんに、能力を使うために来たの」




 パイプ椅子に座ったミドリは、マジシャンがするように膝の前で手を広げてみせた。


「わたしの能力は、相手の心を満たす能力。これで、あなたのお母さんを救うことができる」

「救う……?」


 ミドリは頷いた。いつもの彼女と比べると表情は固く、動作もぎこちなかった。そうなっている理由は、考えるまでもない。

 目の前に佇む少女は、想の視線を避けるようにベッドの上の母に目をやる。彼女は黒色の瞳を細く狭めて、下唇を噛んだ。


「わたしが能力を使って、取り返しのつかないことをしたと言ったのを覚えてる?」


 昨日のことを忘れるはずがない。想が黙って頷くと、彼女は続けた。


「そのあと、この仕事に出会ったの。辛い思いをしている人を、そこから開放する仕事に」


 ミドリは開いた手のひらの片方を握りしめ、もう片方の手で拳を包み込んだ。自分と周りを傷つけた能力という理不尽な存在を、肯定するような動きだった。

 想はできるだけ冷静でいようと努めた。実際のところミドリが母になにをするのか想像もつかないけれど、意識していないと彼女に向かってかぶりつくように話しかけてしまう自信があったからだ。

 つらつらと語る彼女の姿は、どこか宗教めいてみえる。手のひらの組み合わせ方と言い、まるで祈りを捧げる信者だ。

 ミドリは言葉を切ると、視線を泳がせた。

 想は自然と、心の中で吐息をついていた。彼女の様子からは説明に慣れていないことからの緊張がありありと感じられた。でも、その姿に普段話している少女の面影を――大きな目を細めて笑う年相応の少女の姿を――みたような気がして、少しだけ安心したのだ。

 ショートカットにした黒髪の毛先が、顎に張り付いていた。彼女は指で顔に張り付いた髪を払うと、暑い息を吐き出した。


「想、お願い。私に能力を使う許可をちょうだい。そうすれば、この人を痛みの中から救い出せる」

「この人、じゃない」

「え?」

「新井桜っていうんだ。母さんの名前」


 別に訂正する意味を感じなかった。でも、なんとなく訂正しなければいけない気がした。思考未満の、条件反射的な反応だった。

 想の言葉に面食らったミドリは躊躇いがちに言い直す。


「新井桜さんに、ね」

「ありがとう。ひとつ聞いていい?」

「うん。いいよ」


 想はどうしても目の前の友人と母が結びつかなくて、頭の中がぐるぐるした。いや、結びつける材料はいくらでもあった。想が信じたくなかっただけだ。

 沈黙が世界を支配する。ただ生きるための空間に、藍色の空気が漂う。

 能力、少女、母。そこから導き出される結論は、いずれも負の感情を誘発するようなものばかりで、考えることすら苦痛だ。でも、想は考えた。

 椅子に座って向かい合っているミドリに視線を向ける。彼女は尋ねられたときのために、思案しているようだった。その小さなためらいは想にとって都合が良くて、彼女の気遣いを食べながら、頭の中を整理する。

 考えれば考えるほど、明確に答えはみえてきた。それしかない、といいたくなるくらい単純明快に。川が海に合流するように。

 想は小さく深呼吸してから、口を開く。


「ぼくの父さんが、これを依頼したんだね?」


 その言葉に、ミドリは黙って頷いた。

 つられて、想も重々しく頷いてしまう。考えついた時点で、そんなことをする必要はないのに。


「あなたのお父さんから――新井正導さんから、依頼があったの。桜さんを助けてほしいって」

「やっぱり、そうなるよね」

「予想がついていたの?」

「父は、そういう仕事をしているんだ」


 母を救うために、父は能力に関係した仕事に就いていた。数多の能力者の情報をまとめ、力を必要とする企業に最適な人材を紹介する仕事だ。だから、能力者の情報を大量に持っている。

 ミドリが人を助ける仕事をしていて、かつ母を救うことのできる能力を持っているのなら、父が接触しないはずはないし、依頼しない理由がない。むしろ、引っ越しの理由がわかってすっきりした。

 想は目の前に向き直ると、椅子から立ち上がり、深く腰を折った。

 相手の心を満たす能力。それなら、母の悲しみに沈んだ心を、浮き上がらせることができるかもしれない。


「母のこと、お願いします」


 ミドリは慌てたようになって、わたわたとした動きで立ち上がった。


「そんな、かしこまらないで……!」

「恩人になるかもしれない人に、いい加減な態度はとれないよ」


 ずっと探し続けてきた答えに、ようやくたどり着けるかもしれない。悩みの霧から抜けて、陽の光のもとに出ることができるかもしれない。

 しれない。がふたつ。でも、それは不安ではなくて希望の『しれない』だ。想は姿勢を戻し、ミドリをみつめた。

 ショートカットにした黒髪、頭髪との対比で映えるきめ細やかな白い肌。本来ぱっちりと見開かれているはずの大きな目は、いまは伏せ目がちで、表情も下向きだ。

 愛嬌のある顔立ちを困惑に染めている姿をみていると、到底彼女が想の家族の救世主だとは思えなくなってくる。

 想自身、まだ聞きたいことや、話したいことが沢山あった。「きみのことをもっと知りたい」あの言葉はその場限りの嘘ではない。正直、話をする友人という認識しかなかった彼女に向かって、どう接すればいいかわからない部分もある。家族のことを出された瞬間にいろいろなものが押しのけられて、思考の順序が変わってしまっていた。それは、想自身の幼さの現れだ。

 ミドリは昂ぶった意識を落ち着かせるように深呼吸すると、「失礼します」と呟いてから、掛け布団から母の右手をそっと引き出した。

 痩せて節くれだった、顔と比べて老けてみえる手。太陽光のもとに晒されていないせいで、母の肌は雪のように白い。病院全体に漂う潔癖な匂いと相まって、はじめて想がこの病室に眠る母のもとを訪れたとき、死すら連想できた。

 人によっては枯れた白木を思い浮かべそうなほど痩せこけた手は、顔以上に患者の深刻さを物語っていた。肌荒れ一つなく、すべすべとしているのに、全く健康的にみえないそれを、緩慢な動きでミドリは持ち上げる。

 想にはその瞬間が、スローモーションのようにみえた。彼女の一挙手一投足に注目していた。ふたりの白さは、同じようでいて違う。命の輝きを反射して輝くミドリと、死の儚さを漂わせる母。生と死の邂逅をなにひとつ見逃さないように、想は瞬きすら忘れて、じっとふたりをみつめる。

 ミドリは母の右手に自分の右手を重ねて、眼を瞑ろうとする。今から能力を使うのだと、誰もが理解できた。想は、いっそう集中して彼女の様子を目に焼き付けた。ずっと待ちわびていた瞬間を前にして、体が強張るのがわかった。

 だが、想は強烈な違和感に襲われる。その痛みは頭蓋を駆け巡り、脳を雁字搦めに拘束する。

 そして、痛みを感じてからの行動は早かった。ミドリが完全に瞳を閉じ、能力を使おうとしたとき、


「きゃ……!」


 想はすばやく右手で彼女の右腕をつかみ、母から引き剥がした。

 それは条件反射的な、自己防衛本能に基づいた行動だった。

 腕をつかまれたミドリが、驚きの表情を向けてくる。けれども想は、金縛りにあったみたいに動けないでいた。

 彼女の腕は細く、冷たかった。吸い付くような手触りのみずみずしい白い肌に、つい視線が引き寄せられそうになる。でも今はそんなことは全く関係ない。

 想はじっとミドリのほうをみつめていた。瞳を大きく見開いてじっと前を見つめるその姿は、自分がなにをしているのかわからずに、呆然としているようにも感じられる。


「何を――」

「痛いんだ」


 困惑の色をにじませたミドリの声を遮って、想は言う。声は震えていて、口にしている本人にも制御できないくらい、感情が暴走しているのがわかった。


「痛いんだよ。ミドリ」


 ますます表情を怪訝なものにする彼女に向かって、続ける。

 小さかったはずの感情の震えはやがて全身に伝播し、精神を大きく揺るがす。

 想は自分の手が震えていることに気づき、強く顔を歪ませた。

 でも、口は勝手に動いて、言葉を紡ぎ出す。歩き方を忘れてしまったみたいに拙く、山嶺の麓で一歩を踏み出したときみたいにゆっくりと。


「どうしようもなく、耐えられないくらい痛いんだ」

「あなたは……」


 相手に向けているようで向けていない言葉を読み取ろうとして、ミドリは眉をひそめる。

 感情のままに動いたツケはすぐにやってくる。想は自分の行動をうまく説明できなくて、表情をくしゃっと歪ませた。

 想の脳裏には、さっきの一瞬を切り取った映像が、ループとなって映し出されていた。繰り返し、繰り返し、再生されるたびに胸を締め付けて、強い力で想を縛り付けるそれは、時間にしては一秒に満たない。

 能力を使おうとしたミドリの顔に一瞬だけ浮かんだ、悲しみに歪んだ、傷ついた表情。それは想もよく知っている表情だった。


 ――あれは古傷をえぐるときの表情だ。


 そんなこと、少し考えればわかるはずなのに。意図的に視線を逸していたに過ぎない。想はズキズキと痛む心に叫びだしそうになりながら、空いている片方の手を痛くなるくらい握りしめる。

 涙で目の前がにじむ。すりガラスのような靄のかかった世界。想は視界を晴らそうと、目を閉じた。頬の上を、生暖かい雫が落ちていく。喉の奥から嗚咽が漏れた。

 頭の中で、母とミドリが重なる。ふたりの容姿は全く違う。でも、記憶の海に浮かぶ彼女らの表情は、とてもよく似ていた。それだけで、想にとっては動く理由になる。

 まぶた一枚ぶんの闇の向こう側にいるミドリが言った。


「想。落ち着いて。あなたのお母さんを傷つけるつもりなんてない。もしなにか気になっていることがあるなら、話し合いましょう」


 その声は理性的で、音を机の上に順番に並べるようにゆっくりとしていて、まるでスクラブルのようだった。

 彼女はこんな状況でも、一歩一歩、噛みしめるように進んでいく。想が作り出す感情の濁流に抗って、でも決して自分の感情をぶつけてくることはせずに。

 言葉が本心からのものだと、能力を使わずともわかった。そんなこと、当たり前だ。だけども、想は自分の中に、能力を使って相手の心を確かめたがっている自分がいることに気づいていた。

 そんなことは最低だ。だから想は、なにも答えられない。いま口を開けば、嘘をついてしまう気がしたから。


「もしあなたがわたしに負い目を感じているのであれば、それはただの勘違いだわ。わたしは望んでここにいるの。悩んで、迷って、でも助けを求めてくれた人がいるから、いまここに立っていられる」


 だが、そんな想になおもミドリは優しく語りかけてきた。自分に非は無いのだから、思い切り振り払うこともできるというのに、彼女はそれを決してしなかった。

 きゅ、という音と一緒に、嗅ぎ慣れない匂いが鼻腔まで漂ってくる。想が使ったことのないシャンプーの香りだ。いつもは芝生の匂いにかき消されていて気づくことがなかったから、少しだけどきっとする。


「ねぇ、想。あなたはなにをみているの? わたしにも教えてよ。お願いだからあなたの世界の中に、わたしを入れてよ」


 近づいてきたミドリは、さっきよりかは幾分か強い口調で話した。でも、結果として祈るような口ぶりになっていた。

 冷たい感触が片頬を包み、流れる涙をそっと拭われる。ひやりとした感触に多少驚いて目を開くと、目と鼻の先に微笑むミドリの姿があった。腕を強い力で持ち上げられながらも、嫌な顔一つせず、優しく笑う少女の姿が。


「やっと、目を開けてくれた」


 想の涙の筋を途切れさせてから、静かに言葉を落とす。優しい声色と相まって、実際の年齢より大人びて感じられた。だけど女の子にこんな表情させて、正しいわけがない。

「きみが能力を使おうとしたとき、辛そうな顔がみえたんだ。誰かが悲しんだり、苦しんだりすることが嫌で、こんなことで喚いてしまう、自分のことも嫌いなんだ」

 他人の痛みを自分のものにする。言葉だけ聞くと美しいように感じられるけど、実態は違う。ただ痛みに弱いだけだ。現実を認められずに、都合のいい部分をみていたいだけだ。


「自分の中にある汚いものをみたくないだけで、それが決して正しいことじゃないとわかっていても、やらずにはいられないんだ」


 ――ぼくは他人の中に、勝手に昔の自分を見出している。


 泣いて、叫んで、懺悔し続けたあの頃の自分を否定したくて、いろんなことが嫌いになった。本当は、人と話すことだって嫌いなのだ。自分を守りたいから、自然と避けるようになった。

 ミドリは急かすわけでもなく、相づちを打つわけでもなく、ただ黙って相手の言葉に耳を傾けていた。

 想が言葉を区切ると、ミドリは掴まれた腕の方に、もう片方の手を近づける。そして。緊張でうまく動かない想の手のひらに触れて、その指を一本一本解きほぐしていった。

 想は、自分ではどうすることもできなくて、視線を落とす。


「ごめん」

「謝らなくていい。大丈夫だから」


 ほつれた糸がほどけるように、想の昂ぶった精神も落ち着いていく。やがて開かれた想の手のひらの中から、ミドリの腕がすっと抜ける。

 そのまま両手で想の右手のひらをマッサージしながら、彼女は言った。


「想。大事なことはたったひとつの事実だと、わたしはいつも思ってる」

「それは、どんなこと?」

「わたしは昔、能力で取り返しのつかないことをした。今だって後悔してる。でもね、ある人に言われたの。あなたの能力で、助けられる人がいます。って」


 彼女の手は細くて、力も弱い。だけど、逃れられない何かがあった。差し出されたらつかみたくなる、そんな魅力を持っていた。


「確かに、能力を使うとき、痛いし、辛いわ。悲しくもなる。でもね、それ以上に、この人を――あなたを助けたいの。大切なことは、きっとそれだけ。それだけでも、痛みに耐える価値はある」


 誰かを助けて、自分も救われる。相手と自分の中に生まれるやすらぎ。傷ついてでも、手に入れる価値のあるものを知っているミドリの姿は、想にとって直視できないくらい眩しい。


「ぼくには、痛みに耐えてでもなにかを成し遂げようとしたことなんて、ないんだ」


 幸せに至る道に悲しみや苦しみがあるのだとしたら、そんなものなくなってしまえばいい、どうしてそんな思いをしなければならないのだろう? 能力を手に入れたときから、ずっと考えている。他人の痛みを知ってから、こんなにも痛いのだと知ってから、想は怖くなった。

 あんなにも痛いのに、あんなにも苦しいのに。人が苦しむ姿なんて、みたくもない。

 気づけば駄々をこねる子供のように首を振っていた。

「能力なんてものがあるのに。願うだけで手に入る力があるのに、苦しむことばかりだ。人一人救えやしない。逃げ回ることにしか使えない」


「でもあなたは、何度もお母さんの病室に来て、語りかけている。痛みに耐えている。逃げてなんかない」

「母がこうなったのはぼくのせいだ。痛いことや苦しいことが嫌いなのに。世界で一番そんな思いをしてほしくない人に、ぼくはひどいことをしたんだ。当然の報いだよ」

「けど今のままだと、あなたはいつまで経っても前に進めない。だからあなたを助けるために私がきたの」


 想はミドリの柔い拘束からぬっと抜け出すと、緩慢な動きで後ずさり、パイプ椅子に腰を下ろす。

 動きに合わせて、ミドリもしゃがみこんだ。


「あがけばあがくほど、痛みが広がっていく。きみにまで……」

「それはあなたの痛みじゃない。能力で心を写し取ることはできても、それは鏡像のようなもの。本当の心まで苦しむ必要なんてない」

「……知ってたんだね、能力」

「ごめんなさい。あなたのことは、いろいろと教えてもらった」

「じゃあぼくがなにをしたのかも――」


 ミドリは無言で、こくりと頷いた。想の口が自嘲に歪む。


「――そっか。きみには知られたくなかった。でも、しょうがないね」

「強がらなくていい。付き合いは短いけれど、あなたが優しい人だということは知ってる」

「もしかして、ぼくと話すようになったのも、これのため?」


 口にしてから、失言に気づく。最低なことを言ったと自覚する。思わず、視線を逸らした。

 でも彼女は、優しく語りかけてきた。


「違う。あの出会いは本物。そこからの交流も本物。わたしは結構、あなたとの会話を楽しみにしていたのよ?」


 言われて嬉しいことは確かだ。でも想は、素直に喜べない。甘えているように思えたのだ。


「今日はきみを傷つけてばかりいる。辛いからって、そんなことしてはいけないのに。本当に優しいのなら、事前に気づくはずさ。適切な言葉を選べない時点で。ぼくは優しくなんてない」


 ミドリは首を左右に振った。つややかな黒髪がさらさらと流れ、彼女の頬を撫でる。


「今日、本当は迷っていたの。能力を使うべきかそうでないかを。使えないかもしれないとも思ったわ。だけどあなたと話してわかった。想、あなたを助けるために、わたしはここにいるんだって」


 ミドリは強さと優しさの入り混じった態度を崩さなかった。


「ぼくを――助けるため?」

「いちばん苦しいのは、あなただから。ふたり分の苦しみを背負わなくていいようにするために、わたしの能力はあるの」


 想の右手の上に、柔らかくてひんやりとした感触が訪れる。


「想。あなたの能力を、わたしに使って。わたしの心を、あなたに重ねて」


 想は、泣いて赤くなった瞳でミドリをみた。視線に込められた意思を読み取って、彼女は微笑む。


「いまのわたしが悲しんでいるかどうか、確かめてみて」


 重なった手のひらをみる。日に焼けた茶色の肌の上に、冷たい白が載っていた。

 想はミドリの微笑みに誘われるように能力を発動させると、次の瞬間、動揺した瞳で彼女をみた。

 目の前で笑みを浮かべるミドリは、そっと頷く。


「ほら、全然辛くなんかない」

「ミドリ……」


 嘘だ。彼女の心には喜びがあった。でも、器を満たしている感情はそれだけではない。

 喜び。悲しみ、苦しみ、つらみ。いろんな種類の絵の具をかき混ぜたような、混沌とした感情が、そこにはあった。タールのようなどろどろとした思いが胸いっぱいに広がる。想はこの黒に近い色の中から、悲痛なまでの覚悟と、相手を安心させようとする思いやりをみつける。

 そして気づく。相手の表情は、笑顔より泣き顔に近いのだと。


「あなたは、泣いてばっかりね。想。わたしはこんなに、晴れ晴れとしているのに」


 気づけば、想の頬をまた涙が伝っていた。


「やっぱり、あなたは優しい。自分では違うと言うけれど」


 ミドリは、しゃがみこんだ状態から元に戻る。繋いだ手が、するりと解けた。想は彼女の温もりを取り戻そうとするけれど、もう遅い。

 ミドリは母のそばまで移動すると、母の手のひらにそっと触れて、落とすように呟いた。


「優しいっていうのは、悲しみに敏感だってことなのだと思う。あなたは泣き虫だけど、わたしが出会ったどんな人よりも優しかった」


 彼女は、震える声で付け足す。


「ありがとう。わたしの代わりに泣いてくれて」


 彼女も、どうしようもないくらい強い力で縛られている。

 能力で心を写し取ってから、想は急激に自分の心が冷えていくのを感じていた。心の中にある、覚悟の残滓が冷静さを取り戻させたのだ。

 想は立ち上がり、ミドリのもとへと歩く。接近に気づいた彼女は一瞬身構えたが、想の手が自分の手にそっと重ねられた瞬間、目を見開く。


「え――!? ちょ……っ!」


 今最初の頃とは別種の驚きに表情を染めるミドリに向かって、想は首を横に振った。

 そして、言う。


「お願いがあるんだ」


 涙の筋が新しく刻まれた顔は、きっとひどいものなのだろう。ミドリは想の顔をちらちら覗き込んでは、視線が合うと身をすくませるという行動を繰り返していた。

 想は要求を伝える。

 そのあとの彼女の感情は、能力を使わずとも理解することができた。


   四


「能力を使うとき、ぼくと手を繋いで」


 想の要求は、たったそれだけ。でもその一言は、ミドリの心を揺さぶるには十分だった。

 彼女は、怯えるように首を振る。


「だめ。それだけは嫌。これは譲れない」

「なんで? さっきは自分から能力を使えと言ってきたのに」

「あれは、わたしの覚悟を伝えたかったの。あなたにはそっちのほうがいいと思ったからよ」


 そう言って彼女は、非難するような視線を想に向ける。精一杯きつい顔を作ろうとしているのが見え見えの、とても険しいとは言えない表情だったけれど。


「手を繋げば、言わずともあなたは能力を使うでしょう?」

「そうだよ。能力を使うために、手を繋ぐんだ」

「それじゃなにも変わらないじゃない……!」


 珍しくミドリは声を荒らげる。繋いだ手に汗が滲んでいた。能力使っていなくても、いまの彼女の気持ちは手に取るようにわかる。


「あなたはわたしの心を自分のものにしたいんでしょう? 悲しいことが嫌いだと言うくせに、それを内側に抱え込もうとするんでしょう? お母さんの次は、わたしの悲しみを!」

「これ以外にいい方法を、ぼくは思いつけない。あんな悲しげな顔をされたのにじっとしているなんて、できるわけがない」


 思いつけた、試しがない。

 ミドリは顔をそむける。手は繋いだまま、あさっての方向を向く。

 震え混じりの声が、想の鼓膜を打つ。


「そんなの嘘。だってあなたは、わたしにいろいろなことを話してくれた。話すだけで、救われる人だっている」

「それじゃ足りないんだ」


 能力者は大なり小なり、能力に囚われる。それは能力が、満たされない部分を満たすためのものだからだ。願うだけで結果を得られる、その誘惑は、想像を遥かに超える。

 でもそれは言い換えれば、本人にとって、痛みに耐えてでも使う価値があるということにもなる。


「あなたのお母さんみたいなひとを、また生み出すことになっても? 例えばわたしが傷つくとしても、あなたは能力を使うというの?」


 想はミドリの問いに重々しく頷いて、言った。


「それが――正しいと思うことなら」


 能力をコントロールすることはできても、使うことをやめられない。これは変えようがない事実だ。そして、能力を使う限り、母のような思いをする人が出てくる可能性は捨てきれない。

 想は自分の能力が嫌いだ。それは今でも変わらない。だけど、使うべきときは能力を使うと、ずっと昔から――母に能力を使った日から――決めていた。


「また、母のときのように能力で人を傷つけてしまうことを考えると、どうしようもないくらい怖くなる。でも、目の前に悲しみがあるのなら、ぼくはそれを引き受けたい」


 能力を手に入れたときのことは、よく覚えている。小学校に上がる直前の時期、自室で泣いていた母を助けたくて。手を握った。瞬間、母の心が自分の中にそっくりそのまま落ちてきた。あの日のことは、絶対に忘れない。

 母は自分に残されている時間があと僅かなのだと知っていた。母親でいられる時間の終わりが刻一刻と迫っていることを知っていた。そして、その『恐怖』を想も知った。泣き叫ぶ想の様子から、母は事態を繊細に感じ取った。

 想に能力が目覚めてから、両親と想の関係は変わった。母は日常生活の中で手袋をつけるようになった。想は必死になって能力の制御を練習したけれど、完全に能力をコントロール下においた頃には手遅れだった。制御の上達より、母に限界が訪れるほうが早かった。

 それでも、能力を使うことはやめられなかった。


「――ぼくにできることは、全部したいんだ」


 困ったり、悩んだり、悲しんだりしている人がいるのなら、それを全力で助けたい。そのためには嫌いな能力だって、自分が使えるありとあらゆるカードを切ってみせる。


「ぼくに母さんを救うことはできないのかもしれない。そう考えるのは苦しいし、悲しいし、叫びたくなるよ。でも、それができるきみを助けることはできるかもしれない」


 目の前にいる女の子の苦しみは、普通の方法では消せない。いや、普通じゃなくても消すことはできない。

 けれど、一緒に背負うことはできる。


「人の思いを塗りつぶしてしまう能力なんて、使うことが辛くないはずがない」


 少し考えればわかるはずだ。心を満たす、それは人に幸福を与えることにほかならない。でも、使い方を間違えれば、それは人を殺すことと同義になる。

 他人の心で自らの心を塗りつぶしてきた想は、決して人が満たされることはないと知っている。完全な球体が存在しないように。

 想の言葉を聞き終えたミドリは、震える声で呟いた。


「バカ、自己中、ろくでなし……!」

「本当に、ごめん。でも、これだけは譲れないんだ」

「あなたは、なにもわかっていない、わたしは大丈夫なはずなのに、これが正しいことなのだと信じているはずなのに、話していると、自分が間違っているような気さえしてくる」


 間違っているはずがない。痛みに呻く人を救いたいと考えるのなら、能力を使うことも選択肢のひとつだ。過去を乗り越えて、それを選んだ彼女の意思は、間違いなく正しい。

 ミドリはその薄紅色の唇を動かして、声を絞り出した。顔にかかった影の中で、瞳だけが夜の湖面のように輝く。


「おとぎ話であるように、不思議な魔法使いが困っている人の前に現れて、その人に魔法をかけて幸せにして、全て丸く収まって終わり。これでいいじゃない。どうして、それを邪魔するのよ……!」


 だんだん刺々しくなる声。でも想はひるまない。


「見過ごせるわけないじゃないか。きみのやっていることは正しい。それは疑いようのない事実だ。母はもしかしたらきみの能力を受けて、目を覚ますかもしれない。ぼくら家族の未来を、きみは間違いなく救ってくれる」

「だったら……!」

「きみに責任を押し付けて、それで終わりになんてしたくないよ」


 ミドリは目尻を裂かんばかりに大きく目を見開くと、出しかけていた言葉を飲み込んで、困惑した表情こちらをみつめる。


「確かにぼくの能力は、他人の痛みを自分のものにする能力だ。はじめて能力を使ったとき、ぼくは母の気持ちが知りたかった。けどね、悲しいことだけに目を向けるんじゃなくて、もっといろんな気持ちを感じたかったんだ。――だって、相手が笑えば、ぼくも笑えるから」


 この能力は嫌いだけど、いいところもある。悲しみを半分にして、喜びを二倍にできるところだ。

 想は、ミドリの手を優しく握りしめる。


「ねえミドリ。ぼくはきみが辛いとき、一緒に泣きたいんだ。きみが楽しいとき、一緒に喜び合いたいんだ。悲しいことはこれから沢山あるよ。でも、どうしても立ち止まりそうになったとき、手を繋いで同じ景色をみれば、きっと歩いていけるはずだから」


 ミドリのおかげで、想は思い出すことができた。能力を得た理由を。想はただ、ひとりぼっちで泣いていた母にひとりじゃないと伝えたかっただけだ。悲しみに暮れる相手の心の中から、どんなことでもいい、喜びをみつけだしたかった。

 想は精一杯の感謝を込めて、うつむくミドリの顔を覗き込む。


「こうなったのはぼくの責任でもある。だから、一緒に背負わせてほしい」


 ミドリがどんな表情をしていたのかは、よくわからない。でも、彼女が口にした言葉に、想は微笑んだ。




 想の能力は、自分の手と相手の手が重なり合っていれば能力の発動条件を満たす。

 想はいくらか落ち着いた雰囲気になった室内で、母の手を握ったミドリの手の上に自分の右手を重ねる。


「能力を使うよ」

「ええ」


 そして、想は能力を発動する。瞬間、目の前の景色がぐにゃりと歪んだような気がする。

 もう何度もやってきたことで、いい加減慣れた。相手の心をこの身に写し取るのは、相手の価値観で世界に触れるということ。心一つで、どんな事象も変化する。ただの赤色をこの上なく美しいと感じる人もいれば、醜いと感じる人だっている。


 ――今彼女は、とても優しい気持ちだ。


 その結果に、想は安堵する。自然と頬が緩み、彼女の方をみていた。


「そんなにこっちをみないで。緊張する」

「ごめん」


 案の定、目が合って注意されてしまう。彼女はこちらの動向に気を配っているようだった。でも、それには納得がいく。一方的に心を読まれているのだから。


「そろそろ、能力を使う」


 彼女が告げると、心の奥からずしりと重苦しい感情が現れる。それを感じ取った瞬間、想は息をつまらせた。

 ミドリは横目でこちらを確認しても、特に何も言わない。一瞬心配そうな視線を送ってきてくれたので、それだけで十分だ。

 相手の悲しみに触れたとき、想はできるだけ客観的に心を眺めることを心がけている。感情は相手と同じになるが、思考も同じになるわけではない。

 ミドリの黒水晶みたいな気持ちに押しつぶされないように、想は集中した。

 ミドリの手が、柔い力で握られる。直感的に、能力が発動するのだとわかった。胸の中にある巨大な黒い感情が砕けて、体中に広がっていく。想は、全身に広がる痛みによろけそうになりながらも、必死に踏ん張る。

 出来事としては、たったそれだけだった。別に眠る母の口が笑顔の形に歪むわけでもない。目覚めるわけでもない。だが、決定的な事実を、想はみつける。

 ミドリが手を離すと、自然と三人はばらばらになった。


「これで、終わり。お母さんがどうなったか、あなたの能力で確かめてみて」


 想は、純粋に目の前の少女の言葉の意図を探った。もしかしたら怪訝な表情になっていたかもしれない。けれど、結局は相手の言葉に乗ることにする。

 少しの沈黙のあと、できるだけ普段通りの自分を心がけながら、言った。


「わかった。やってみるよ」


 無言でミドリに促され、想は母の手を握る。次に目を閉じて、能力を使うと――


「……っ!」


 想は心を満たした感情に、息をするのも忘れて浸った。

 今まで体験したことのない感情だった。例えるなら、欠けていない完璧な状態。完全な球体。心の隅から隅を理性で確認して、分析してみても非の打ち所がない、完全な幸福。

 生まれて初めての感覚に、想は打ち震えた。幸せなまま、すっと目を開け、周りをみる。

 満たされた心を持って眺める世界は、花束のように色鮮やかで、美しく映った。もうなにもいらない。そう思えるくらいに。心が完璧に調律され、理想的な音楽を奏でていた。感情の雑味が存在しない、凪ぐような音楽を。

 想はすべてを忘れて、病室内を見渡す。母が沈み込むベッドや、窓枠の外にある庭をみても、どれも同じように美しかった。

 想は隣にいるミドリに向かって、声をかける。


「ミドリ、ありがと――」


 でも想の隣にいるはずのミドリは、いつの間にかどこかへ消えていて、

 想は首を傾げ、もう一度呟く。


「ミド――」


 きっと、あまりの多幸感に鈍感になっていたのだ。言葉と一緒に彼女を探し求めるため、体が動き、重なった手が外れる。

 その瞬間、体に襲いかかった負荷に、想は倒れ込む。咄嗟に手で掴んだパイプ椅子は体重を支えることができず、室内に鈍い音が響いた。


「……っくは……ぁ……ッ!」


 想は胸を片手で押さえながら、玉のような汗をかき、荒い呼吸を繰り返す。急激に色を失った世界で、這いつくばるように母の手を握ろうとした。そして、手を伸ばした瞬間に、あることを思い出す。

 胸の奥に広がる、黒水晶のような感情、そして、自分がいなくなる恐怖。それらが、想を現実世界に繋ぎ止める。

 想は伸ばした手を握りしめると、床に拳を叩きつけた。


「馬鹿野郎!」


 それは紛れもない、自分に対する言葉。想はややあって立ち上がると、再び辺りを見渡す。ミドリの姿はどこにもない。想は顔を後悔に歪ませる。

 しなければいけないこと、伝えなければいけないこと。なんにも達成できていない。想は振り向いて、眠り続ける母に告げる。


「ごめん母さん。用事を思い出したから、今からそっちに行ってくる」


 そして、想は走り出した。


   *


 ミドリは、病院の廊下をひとり歩いていた。瞳に涙を溜めながら。

 新井想を泣き虫だと言うことは、ミドリにはできない。だって、自分も似たようなものだから。

 彼女は当てもなく歩いていた。いや、逃げていた。行き先は決めていなかったけれど、自然と足はいつもの場所に向く。

 中庭に続く廊下を通り、扉を開けて外に出る。そのまま道なりに歩けば、コの字型の病院のくぼみの部分に作られた中庭に出る。

 乱暴な足取りで進み、長椅子に近づく。大きなけやきの木も一緒だ。

 長椅子に座り込むと、少女は大きなため息をつく。ここ最近いつも隣にいた少年が聞いたなら、涙色の声とでも言うだろう。

 少女は考えた。悲しみの滲んだ頭で。時々思いを溢れさせそうになりながら。


 ――わたしは、最低なことをした。


 わかっていた。想の能力をわたしの能力対象に使ったら、なにが起きるのか。自分の能力がもたらすものと、奪うものを自分が一番よく知っていた。

 能力を自分の母に使い、それを解除したときのことを覚えている。

 十にも満たない少女に縋り付き、能力を使ってほしいと懇願する母の姿が、未だ瞼の裏に焼き付いて離れない。

 それを同じ意味のことを、あろうことか友達に強要した。理由は簡単だ。単純に彼のことを信じることができなかったからだ。


 ――ぼくにも背負わせてほしい。


 彼の真摯な言葉を信じることができなくて、禁止されている意識のある人間への能力使用と同義のことをした。たったひとりの友達を、自らの意思で傷つけた。

 ミドリは手のひらをみつめる。


 ――自分の能力なんて、大嫌い。


 いや、能力ではない。ミドリは自分が嫌いだった。持ってしまった力ではなく、そんなものを願った自分が憎かった。ただ目の前の人の悲しみを消したかっただけなのに、能力をうまく使うことができない、うまく歩けないのがもどかしい。

 まだ、なにも言っていないのに。伝えたい言葉は沢山ある。あの少年と、もっと話して、他愛のないことで笑い合いたかった。なのに、自分の手でそれを壊した。相手を助けるために発現した能力で。

 中庭に差し込んだ日差しが、草木の緑色を輝かせる。強い光と熱気に目を瞬かせた。その美しい光景すらも、自分を責め立てているように感じる。

 ミドリは、もう一度息をつく。今度はさっきよりも深く、長く。

 罪悪感がナイフのように心の内側をえぐり、大事ななにかを削ぎ落としていく。その痛みは時間とともにひどくなっていって、ミドリは長椅子の上で蹲るように背中を曲げた。

 傷ついた部分から溢れてくるのは、血のような思い。今まで抱えていた、押し込めていた感情が体中を蹂躙していく。

 ミドリはそれを必死に押し止めようとする。理屈をつけて、あるいは考えないようにして。胸のうちにしまっていたそれらは、自覚することすら嫌な、闇の部分だ。でも、いまのミドリは、それすら失った自分をイメージすることができなかった。

 必死に押し止めようとするけれど、うまくできない。理性よりも感情が強く働いて、だんだん肉体にも変化が訪れた。

 いつの間にかミドリは泣いていた。その事実に気づいたのは、溢れ出した涙が視界をぼやけさせたときだ。ミドリは震える体を自分の腕で抱きかかえる、誰もいない中庭で。昔と同じように。

 この感情すら失うことが辛かった。胸の奥に溜め込んだ澱のような、原始的な悪意の塊。幼い頃から積み上げてきた、不幸や理不尽に対する嫌悪感。自分で自分を嫌になる理由さえ、今は手放したくない。これを失えば、もう本当の意味で空っぽになってしまうかもしれないから。

 体中で暴れて、溢れ出す思いを止められない。誰にも聞かれることがない音楽が、虚しく響き渡る。

 だれかに、これを聞いてほしかった。自分の抱える思いを聞いて、理解してほしかった。でも、それができる人はもういない。自分自身の手で、砕いて壊してしまった。

 それでも、ミドリは彼の名を呼んだ。身勝手だと自覚しながら、ふざけるなと心の中で自分を罵倒しながらも、ただひたすら奇跡を願った。


「想……助けて……」


 それは、小さな小さな呟きだった。誰にも聞かれる、聞こえるはずがない、自分にしか聞こえない声。

 でも、それを呟いたとき、小さな風が吹く。その声を載せて、世界中どこまでも運んでいってくれるような、そよかぜが。

 目の前の大きなケヤキの木や、芝生がかすかにそよぎ、ミドリの瞳に溜まった涙も、風とともに散っていく。

 その感触に慣れなくて、目をつぶった。そして、目の前の景色を涙のフィルターなしでみられる気がしなくて、しばらくそのままでいると、耳にどこかの扉が勢いよく開く音が聞こえた。

 まさか、ありえないと思いつつも耳を澄ます。勢いよく走っているのか、扉を開ける音がしてからすぐに、芝生を踏みしめるざくざくとした音が鼓膜を揺らした。

 その音は、長椅子の近くまで来ると、狙いすましたかのように止まる。それから聞こえてくる肩で息をする声や、視界を黒くする影の感触に、ミドリはまた泣きそうになった。

 目の前で立ち止まった人物は、決して自分から口を開くことはしなかった。こちらから話しかけるのを待っているようだ。それか、顔を上げるのを。

 そんなことをする人は、少なくともミドリの交友関係の中ではひとりしかいない。それでも、確信が持てなくて、顔を上げるのが怖かった。もし、誰か別の人だったら、そう考えると、どういう顔をすればいいか、わからない。

 せめて、なにか確証が欲しかった。

 ミドリが迷っていると、その頬に、なにかぬるいものが当たった。それは、自分たちふたりのよく知っている、ふたりだけしか知らない秘密への鍵のようなもの。

 ミドリが確信を持って、そっと顔を上げると。


「隣、いいかな」


 目の前に、待ち焦がれた少年がいた。


   五


 額に汗をにじませながら、新井想は長椅子の上でうつむくミドリをみつめる。彼女はそっと頭を持ち上げると、弱々しく頷いて、言った。


「ごめんなさい。わたしはあなたを、傷つけた」


 彼女の表情は、泣いているのか笑っているのか、よくわからない。自分自身さえ見失ってしまったかのようだった。でも、伝えたいことはわかるから、想は笑顔をつくる。うまくできないかもしれないけど、できる限りの笑顔を。


「そんなこと、どうでもいいよ」

「そんなわけない」

「いいや、そんなわけあるさ」


 ミドリの顔に、疑問の色がにじむ。彼女は、なぜ想が笑っていられるのか、穏やかでいられるのか、瞳だけで問いかけてくる。

 きっと彼女はいま、自分のことを嫌われて、憎まれて当然だと思っている。決して、そんなことはないのに。だから想は、考えうる限りの単語を組み合わせて、ストレートな表現を探した。


「ミドリ、簡単なことだよ。きみが辛いとき、ぼくも辛い。きみが嬉しいとき、ぼくも嬉しい。だから、今のぼくはとても優しい気持ちでいられるんだ」


 正直、歯が浮いてどこか遠くに飛んでいってしまいそうな気がした。いままでにないくらい直球で、ともすれば愛の告白とも勘違いされかねない台詞の数々。だけれどそれは、紛れもない本心だ。

 でもミドリは、瞳に涙を溜めたまま、欠片も晴れ晴れしくない表情のまま。


「わたしのどこが、優しいと言うの? あなたを裏切って、あまつさえ壊そうとしたのに」


 そういう彼女の瞳には疑念が満ち満ちていて、思いの底がみえない。けど、だからこそ、飛び込む価値がある。想はミドリをまっすぐみつめる。


「ぼくがそう思うからだよ。誰かのために泣けるきみだからこそ、能力が発現した。願いが純粋だからこそ、その力があるんだ」


 ミドリが、息を呑むのがわかった。でも彼女は、すぐにその吐息すらも、深い闇の中に沈ませてしまう。まるでみえない傷の痛みに呻くように。


「だとしたら、その願いを間違えたんだわ。わたしの能力をその身で感じ取ったのなら、わかるはずよ。あれは、この世界にあっていいものじゃない」

「それでも、救える人がいると思ったから、能力を使い続けたんでしょう?」

「もしかしたら、わたしの能力で死人と同じになった人もいるかもしれない、そんな思いから目を逸らしてきた。誰かのためと言いながら、実際は自分が力を振るいたかっただけ」


 想は辛抱強く、ミドリの言葉に耳を傾ける。彼女の声には、ずっと心の奥底で抱え続けていた――辛いのに手放すことができない思い出が作り出す感情が込められていた。それは、痛みとともに彼女を縛り付けている。

 ずっと昔にした約束のように、強くて、悲しい感情だ。悲しさと美しさは紙一重なのだと、想は思う。だから人は悲しい思い出を、辛い思い出を手放せない。自分が傷つけば傷つくほど、輝きを増していく宝石だとでも言うように。

 想だって同じだ。過去の記憶に囚われている。


 ――だけど今日、それは変わった。


「あなたのお母さんだって――」

「それは違う」


 たった一言、でもとても強い力のある言葉で、想はミドリの言葉を遮る。内側に怒りのない、穏やかな語調で。


「能力がなければ、ずっと母は闇の中をさまよって、ずっとあのままかもしれない。誰かがなにかをするたびに、なにかが連鎖して、誰かが傷ついたり、喜んだりする」


 ――でも、それを恐れていては、なにも始まらない。


 想は言葉を切ると、ぎこちなく首を振る。


「ぼくはそれでも、それでもって言いながら進むことが正しいって思うよ。悲しんだり、苦しんでいる人に手を差し伸べることが間違っているなんて、そっちのほうが間違いなんだ」


 自分の言っていることが、理想論だなんて、わかっている。これが能力を肯定するために作り出された、都合のいい考えだと。それでも想は、実在するものを肯定することが、悪だとは思えない。

 彼女は歯を細かくぶつからせながら、輪郭の震えた声を出した。


「怖いの。わたしのせいで死んだ人がいるかもって、ずっと胸の中にある。あなたならわかるでしょう……? それでもやめられないの。自分にできることをやらなくちゃ」


 ときに、自らの正義が自分自身さえも苦しめることがある。想はミドリの瞳を直視することができずに視線を落とした。そして、ややあって口を開く。


「ずっと、母は傷ついていたんだ」


 想は、言葉を噛みしめるように話した。


「ぼくの能力で傷ついて、誰にも救うことができなくて。深海に沈み込んだみたいに暗くて、動けない世界の中に、母はいたんだ。生きることすら諦めていた。そう思うよ」


 想はミドリの頬に当てた紙パックの飲料を、そっと動かす。時間が経って、もう冷たくはなかったけれど、ミドリは少しだけ名残惜しそうに顔を動かした。

 そしてそのまま、ふたりの視線が重なる。ミドリの瞳にあるのは、夜の闇のような黒。でも中を覗き込んでも、星々の輝きはみえない。内に秘めた感情すら闇に溶かしてしまったのかもしれない。だから想は、光を見出すため、その中に飛び込む。


「わたしの能力は心を変える。思いが変われば思考も変わる。わたしは沢山の人から選択肢を奪ってきた。もしかしたら、死を後押ししていたのかもしれない」


 きっと彼女は、ずっと悩んでいる。いまも悩んでいる。能力を使うたびに浮かび上がる疑問に、決着をつけられずにいる。

 自分が能力を使うことは、その人に引導を渡すことと同義なのではないかという、ひとりで背負うには重すぎる、怪物のような疑問だ。

 でも、想はその疑問が間違いだと知っていた。いや、気づいた。

 想は、夜の湖面にそっと足をつけるように、波紋すら浮かび上がらないように、ゆっくりと話しかける。


「きみが能力を使って、母は変わった」


 ミドリの息が、一瞬苦しげに途切れた。痛む胸を抑えて、想は続ける。


「母の心を通してみた世界は、とても輝いてみえた。ぼくの能力では相手の思考まで読み取ることはできない。でもね、はじめてだったんだ。母の心があんなにも楽しそうにしているのは」


 そして、想はミドリの前にしゃがみ込み、片膝をついて右手を差し出した。その手には、ミドリがいつも飲んでいた、オレンジジュースのパックがある。


「きっと母はいま、幸せな夢をみている。ミドリ、きみの能力は、世界を美しくする能力なんだ。決して、きみが思っているような能力じゃない。明日を生きる力をくれる、そんな力だ」


 その言葉を聞いた瞬間、ミドリは瞳を涙で輝かせる。決して表情は変わらなかったけれど。


「きみは能力を使って人を殺したみたいに言うけれど、それは違う。その能力は確かに人を変えてしまう、強い力だ。でもね、物事を決断するのは、結局自分自身なんだよ」


 ミドリは、想に向かって手を伸ばした。なのに、想の近くにまで来ると、それは引っ込んでしまう。きっと、想が手を伸ばしても、一緒だ。

 だから想は、彼女が掴まなくても大丈夫なように、言葉を届ける。いまのミドリの気持ちは、能力を使わずともわかった。


「なにをしたら、どうなるかなんて、だれにもわからない。本人にさえも。だからこそ、みんな最善を尽くそうとする。足掻いて、選択して、それに影響されて周りも変化する。誰かが誰かの選択を奪って生きているんだ。だから、自分だけが悪いようにものを言うのは、傲慢だよ」


 ――そんなこと、ぼくが言ったって、説得力がないかもしれない。想は内心自嘲しながら、続けた。


「選ぶのは辛いし、重いし、苦しいよ。でも、それで救われる人もいる。世界中の人を平等に救うことはできなくても、きみを求める人を救うことはできる。ミドリ、きみ自身がいった言葉だ――大事なのは、きっとそれだけ」


 想の言う道は、茨の道だ。死や恐怖と向き合い、あったかもしれない可能性に悩みながらも、痛みに耐えて進む。それが最善なのだと信じて。目の前の助けを求める人を救えると信じ、能力を使い続ける道だ。


「能力を使うと決めたのなら、その選択の中で最善を探し続けるんだ。――きっと、導き出した答えを肯定するために、ぼくの能力はある」


 ミドリが伏せがちだった目を上にあげる。瞳に、すこし幼い少年の姿が映る。

 想は、頬をかすかに持ち上げ、相好を崩した。


「ありがとうミドリ――きみは、ぼくたちを救ってくれた」


 だんだん、ミドリの息が荒くなる。ずっと溜め込んで、抑え込み続けてきたなにかが、あふれ出るみたいに。

 もうやめたほうがいい気もした。でも、思いを伝えられる場面なんて、いつ来るかわからないから。適切な言葉を選べる自信だってない。時間はいつも足りない。


「言葉もないくらいだよ。世界中のどんな言葉を使っても言い表せないくらい。だけど、敢えて口にするのなら、こうなるのだと思う。――きみに逢えてよかった」


 ミドリは、たんぽぽ色のブラウスに包まれた胸を押さえる。

 そして彼女は、大きな声を上げて泣いた。


   六


 想は駐車場に停まっていた車に乗り込むミドリを見送る。彼女はウインドウから顔を出して恥ずかしそうに、でもはっきりと尋ねてきた。


「また、明日会える?」


 その問いに笑顔で頷くと、少女はほのかにはにかむ。そして、ポケットから小さな紙を取り出して、渡してきた。開いてみると、それは彼女の携帯電話番号だった。

 多少の驚きと一緒に前を向くと、ミドリは運転席の女性と話していた。意図的にこっちをみないようにしているようだ。反対に、ハンドルを握る女性はこちらに笑顔を向けてくる。

 想は軽く会釈をすると、ミドリに視線を戻した。

 彼女がこちらを意識していることは十分理解している。だから、いつものように声をかける。


「時間があれば、今夜電話するよ」


 ミドリがうつむいたと同時にウインドウが閉まり、車が走り出す。薄暗いガラス越しにわかるくらい赤面した少女を載せた車がみえなくなるまで、想は手を振り続けた。

 見送りが終わると、想はポケットから携帯電話を取り出す。そして、ミドリの番号を登録してから、父親の電話番号を眺める。


 ――ぼくにもなにか、できることがあるかもしれない。


 携帯電話をポケットにしまってから、バス停に向かって歩き出す。

 話さなければいけない人のもとへ、自分の気持ちを伝えるために。

 想は進む。強い力に縛られたみたいに、しっかりと地を踏みしめて。


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