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ダウンジャケットと缶ビール

作者: 梁川 はるき

一日の始まりは平穏に迎えたいといつも思っている。



『何事もスタートが肝心だ。その日の良し悪しは朝には決まっている』という言葉を、物心がつくまでに何度も耳にしていた。

お袋が幼い頃から俺に叩きこんでいたからだ。

おかげで早起きが得意になった。

朝に何らかのアクシデントがあったとしても、余裕を持って対応できるようにと体が無意識のうちにそうなったのだろう。

生まれてこのかた、一度たりとも寝坊したことなどなかったのだが…



「…やっべぇ、また寝坊した!」



今日は大学の卒業がかかった最終試験日なのに…あろうことか寝坊してしまったのだ。

時計に目をやる、時刻は9時10分を回ったところ。

試験開始は8時50分。

始まって既に20分経っている。


 

「最悪だ。こんな大事な日に…」



ふと、お袋の鬼のような形相が頭に浮かんだ。

わかっている。

俺だってびっくりしているさ。

人生初の寝坊がこんな日にやって来るなんて。



紫のライトが点滅している携帯に手を伸ばす。

メール着信10件に留守電ありの通話着信3件。

どれも内容は同じだ。

学科の友人からの連絡。

遅刻などしたこともない俺が来ないものだから、急病か事故かと心配しているようだ。



さて、どうしたものか…。

今から行けば途中からでもテストを受けることはできるだろう。

頭の中でお袋の言葉が繰り返される。


「また来年、頑張るか」



自分でも驚くほど、何の抵抗もなしにそうすることを決めた。

幸い、実家が裕福なおかげで、自分も金には恵まれている。

両親に頭を下げることにはなるだろうが、それですむ問題だ。

そして、何よりこんな最悪なスタートを切った一日が上手くいくとは到底思えないのだ。

 


俺はまだ若い。

やり直しなんて何度でもきく。

失敗してもやり直せばいいさ。

そんなことを考えながら、俺はまた目を閉じた。

 



どれくらい経っただろう。

次に目を開けた時、外はだいぶにぎやかになっていた。

携帯に目をやると、また着信が増えている。

どうやらテストは終わったようだ。


 

「また来年か…」



それも悪くない。

社会に出るのがたった一年遅れただけだ。

これから先の長い人生で考えたとき、それほど大きな問題にはならないだろう。

そう考えると沈んでいた気持ちが楽になった。



テストのことを考えるのをやめた俺は、ひどく喉が乾いていることに気づいた。

冷蔵庫を開けるがそこにあるのは賞味期限が過ぎた食材と、無機質な調味料だけ。

喉を潤すものは何一つ見つからなかった。



 「コンビニにでも行って、ビールを買って飲もう」



思い返せば昼からビールなんて飲んだこともない。

学校で飲めるわけもなく、学校が休みの日にはバンドのメンバーとスタジオにこもる生活を続けている俺に、昼にビールを飲む機会なんて今まで一度もなかった。

こんな時にビールを飲むのも変だが、こんな時にしか飲めないとも考えられる。


テストを受けた後、学科の仲間と打ち上げの飲み会をするスケジュールは白紙になった。

テストも受けてない俺が打ち上げの飲み会に参加することはどう考えても場違いだ。

今日の俺には、何の予定もない。

それは逆に何をしてもいいということだった。


 

寝巻のジャージを脱ぎ、一応外に行けるような服装に着替える。

誰かに会うことはないだろうがさすがに起きたままの姿では外に出る気にはなれなかった。

洗いざらしのジーンズと少ししわのできたシャツに手を伸ばし支度をする。

そしてダウンジャケットにそでを通し家を出た。



家から5分ほど歩いたところに行きつけのコンビニがある。

俺はそこの店員に淡い気持ちを抱いていた。

その子の名前は平田サキ。

年はおそらく10代後半。

胸につけているネームプレートから苗字は平田ということがわかっていたし、たまに店長がなれなれしくその子のことを「サキちゃん」と呼んでいるのをよく聞いていた。

最近は忙しいのかこの一か月見かけることがなく、コンビニを覗いては肩を落とすということが続いていた。



ただ今日はサキちゃんがいるだろうという確信めいたものがあった。

なぜかはわからないが、サキちゃんは絶対にいる。

今まで感じたことのないような感覚だった。

そのどこから来るかはわからない俺自身の直感を信じコンビニへと歩みを進めた。

さらにイメージを膨らませる。

今日はどんな髪型でどんな表情なのだろう。

しかしそれらは一向に思い浮かべることができなかった。


 「いらっしゃいませ、こんにちは」



コンビニに入るとサキちゃんの高く澄んだ声が俺の耳に飛び込んできた。

それだけで俺の胸の鼓動は高まり、幸せな気持ちになれた。

思った通りサキちゃんがいた。

ただ肝心の姿が見えない。

お昼時だということもあってか、店はOLやサラリーマンでごった返していた。

俺からサキちゃんが見えていないということは、あちらからも見えていないはずだ。


コンビニに入るといつも決まったメロディーが流れる。

店を出入りする客に店員が気付くようにするためのものだ。

サキちゃんは俺が来たから挨拶をしたのではなく、ただ単にその音楽に反応していつもの決まり文句を言ったに過ぎないことに気づくのには、そう時間は必要としなかった。


そのことでなぜか無性に気分を害した俺はますますビールを飲みたくなった。

アルコール飲料が並べてある一角についたときに、俺はある事に気が付いた。

あろうことか財布を忘れてきていたのだ。


昔見たテレビの一場面を思い出す。

店を出たところで声をかけられる万引き犯、奥の事務所に連れていかれ身分証を確認される。

警察を呼ぼうとする店長に泣きながら「でき心だったんだ、許してくれ」と懇願する万引き犯。

俺はそれを軽蔑しながら見ていた。



 どうしても今ビールが飲みたい。

 

 店は混雑しており、だれも俺のことを見ていない。

 

 たかだか数百円の損失なんてたいしたことない。

 

 捕まったって少し怒られるくらいだ。

 

 なにより俺は若い。


 何度だってやり直せる。


気が立っていた俺は普段では絶対に考え付かないようなことで頭がいっぱいになっていた。

周りを見回す。

誰も俺のことを気にしている様子はない。

一人の年輩の女性と一瞬だけ目が合った。

それはほんの一瞬のことでその女性はすぐに目をそらした。急に万引きGメンという言葉を思い出す、客に紛れ万引き犯を捕まえようと目を凝らしているのだ。

彼女がそうなのだと思った。

しかし店から出れば逃げ切れる自信はある。

彼女の存在を気にする必要はない。



目立たぬように棚からビールを一本取り出し、他の商品をまだ探すようなそぶりを見せながらダウンジャケットのポケットに缶を滑り込ませる。

幸い、ポケットは深くもともとかさばっているので、ビールが一本入ったくらいでは大した変化は見られないようだった。


あくまで冷静を装い、出口へと向かう。

急いではいけない。

不自然であってはいけない。

落ち着くんだと自分に言い聞かせながら一歩ずつ一歩ずつ出口へと近づいていく。

そこで、突き刺さるような視線を背中に感じた。

そっと振り返ると、先ほどの女性がこちらへ向かってきていた。




『ばれた』




俺は一目散に店から飛び出した。

後ろでは女性の怒鳴り声が聞こえる。

だが、その声も近づくどころかどんどん遠ざかっている。

何とも言えない気持ちの高ぶりを抑えられずにいた。

ビールを盗めたことが嬉しいのだろうか、いや違う。

きっと俺はこの背徳感を楽しんでいるのだ。

足を止めず俺は交差点に差し掛かった。


動きが突然スローになる。

耳をつんざくクラクションの音。

若い女性の悲鳴。

俺は自分の状況を瞬時に理解した。

右を見ると思った通り、トラックが目前に迫っている。

運転手に目をやると、完全に諦めているかのように顔を伏せていた。

『ハンドルを切ってくれないと、助からねえよ』俺も諦めて、なぜか笑ってしまった。


それにしても時間が長い。

現実では一瞬の出来事なのだろう。

しかし、なかなか目前のトラックが俺にぶつからない。

衝突した瞬間が俺の思考が止まるその時なんだろう。

こんな極限状態で俺は一つのことに気づいた。

それはあり得るはずがないことだった。

あり得るはずはないが確実なことでもあった。




『この光景…どこかで見たことがある。しかもつい最近…』




ゆっくりと、しかし着実に目前に迫るトラックを前に俺は今までのことを思い出していた。

最初に起きた時から変だった。

俺は今まで一度たりとも遅刻したことなんてない。

それなのに俺はたしかに「“また”寝坊した」と言った。

サキちゃんのことだってそうだ、あの妙な自信は経験から来たんだ。

つまり、俺は今日サキちゃんがコンビニにいることを実際に声を聴いて知っていた、ただ目にはしていないため姿までは知らなかった。

万引きGメンのことも知っていた、それから逃げ切れることもそしてここでこのトラックに轢かれて死ぬことも、すべて経験していたのだ。




回避することはいくらでもできた。


遅刻してでも試験を受けることだってできた。


財布を取りに帰ることだってできた。


諦めて万引きGメンに捕まることだってできた。



俺が間違えていた。

『何度でもやりなおせる』こともあるが『死んだらやり直せない』のだ。

何より『何度やり直せても、繰り返すなら同じこと』なんだ。

おふくろは正しかったのだろうか。

『一日の良し悪しはすでに朝にきまっている』のだろうか。

ここまで考えたところで俺の体は鉄の塊に吹き飛ばされ、俺の意識は途絶えた。







「…やっべぇ、“また”寝坊した!」



今日は大学の卒業がかかった最終試験日なのに…あろうことか寝坊してしまったのだ。

時計に目をやる、時刻は9時10分を回ったところ。

試験開始は8時50分。

始まって既に20分経っている。


 

「最悪だ。こんな大事な日に…」



ふと、お袋の鬼のような形相が頭に浮かんだ。

わかっている。

俺だってびっくりしているさ。

“人生初”の寝坊がこんな日にやって来るなんて。



紫のライトが点滅している携帯に手を伸ばす。

メール着信10件に留守電ありの通話着信3件。

どれも内容は同じだ。

学科の友人からの連絡。

“遅刻などしたこともない”俺が来ないものだから、急病か事故かと心配しているようだ。



さて、どうしたものか…。

今から行けば途中からでもテストを受けることはできるだろう。

頭の中でお袋の言葉が繰り返される。

そういえばひどく頭が痛い、体もだるい。

寝汗だって尋常じゃない。

なんだか嫌な予感はするが、はっきりは分からない。



俺はどうするべきなのか、真剣に考えなければならないようなそんな気がした。


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