二十九話 文字と数字と読み書きと
まさか異世界に来て黒板とチョークを使うとは思わなかった。
文字の勉強を始めて、最初に思ったのがそれだった。
ミーシャと一緒に家へ帰り、夜ご飯を食べた後、私とミーシャは並んで机に向かっていた。
節約しているのか、夜ご飯は相変わらず質素――干し肉、ちょっとしたサラダ、それに水だけ――だ。
ミーシャは成長期なんだから、もっと食べないと、と心配になってくる。
夜ご飯の改善も、今後の課題かな。
「ねえ、お花さん、聞いてる?」
あ、いけないいけない。
現実逃避しかけていた。
聞いてるよ、と頷いておく。
「それならいいの」
ミーシャは訝しげな目を向けてきたが、すぐに机に向き直った。
私も机の上に置かれた黒板に目を移す。
黒板には、線や丸が組合わさったこの世界の文字が、白色のチョークで書かれている。
ミミズののたくったような文字に見えたけど、ミーシャの字が汚いわけではなく、もともとこういう文字らしい。
問題は、この文字の仕組みが、私が元々居た世界の文字の仕組みと同じだということだ。
話し言葉も一緒、文字の仕組みも一緒って……。
過去か未来にタイムスリップしたと言われても信じそうだ。
――違うよね?
「……それで、これとこれを組み合わせると、この文字になるの」
白いチョークを握ったミーシャが説明を続ける。
あとはどの文字がどの文字に対応しているか覚えるだけだ。
幸いなことに、文字の種類も十数個しかない。
前の世界では大学に通っていたみたいだし、きっと頭は悪くはなかったと思う。
これなら、すぐにでも読み書きはできそうだね。
「これで全部だよ。あとは数字があるけど、それはまた今度にするの」
ようやくチョークを置いたミーシャが、手に付いた粉を払いつつそう言った。
さて、じゃあ順番に覚えていきますか。
◇◇
次の日。
朝食を済ませた私とミーシャは、解体職人のお姉さんこと、キャティさんのお店へ向かって中央通りを歩いていた。
相変わらず好奇の視線に晒されているが、三日経っていることもあり、気にせずすれ違っていく人もちらほらいる。
道の両端にある露店では、すでに野菜や干し肉といった食材は半分近くが売れている。
みんな朝早くから働いているんだね。
「ここがキャティさんのお店なの」
やがて、露店の開いていない一件の店の前でミーシャが立ち止まった。
店の上に掲げられた看板を見上げる。
えっと……うん、まだ読めないや。
所々分かる文字もあるけど、さすがに昨日一晩では覚えきれなかった。
「キャティさーん! お花さん連れてきたよー!」
顔を戻すと、ミーシャが入り口の扉を開けて頭を入れ、声を張り上げていた。
私もミーシャの隣から覗いてみる。
小さな店の奥にはカウンターがあり、色々な種類や大きさのはかりが置かれている。
左側はすぐ壁になっているから、別の部屋があるのかな。
壁には、燻製肉や干し肉、何かの香辛料、解体用のナイフなどの調理器具が、一面に掛けられていた。
「お待たせー。ごめんね、わざわざ来てもらって」
しばらく店内を眺めていると、カウンターの奥、のれんのかかった通行口からキャティさんが現れた。
手に持った皮袋が、じゃらりと音を立ててカウンターに置かれる。
「はい、お花ちゃん。約束のブツよ。ちゃんと中身も確認してね」
ありがたいけど、その呼び方はやめたほうがいい気がする。
私はカウンターまで移動すると、皮袋に手を伸ばす。
と、そこで横からガシッと手首を捕まれた。
顔を上げると、隣でキャティさんがにこやかな笑みを浮かべていた。
いや、笑みは笑みなんだけど、これは黒い笑みだ。
……何かな?
「ねえ、お花ちゃん。あ、ミーシャちゃんもかな。ものは相談なんだけど」
そう言ってミーシャを見るキャティさん。
ミーシャは不思議そうな表情を浮かべている。
「今度から森へ行くとき、私も一緒に連れていってくれないかな?」
うん?
え、それだけ?
もっと無理難題を言うかと思っていたけど、拍子抜けだ。
私が首を捻っていると、キャティさんがカウンターの皮袋を持ち上げて私に手渡してくる。
「とりあえず、ほら。昨日のお金、数えてみて。……って、数え方とか知っているかしら?」
「昨日の夜に文字は教えたけど、数字はまだなの」
「あら、ミーシャちゃんが教えているの? 偉いわね。でも数え方はまだなのね。じゃあ、今日はミーシャちゃんが数えてくれるかしら」
「えへへー。お花さん、ちょっと貸してもらうの」
ミーシャは私から皮袋を受け取ると、中を覗く。
目を大きくして「うわあ」とか呟いているけど、変なもの入ってないよね?
そのまま皮袋から硬貨を出し、カウンター上に並べていく。
カウンターにちょっとした銀貨の山ができあがる。
「お花さん、すごいの! キャティさん、これ全部ホーンボアのお金なの!?」
「――そう、大金でしょ! 昨日のお肉や毛皮、あっという間に売れちゃったのよ! 解体料とか差し引いても、まだそれだけ残っているのよ」
銀貨がいくらくらいの価値かは分からないけど、反応を見るに相当の大金らしい。
「で、本題なんだけどね。私が解体してあげるから、一緒に森へ連れて行ってほしいの。どうかしら?」
なるほど。
専属にしてほしいってことか。
高値で売れるなら、解体料で何割かでももらえれば得なのかな。
まあ、こちらも解体できる人を探していたところだし、渡りに船だね。
私は握手を求めるように右手を伸ばす。
「やっぱり話分かるわね! ありがとう!」
キャティさんはパッと顔を明るくすると、私の右手を掴んだ。




