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戦うOL

          ~第四章


「今日から、ダンジョンを再開しようと思う」

 開口一番、透子はそう言った。

 石造りの壁だが、壁際のテーブルにはダンジョン監視用のモニターがずらりと並んでいる。棚には茶器や各種ティーパック、砂糖、ミルク、お茶請けが納められており、作戦部屋というよりも休憩室の様相を呈してきている。

「また、急な話ですね」

 棚を開け、お茶を用意しながら次男ラルドが言った。人間よりも遙かに大きな手で、器用に飲み物の用意をしていく。

 ちなみに、棚の中身は透子が用意させたものだ。戦いの中にも安らぎが必要だ、という透子のモットーである。

「せやけど、ウチらの練度はそんなに上がってまへんで? ちょいと性急ちゃいますのん?」

 そう尋ねた三男ロースは、虎柄の上着を愛用するようになった。初めこそは透子の指示だったが、次第にロース自身が気に入るようになったのだ。やはり関西弁と虎は切っても切れない関係なのかも知れない。

「まあ、そうね。でも悠長に構えているのはもうやめたの。あなたたちには悪いけれど、付き合って貰うわ。――ああ、ありがとう。いい香りね。こっちにもアールグレイがあってよかったわ」

 ラルドからカップを受け取り、透子は日本人にしては高い鼻を近づける。ベルガモットの香りが鼻孔をくすぐった。そして一口含み、その味と香りを存分に楽しむ。

「……うん、美味しいわ」

 小さなため息とともに見せた微笑みは、オークたちが今まで見たことのない柔らかなものだった。

 そんな透子の様子を見て、オークたちは顔を見合わせる。そして、ひそひそと何かを囁き合った。

「……何よ」

「いえいえ、何でも」

 透子の三白眼を、長男モルタが作り笑顔で受け流した。本来ならば追求してもいいところだが、そんなことは後でもできる。

 んん、とのどを整え、透子は改めてオークたちを見回した。

「ラルドとロースも言ったけど、確かに再開するには時期尚早だしレベルも足りていないと思う。だけど、実戦に勝る経験はないわ。訓練の方が大事だと思うなら、この実戦も訓練だと思いなさい。まあ、もし負けて財宝が奪われるようなことがあったら、あなたたち全員チャーシューにしてあげるけどね」

 透子は冗談めかして言ったが、モルタたちは愛想笑い一つこぼさなかった。それも当然である。透子は冗談のつもりだったが、

「財宝を奪われたら、殺す」

 そんな気配をモルタたちはビンビンに感じていた。笑えというのが酷な話だ。

「さて、それじゃあ行きましょう」透子は椅子から立ち上がった。「あなたたちはダンジョンに向かいなさい。私は看板を『営業中』にしてから」

 行くわ、という最後の一言は、突如響きわたったノックによって遮られた。

「失礼します。透子さん、緊急事態です」

 開け放たれた扉。そこには、珍しく深刻な顔をしたホルガーが立っていた。

「城外の森に、ハグレ魔物が出没しました」


          *     *     *


 ベルンシュタイン城の外には、そこそこ深い森が広がっている。魔王の森、と呼ぶに相応しい、鬱蒼とした森だ。日の光はあまり届かず、時折不気味な鳥の鳴き声も聞こえてくる。モンスターどころか幽霊も出てきそうだ。

 そんな森の中を、古迫透子は頬をぷりぷりと膨らませながら歩いていた。スーツというOLの戦闘着も、この森の中においては違和感しかない。

「タイミングが悪いにもほどがあるでしょう! これからってときに!」

 周囲の森に負けずとも劣らない、陰鬱とした恨み言をぶちまける。苛立ちついでに聖剣フェアラートで一本の木を殴ったが、小さな音が空しく響くだけだった。あるいは抜き身で切りつければまだ手応えもあるかも知れないが、悲しいことに透子は聖剣を鞘から抜くことができない。

「しゃーないですって。ハグレ魔物なんかほっといたら、冒険者なんか来うへんようなりますよ」

 勇者は増えるかも知れまへんけど、と笑ったのは三男ロース。透子の隣を、虎柄の上着をはためかせながら歩いている。脳天気と言うよりもどこか達観したところのある彼は、だいたいいつもこうやって笑っていることが多い。

 対照的に、暗い顔をしているのはモルタとラルドだ。

 びくびくと体を縮こまらせ、透子とロースの後ろをついて歩いている。厳つい豚頭がびくついているのは残念と言うより他になく、さらに残念なことに、縮こまったところでその巨体は全く隠れていない。

「まあ確かに、今の私たちのレベルじゃあ簡単に返り討ちにあうかもね」

 内心ひやりとしながら、透子はホルガーの話を思い出す。


「ハグレ魔物って何? ただのモンスターとは違うの?」

「突然変異、あるいは何かしらの理由で、強力な力をもつにいたった魔物の総称です。透子さんたちに、そのハグレ魔物の討伐をお願いしたいのです」

 何でもないことのように、ホルガーは言った。

「レベルの差がありますので、追い払うだけでも構いません。それなら可能でしょう」

「は? 冗談じゃない。あなたの話だと、ハグレ魔物はかなりの強さなんでしょう? 仮に猛獣レベルだとしても、か弱い人間の女の子とちょっと強い豚三頭が熊やゴリラに勝てると思うの?」

「おや、怖いんですか?」

「挑発したって無駄よ。こちとら煽り耐性はそこそこあるんだから」

「どうしても無理ですか?」

「無理よ。収入が減るのは死ぬほどつらいけど、ハグレ魔物だってずっといるわけじゃないんでしょう? 台風だと思って過ぎ去るのを我慢するわ」

「姫様が、非常に心を痛めてらっしゃるんですが……」

「さあハグレ魔物退治に行くわよ! 準備しなさいあなたたち! 何とか無事に帰ってきて、エーファ様からお褒めの言葉を貰うのよ!」


 などといった、やむにやまれぬ事情があったのだ。出撃しないわけにはいかなかった。

 だが、と透子は眉をひそめる。

「やっぱし不安でっか?」

 そんな表情の変化に目ざとく気づき、ロースが問いかけてきた。

「まあね。不安だらけよ」

 などと口にするのは簡単だ。だが、透子はそうしなかった。

「ふん、私がついてるのよ、負けるわけがないじゃない。私が心配していたのは、エーファ様のことだけよ」

「そらぁ頼もしいですわ」

 深くは追及せず、ロースもそう笑うにとどめた。もちろん、彼も透子の本音などには気づいているだろう。だが『ここまで来て、上司として弱気なところは見せられない』という透子の意志を尊重した。

 気を遣われたことを察し、あえて透子は逆に食いついた。

「あなた、見た目より鋭いのね」

「さあ? 何のことでっか。ただ、ウチはこう見えても科学者の端くれですんで、観察力とか洞察力には自信ありまっせ」

「そう言えば、あなた色々と発明とかしてるんだったわね。何か戦闘で役立ちそうなものはないの?」

 それがなかなか、とロースは首を振った。透子も期待して聞いたわけではないので、特に気にしない。

「アイデアはぽんぽん浮かぶんですけどねえ、上手いこと形にならへんのですよ。改良が上手いこといったんは、こないだの……あ」

 何かを思い出したのか、ロースは目を丸くして透子を指差した。

「何よ、人に指を向けないでくれる? 折るわよ?」

「怖! そうやなくて、前に渡した身代わり人形、まだ持っとってんとちゃいます?」

「ああ、これのこと?」

 透子はポケットから小さな筒を取り出した。

「それ、閃光弾ですけど」

「え? ああ、違った、こっちね」

 閃光弾をしまい、透子は違うポケットから藁人形を取り出した。見た目にはただの藁人形だが、その実は念じた人とそっくりになる高性能身代わり人形である。戦闘能力は皆無で喋ることもできないが、見た目も中身もその人と瓜二つになるらしく、おまけに出血もするようになったとロースは胸を張っていた。

「念じた人そっくりになるだけじゃなくて、ちゃんと中身も再現できるのよね? 量産化して売り出せば、かなりの儲けになりそうよね」

「儲け? いやいや、そっくりになる言うても、戦闘力は全然あらしませんのやで? さすがにバカ売れするほどやないと――」

「ああ、違う違う。戦力としてじゃなくて」

 ロースの言葉を遮り、透子は朗らかに笑った。

「ダッチワイフとしてなら人気が出ると思わない?」

 最低の発想だった。およそ妙齢の女性が語る内容ではない。後ろでその会話を聞いていたモルタとラルドも、白い目で嬉々としてダッチワイフの話をする透子を見ている。

「チーフ……」

 ロースも深々とため息をつき――

「そのアイデア、最高ですやん!」

 ――グッ、とサムズアップを決めた。ですやん、という胸焼けしそうな関西弁が、城から離れて密度を上げ始めた森の中に溶けていった。

「ああ~、なるほどな~。そういう使い方があったんは盲点でした! けど悲しいかな、量産化するにはまだ技術が足りませんねん」

 量産化できたら売り出すつもりなのか、と長男モルタは戦々恐々とする。財政が潤うのは喜ばしいことだが、ベルンシュタイン城がダッチワイフの名産地になるのはとても一言では言い表せないほど複雑だった。

 などと魔王に申し訳なく思っているモルタのことなど露知らず、透子とロースのコンビは猥談に花を咲かせている。

「まだ、ってことはつか技術は追いつくのかしら」

「そらもう! ウチの技術革新舐めたらあきませんで」

「ふふふ、期待してるわ。髪さえ手に入れられれば、自分の好きな姿に変えられる人形。質感だって本物のそれと遜色なし。そんなものが売れないはずがないもの」

「いやもうほんま、チーフの慧眼には恐れ入ります。こらあ頑張って量産化にこじつけんとあきませんわ」

「ああでも待って、出血は実装できたのよね? なら、他にも追加しないといけない機能があるわ。血液の他にも、色々な分泌液を――」

 真剣そのものの顔で語っていた透子だったが、不意に言葉を断った。今更猥談を恥じたわけではもちろんない。

 周囲の森から、明らかに生き物が立てたであろう物音が聞こえたからだ。

「静かに」

 立ち止まり、透子はオークたちを制止させた。彼らも気配を感じ取ったらしく、警戒心を露わにしている。

物音が聞こえた距離は少し遠かったようで、折り重なった木々の陰に何かしらの姿を認めるには至らない。

(もしかして……)

 つ、と冷や汗が背中を滑り落ちた。嫌な予感が黒い霧となり、心の中に満ちていく。ホルガーの話では、野良魔物は非常に強力だという。ロースには大口を叩いたが、実際にエンカウントして勝てる保証などどこにもない。

 向こうもこちらを警戒しているのか、初めに音が聞こえてからは何の動きも感じない。だがその代わりに、やけに近くから別の物音が聞こえてくる。何か固いものを打ち合わせるような音。その正体はすぐにわかった。

(ざまぁないわね……)

 自嘲する。他でもない、自分が歯を打ち合わせている音だった。そんなことにも気づかないほどに緊張し、そして歯を打ち鳴らすほど恐怖していることを嫌でも自覚させられた。

「き、来ますね」

 モルタが、剣を握る手に力を込める。

 足音が再び聞こえ始めた。向こうもこちらを警戒しているのか、じわりじわりと寄ってきている。音の様子から察するに、二足歩行のようだ。熊ではない。

(たぶん、実力行使じゃあかなわない。不意打ちをかけるしかないわね)

 透子はモルタたちに物音を立てないようジェスチャーを送り、聖剣フェアラートを上段に構えた。まだ抜けないので鞘のままだ。

 現れると同時に、脳天から叩きのめす。致命傷にならないだろうし、そもそも効くかどうかもわからないが、やってみるしかない。

 足音が近づいてくる。周囲には生け垣のように藪が生い茂っており、数メートル先も見渡すことができない。つまり、藪から飛び出した瞬間が勝負になる。

 あと、約十メートル。ゆっくりと迫ってくる足音に、透子の鼓動も早くなっていく。モルタたちの様子を見てみると、彼らも緊張感を露わにしていた。が、次男ラルドは立ったまま白目をむいて気絶していた。器用だ。

 聖剣を握る手が、じわりと汗をかく。振り下ろしたときに、すっぽ抜けないかが心配だ。

 あと数メートル。もう今にも相手が藪から飛び出してくる距離。

 激しく拍動する心臓の音が、直接耳に聞こえるようだ。こんなに鼓動が早くなるのは、年末宝くじで三等が当たったとき以来だ。

(来る……!)

 聖剣を構える透子の方へ、〝それ〟が藪から飛び出した。


          *     *     *


 軽快な足音が、長い廊下に響く。窓からの日光は眩しく、京もいい天気になりそうだ。

「~♪」

 エーファ・ベルンシュタインは、とても上機嫌だった。

 手の中から、心地よい温かさを感じる。小分けにされた袋。その中には、大小さまざまなクッキーが入っていた。どれも形容しがたい色と形をしている。

(今日のは上出来かなっ)

 いつもは消し炭になるか石のように堅くなってしまうクッキーだが、今回は手で割れる程度には堅くないし、きちんと形を保っている。味見はできない(、、、、)ので、それだけが心配だ。

(みんな、喜んでくれるかな……)

 真っ先に思い浮かんだのは、古迫透子の顔だった。なぜか自分にとてもよくしてくれる女性。傍若無人の嫌いはあるが、根はとてもいい人なんだと思っている。あの人なら、石クッキーでも喜んで食べてくれそうだ。

 だが、今日は朝から姿が見えない。ラルドたちもいなかった。

(どこに行ったんだろう。……まあ、すぐ帰ってきてくれるよね。トーコさんから、たくさん元気を分けてもらわなくちゃ)

 活動的な透子の傍にいると、自分まで元気になれる気がする。そんなことを、エーファは思うようになっていた。

(そうだよ、トーコさんから元気をもらって、ホルガーさんに呪いを消してもらうんだ)

 昨日の、ホルガーの言葉が脳裏に蘇る。

(――「姫様の呪いを解く方法が、わかりました」――)

 耳を疑った。嘘かとも思った。呪いを受けてから今までの十年間、手がかりすら見つからなかったのだ。信じられなかった。

 だが、他ならぬホルガーの言葉なのだ。彼は、必要であると判断した嘘はつくが、気休め程度でしかない嘘はつかない。非情なまでに真実を告げる。

(やっと、普通の生活に戻れるんだ!)

 そう考えると、自然と足取りは軽くなった。世界もいつもより輝いて見える。

(うーん、やっぱりこれかな)

 ホルガーの部屋の前で、エーファは袋の一つを選んだ。どれもそこそこ均等になるようにクッキーを分けたが、選んだのは他のものより少しだけ多く入っている。

 トーコが知ったらがっかりするだろうが、それでも今日はホルガーに一番の恩返しをしたかった。

「うふふ」

 自然に顔がにやける。

 このときのエーファは、率直に言うと浮かれていた。

 今まで生きてきた中で、一番嬉しいことがあった。

 今まで作ってきた中で、一番いいクッキーが焼けた。

 だから、ついノックを忘れてしまったのも仕方なかった。

「失礼します!」

 元気よく扉を開ける。ホルガーの部屋は、扉を入って両手の壁は全て本棚。もともと広くない上に、その本棚のせいで余計に狭くなっている。

 そして本棚の間を抜けた、部屋の反対側。そこがホルガーのデスクだった。

「……っ! どうしました姫様、ノックもなしに」

 珍しく、ホルガーは少し慌てていた。何か書き物をしていたらしく、それが無造作にデスクに伏せられる。そのデスクには、布で包まれた細長いものが立てかけられていた。

「あ、すいません、うっかりしてました」

 てへへと悪びれつつ、エーファはクッキーの袋をホルガーに手渡す。

「あの、クッキーを焼いたので、皆さんに配ろうかと……」

「……お心遣い、感謝します」

「今日のは自信作なんです!」

「そ、そうですか……」

 おずおずと差し出されたクッキーを、ホルガーは多少の間をおいて受け取った。顔がひきつりそうになるのを、必死で隠そうとしている、そんな表情だった。

「あの、トーコさんたちをご存知ないですか? 今朝から見かけなくて」

「うーん、どうでしょう。私は存じ上げて(、、、、、、、)おりません(、、、、、)。買い出しにでも行っているのでは? モルタたちは荷物持ちでしょう」

「買い物ですか、いいですねぇ。私も町に行ってみたいです……。あ、でももうすぐ行けるようになるんですよね!」

「そうですね、もうすぐですよ」

 などと答えつつ、ホルガーはクッキーを矯めつ眇めつしている。ぐにぐにと指で押して硬度を確かめている辺り、エーファの「自信作なんです」という言葉は信用していないようだ。

「あ、鳩さんですよ」

 窓の外に飛んできた鳩に、エーファが目を輝かせた。ホルガーの伝書鳩だ。どこかしらに行っていたのが帰ってきたらしい。

「手紙を持って帰ってきていますね。はいはい、今開けますよ」

 ぐ、と窓を押し開く。その刹那、少し強い風が部屋に吹き込んだ。その風に、デスクに伏せられていた手紙がふわりと舞う。

 足下に舞い落ちたその手紙を、エーファは無意識に拾い上げた。プライバシーに関わるので内容は見ずに、ホルガーに手渡そうとして、

「ホルガーさん、手紙落ちまし……」

 言葉が途切れた。

 ホルガーが、恐ろしく冷たい表情でエーファを凝視していた。普段から多少温かみには欠ける人だったが、ここまで冷徹な表情を見たのは初めてだった。

「姫様、それを渡してください」

 氷のように冷たく、そして針のように尖った声。エーファは、背筋を振るわせた。

「さあ、早く渡してください」

 有無を言わせぬ語調。無意識に従いたくなる。

 いつもなら一も二もなく渡していただろうが、なぜか今のエーファは逡巡した。

 人のものだ。見ていいものじゃない。

 だが、確認しなくてはならない気もする。

 ホルガーの様子は尋常ではない。何か、見られてはいけないものが書かれている。それは間違いない。

「渡しなさい」

 言葉が変わる。ホルガーが一歩踏み出した。エーファが逡巡していると悟ったのだろう。

 緊張で呼吸も鼓動も早くなる。

 一秒にも満たない時間。その間に、エーファは数え切れないほどの逡巡を繰り返した。


 そしてエーファは――書面に目を落とした。


「……おのれ」

 怨嗟の声。ホルガーがそんな言葉を口走ること自体珍しいことだったが、エーファの耳には届いていなかった。

 食い入るように、エーファはその書面を見つめている。その顔は驚愕を通り越して真っ青になっていた。

「ホルガーさん、これ……」

 なぜ、どうして。無数の疑問が頭の中に生まれるが、全く答えは見つからない。

 あまりの衝撃に、何を言っていいかわからない。

 茫然自失とするエーファだったが、何かが床に落ちた音で我に返った。

 可愛らしいリボンで口を結んだ、小さな袋。その中にあるクッキーは多少歪であるものの、エーファが一生懸命に作ったものだった。

 それが、床に投げ捨てられていた。

 なぜ、と思う間もなく、そのクッキーはホルガーに踏みつぶされた。

「やれやれ」

 ホルガーの声からは、一切の感情が抜け落ちていた。先ほどまでの冷徹さも、焦りのようなものも見えない。いつもの、事務的なホルガーだ。

 だからこそエーファは無意識に悟った。クッキーは、踏もうとして踏んだのではない。ホルガーの視界に入ってすらいない。ただそこにあったから踏まれたのだ、と。

「だから、渡しなさいと言ったのです」

 そう言ったホルガーに目を向け、エーファはのどの奥で小さく悲鳴を上げた。

 睨まれているわけではない。

 怨嗟を向けられているわけでもない。

 ただ、声と同じように、無感情な顔がそこにあった。

「あ……あ……」

 呆れられることや、ときには怒られることもあった。

 だが今の表情は、そこらの石ころを見るような目とおなじそれをしている。生き物としてさえみられていない。そんな目を向けられるのは初めてだった。

「まったく、あの女が現れてから、想定外のことばかりで嫌になります」

 ぼやきつつ、ホルガーはデスクに立てかけてあった、布で包まれた棒状のものを手に取った。

 布がするりと解かれ、中から現れたもの。それを見て、エーファは心底震え上がった。

「いや、それ、いやです……あっ」

 じり、と後ずさりしかけて、エーファは尻餅をついた。全く足に力が入らない。

「まぁ、多少計画が前後するだけですね」

 ホルガーはそれをすらりと抜いた。白刃が陽光に照らされ、美しく輝く。

 ホルガーが手に持つそれは、先日透子が宝物庫の奥で見た、一振りの剣だった。

「いや……いや……」

 その両刃剣に、エーファは言いしれぬ恐怖を覚える。剣そのものはもちろん怖い。それが自分に向けられているということも。だが何よりも、その剣がもつ気配が恐ろしかった。

「悪魔殺しの、剣……」

 目にするのは初めてだった。だが、それは悪魔殺しと呼ばれる類の剣に間違いないとエーファは確信した。まるでトラウマにぶつかったときのように、魂自体が恐れている。

 ゆっくりと歩み寄るホルガーはエーファの眼前で足を止める。

 鋭く尖った切っ先を、エーファの胸に当てた。

「私の指示に従っていただきます」

 その言葉にエーファはただ、壊れた人形のように首をたてに振るしかできなかった。


          *     *     *


 藪から飛び出してくる。そのタイミングを合わせ、透子は聖剣を思いっきり振り下ろした。

「おどりゃあ!」

「のわっ!」

 甲高い金属音が響く。確実に脳天をかち割るつもりで振るった聖剣は、また別の剣によって止められていた。

 その相手を視認し、透子は心底驚いた。

「あ、あんた冒険者の……」

「いきなり何しやがる! って、ダンジョンの姉さんじゃないか」

 その相手は、以前ダンジョンに来た冒険者――テオバルトだった。

「な、何でこんな所にいるのよ」

「それはこっちのセリフだっての。とりあえず剣を下ろしてくれるか。――お前もな、オスカー」

「へ?」

 間抜けな声を出すと同時、透子は首もとに当てられた冷ややかな感触に気づいた。

「わっ、わわわわわ!」

 慌てて飛び退く。つい今まで透子が立っていた場所、その背後に、冒険者パーティーの一人だったスカウトの女が立っていた。

オスカーと呼ばれたその小柄なスカウトは、何も言わずに短剣を鞘に納めた。

 胸部にはスポーツブラのような防具を身につけているが、面積も厚さも体したものではない。防御力よりも、動き易さを重視しているようだ。その傾向は下半身にも現れており、短いタイトスカートのようなものをはいている。そこからのぞく足は少し細いがとてもしなやかで、よく鍛え上げられているのがわかった。

 防具や衣服の下には、全身を包むようにタイツを着込んでるた。その全てが黒で統一されており、まるで黒猫のようだ。タイツのために顔くらいしか露出していないが、これはこれで扇情的と言えなくもない。体の凹凸は少なく髪も短いせいで、下手したら線の細い男に見える。

(アイエエエ……まるでニンジャね)

 ともあれ、殺されかけたのは間違いない。

「い、いつの間に背後にいたのよ」

 冷や汗をかきつつ尋ねるがオスカーは何も答えず、足音一つ立てずにテオバルトの背後に隠れた。そして透子の方をちらちらと伺っている。

「人見知りで不器用なんだ、すまねえな」

 がははと笑うテオバルトを後目に、透子は釈然としない気持ちで聖剣をベルトに差した。

「まったく、不意打ちなんて卑怯じゃない」

「その言葉そっくりお返しするが」

「私はいいの」

「ムチャクチャな女だ……」

 テオバルトの言葉に、オーク三兄弟もうんうんとうなずく。

 と、オスカーがテオバルトの肩をちょんちょんとつついた。

「おう、そうだったな。おういお前ら、こっち来ていいぞ!」

 どうやら他のメンバーは後方に待機させていたようだ。テオバルトの呼びかけに、残りの二人――巨乳僧侶のカーヤと全身鎧が姿を現した。

「一体何だったんですか? って、ダンジョンの方たちじゃないですか」

 カーヤが目を丸くする。全身鎧は何も言わない。

「ど、どうしてこんな所にいるんですか?」

「それはこっちのセリフだっての。あんたたちもハグレ魔物を討伐しにきたの?」

「ハグレ魔物?」

 カーヤたちは、頭に疑問符を浮かべて顔を見合わせた。そうして返ってきた言葉は、透子の予期していないものだった。

「私たちは、ただこの辺りを散策していただけです。そもそも、ハグレの出現報告なんて聞いてないですよ?」

「……は?」

 わけがわからなかった。ホルガーからは、ハグレ魔物が出たと確かに聞いた。それが書面で回っていることも。

「あ~、わかった。あんたたちが知らないだけでしょ。こっちの業界では回覧板が回ってるのよ」

「それはそうかも知れないが、俺だって冒険者の端くれだ。気配で大体わかる」

「そんなの曖昧なものでしょ? 信じるに値しない。情報の価値に勝るものじゃないわ。いい? 今の時代、情報ってのはすごく大切なの。私は気配なんていう、幽霊みたいな曖昧なものに頼らないし、頼るつもりもない。情報こそが有益な判断材料なのよ」

「ん~、お前はどうだ、オスカー。ハグレの気配を感じるか?」

 テオバルトは、未だに背後に隠れているオスカーに目を向けた。その問いかけに、オスカーは小さく顔を横に振った。

「なるほど、やっぱりいないのね」

「いやおい、あんたさっき気配なんて信じるに値しないって言ったじゃねえか」

「可愛い子の言葉なら別よ」

「ムチャクチャな女だ……」

 テオバルトの言葉に、オーク三兄弟もうんうんとうなずく。デジャブである。

「ともあれ、いないんじゃあ徒労だわ。あの回覧板が間違ってたのかしら。ホルガーも嘘情報に踊らされることがあるのねえ」

 そう言ってみたものの、透子は自身の言葉に釈然としない思いを抱いていた。何か、根本的な勘違いをしているような。

(そうよ、あのホルガーがあっさり情報を鵜呑みにするかしら……)

 つ、と頬を汗が流れ落ちた。

「チーフ、どないしたんです? ハグレ魔物がおらへんのやったら、さっさと帰りまひょ」

「そう、なんだけど……」

 違和感。奥歯にものがはさまったような感覚。その答えは、カーヤがあっさり口にした。

「その、ホルガーさん? が、嘘をついているってことはないんですか?」

「ホルガーが、嘘……?」

 ありえなくはない、と透子は直感で思った。だが、そうすることの必要性がわからない。

 そんな嘘をついても、透子たちが城を出ていくだけだ。城はかなり手薄になる。メリットどころかデメリットしかない。

(いや、違う。私たちを城から遠ざけるのが目的だとしたら……?)

 その仮定にたどり着いた瞬間、透子は全速力で駆けだしていた。背後からモルタやテオバルトたちが何か言っているが、全く耳に入っていない。

 透子たちを城から遠ざけたとして、その目的がわからない。だが、これが一番つじつまが合う。

(嫌な予感がする……!)

 脳裏に浮かぶ、ある人の笑顔。その笑顔が、今は亡き妹と重なって見えた。やせこけ、生気が感じられなくなった、あの顔と。

(ダメよ)

 嫌な想像を振り払うように、透子は頭を振った。

 尖った枝だが、透子の頬を僅かに裂く。だがそんな痛みは、大切なものをなくした痛みと比べものにならない。

(もう二度と、大切な人はなくさない!)

 決意を胸に、透子は城に向けて有らん限り走った。


「行っちゃいましたね」

 透子たちを呆然と見送りつつ、カーヤが呟いた。

「これからどうします?」

「そうだなぁ」ざり、とテオバルトは無精ひげをなぞった。「どうやらあの城で面白いことが起こりそうだし、冷やかしに行ってみるか」

 そもそもここに来たのだって、目的があったわけでもない。散策しているところに妙な気配を感じたので探ったところ、透子から殴られそうになっただけだ。

 テオバルトの提案に他のメンバーもうなずいた瞬間、

「その必要はないよ」

 妙に耳に障る男の声がした。

「やれやれ、彼女たちは城に戻ったのかい? 一足遅かったか」

 草をかきわけて現れた男の眩しさに、テオバルトは目を瞬かせた。

 さりげなく、パーティは立ち位置を戦闘用に入れ替える。

「おい、オスカー」

 テオバルトは小声で話しかけた。

「どうしてこいつの接近を知らせなかった」

「敵意がなかった」

 何か問題? とばかりに小首を傾げるオスカー。

「そういう問題じゃないんだが」

 ぼやきつつ、テオバルトは〝その男〟に向き直った。

「あんたは?」

「ベルンシュタイン城の招待客さ。生憎もうパーティは定員でね、君たち招かれざる客は遠慮してもらえるかい?」

 それ以上、無駄な問答をするつもりはないらしい。「ハバァナイスデイ」などと軽口を叩きつつ、全身黄金鎧の男(、、、、、、、)は城の方へ歩いていった。

「……何だったんでしょう」

「さぁ」

 呆然とするカーヤに気のない返事をしつつ、テオバルトはまた髭をなぞった。

 かなり面白いことになる。

 テオバルトの直感が、そう告げていた。


          *     *     *


 思ったよりも、城から離れた所まで行っていたらしい。城門に着いたときには息も絶え絶えになり、爆発するんじゃないかと思うほど心臓が激しく暴れ回っていた。

「……ッハァ……ったく、体力には自身があったんだけどね……おぇっ」

 肺と心臓を落ち着けつつ、城を見上げる。別段、何も変わったところはない。

(杞憂、だったのかしら……)

 だが結果として、やはり杞憂ではなかった。

「……ちょっと、何で開かないの!?」

 城門、ではなく、その横の従業員用の出入り口。そこをいつものように開けようとしたが、ドアところかノブさえ微動だにしなかった。

 力を込めても、蹴飛ばしてもびくともしない。ふと初めてこの城に来たときのことがフラッシュバックしたが、今は思い出に浸っているときではない。

「ど、どないしたんですか、チーフ……おえっ」

 遅れていた黒豚オークたちも城に着いたらしい。全員膝に手を当ててえずいているが、透子は無視した。

 インターホンを高○名人よろしく連打する。こちらの反応もないのではと思ったが、意外なことにすぐ声が聞こえてきた。

『一回押せば聞こえます。透子さんですか?』

「そうよ! 透子さんよ! 門のドアが開かないの! 開けなさい!」

 もし声の主が目の前にいたら、胸ぐらを掴みあげていただろう。それほどの剣幕だったが、インターホン越しのその人物――ホルガーは気圧された様子もなく、一言だけを言い放った。

『それはできません』

「はぁ!?」爪楊枝を挟めるんじゃないかと思うほど、透子は思いっきり眉根を寄せる。「ふざけんじゃないわよ! そんな下らないことを言うために、ハグレ魔物がいるなんて嘘をついたわけ!?」

『さて、何のことでしょう』

「すっとぼけるんじゃないわよ! クーデターのつもり!? 理由を言いなさい!」

『クーデター、ですって?』

 ここからではホルガーの顔は見えない。だがその声からは、嘲りの感情がありありと読みとれた。

『それは貴女のことではないのですか、透子さん』

「は? 意味がわからないわ」

『そうですか、ならこう呼び方を変えましょうか、ギルドの勇者、古迫透子さん』

 息をのむ気配を、透子は背後から感じた。

「チーフが勇者、だと……?」

 動揺の声は長男モルタのもの。透子は内心で舌を打った。

 隠していたつもりはない。聞かれなかったし、言わなかっただけだ。元はただのOLだった透子にとって、勇者だの魔族だと大して気にすることではなかった。

 だが、今更ながらそれが誤りだったと気づいた。ホルガーがこれから言うことが容易に想像できる。

『魔王様や姫様のような魔族にとって、勇者などというものは不倶戴天の敵であり、唯一にして最大の天敵なのです。私のようなただの人間ならいざ知らず、そんな者を城に置くわけにはいきません。ですので、追放させていただきます。何か反論はありますか?』

 いつものような、事務的な口調。だがその背後からは、隠しきれない優越感を感じた。それが、こそこそと城に潜り込んだ勇者を出し抜いたからなのか、それとも――。

 反論が思いつかない。不倶戴天の敵とまで言い放つなら、それはきっときのことたけのこのようなものなのだろう。両者の間にある亀裂は、海よりも深く透子の心より広い。

 ふと、大切な人の顔が脳裏をよぎった。

「……エーファ様も、その意見に賛成なの?」

 ホルガーはともかく、エーファは心優しいお姫様だ。あるいは、透子のことをかばってくれるかも知れない。

 だが、そんな透子の希望もあっさり砕かれた。

『もちろん、姫様も私と同意見ですよ』

「そ、んな……」

 絶望しかけるが、いや、と透子は首を振る。

「あんたの言葉なんて信じられないわ。エーファ様の言葉を直接聞かせなさい!」

『それであなたが納得するなら』

 あっさりとホルガーはそう答え、インターホンの向こうから人の動く気配がした。

『トーコさん……』

 悲嘆に暮れたような声。それは間違いなく、透子が愛してやまないエーファのものだった。

「エーファ様! その……私は確かに勇者です。ですが、決してあなたたちを裏切るつもりはありません。ですから――」

『トーコさんは……』

 必死に訴えかける透子の言葉をさえぎり、エーファは言った。

『私たちを、騙していたんですね』

 言葉がつまる。

 隠していたつもりがないように、騙していたつもりもなかった。だが、それは透子の主観でしかない。透子にそのつもりがなくとも、エーファたちからすればそうではなかったのだ。

 仮に透子が友人の家に居候したとして、借りた部屋に黒い悪魔が出たとしよう。「うん、出るよ。でもほら、聞かれなかったし」などとその友人が言ったなら、透子はその友人をタコ殴りにした上でバ○サンを焚くだろう。

 それだけの怒りと絶望を、エーファに与えてしまった。裏切り者と言われたことよりも、エーファを傷つけてしまったことを透子は悔やんだ。

『勇者なんて人と、一緒にいたくありません。出て行ってください』

 普段のエーファからは考えられない辛辣な言葉。だが、逃げることなく透子はそれを受け止めた。

「そうすれば、エーファ様は幸せになれますか?」

 すぐに返事はこない。インターホンの向こうで流れた、一瞬の緊張感。透子の気のせいでなければ、それは息をのむ気配だった。

『……ええ、そうですね。勇者と一緒にいる。それが幸せなわけがありません。だから、出て行ってください』

 少し早口な言葉。押し殺そうとしているが、つらさが隠し切れていない、そんな声だった。無理もない。心優しいエーファに、こんなことを言わせているのだ。つらくないわけがない。

「わかりました」

 これ以上食い下がれば、さらに辛辣な言葉を重ねさせてしまうことになる。故に、透子はあっさりとエーファの言葉を受け入れた。

「それでエーファ様が幸せになるのなら、私は喜んで出て行きます。今までお世話になりました」

『っ……』

 何度目かの、息をのむ気配。だがその気配はすぐに、足音とともに遠ざかっていった。

『これで満足ですか?』

 代わりにインターホンから流れてくる、ホルガーの声。もはや腹立たしくも思わない。これから改めて下されるであろう裁決を粛々と受け入れるだけだったが、

『では、古迫透子、モルタ、ラルド、ロースの四名は、このベルンシュタイン城より追放とします』

「なっ!?」

 到底納得できない内容に、透子はインターホンに向かって大声を上げた。

「ちょっと待ちなさい! 私はともかく、どうしてモルタたちまで追放なの!?」

 そう怒鳴って透子はモルタたちを見やる。当然のように、彼らも目を白黒させていた。

『どうしても何も、彼らは透子さんの部下です。クーデターに荷担していると見るのが当然でしょう』

「ふざけんじゃないわよ! 確かにこいつらは私の部下だけど、私が勇者だってことは知らなかったわ。騙されてたって言い方になるなら、こいつらも同じよ!」

『疑わしきは罰せよ、です。これ以上の議論は無駄です。ではさようなら。ああ、ちなみに、壁をよじ登って侵入しようなんて思わないでくださいね。城全体を覆うように結界を張っているので、下手に触れるとビリっときますよ。悪しからず』

「ちょっ……!」

 取り付く島もない。ブツン、とインターホンの通信が切れた。動作させる魔力そのものを切ったらしく、チャイムを押してもうんともすんとも言わなくなった。

「あの陰湿クソロリコン!」

 罵声とともにインターホンを思い切り殴りつけ、透子は深いため息をついた。そしてヒリヒリする拳をさすりながら振り返る。その視線の先には、どうしようどうしようと狼狽えていたモルタたちがいる。なぜかロースの姿が見えないが、モルタとラルドは混乱の極みにいるようだった。

「あんたたち……」

 ざ、と透子はモルタたちに向かって一歩踏み出す。すわ殴られるのではないかと、モルタたち二人は一瞬で身構えた。

 だが、透子のとった行動は、彼らの想像の斜め上だった。

「悪かったわ」透子は頭を下げた。「確かに私は勇者、なんだと思う。今更それを否定するつもりもないし、黙っていたことについては悪いとは思っていない。けれど、私の判断ミスにあんたたちを巻き込んじゃったのは私の責任だわ。ごめんなさい」

 そう言って顔を上げると、モルタたちは目を大きく見開いたまま顔を見合わせていた。

「……何よ、その反応」

「いや……」

 言葉を濁し、モルタとラルドはひそひそと内緒話を始めてしまった。

「何なのよ。最近内緒話が多いんじゃないの。文句や恨み言があるなら直接言いなさい」

 そんな透子の言葉にも反応せず、モルタたちはまだ何か話し合っている。だがそれもしばらくして終わり、(豚頭なのでわかりにくいが)神妙な顔で透子に向き直った。

「なら聞かせてもらおう。あなたは、それでいいのか?」

 透子は露骨に眉根を寄せる。言葉の内容もそうだが、モルタの雰囲気に戸惑った。敬語ではないのはともかく、透子に対する今までのモルタはおどおどしているばかりだった。だがなぜか今は堂々と――それこそ彼の目標とする騎士のように――透子と正対していた。

「言っている意味がわからないわね」

「では質問の内容を変えよう。さっきのエーファ様の言葉が、本当に彼女の本心だと思っているのか?」

「本心か、ですって?」ハ、と透子は鼻で笑った。「そんなこと、考えてないわけないじゃない」

「なら――」

「でもそんなこと関係ないのよ」

 モルタの言葉を遮り、透子は表情を変える。

「私はエーファ様の剣であり盾なの。あの子の言葉を疑うことも深読みすることも否定することも邪推することも、その一切があってはいけないのよ」

 淡々と言い切る。いつもの、いい意味で人間くさい表情ではなく、一切の感情が読めない無表情だった。

 そんな透子に、モルタは歯ぎしりする。

「バカな。それは単なる妄信だ」

 でしょうね、と透子は自分を嘲るように笑い、歩き出した。

「どこへ行く」

「決まってるでしょ、ここではないとこか、よ。あの子がそう望んでいるのだから」

「待っ……」

 透子の足取りに迷いはない。話はまだ終わってないとばかりに、モルタが透子を呼び止めようとした、そのときだった。

「ん? この音は……」

 モルタは眉をひそめる。同じくして、透子も足を止めた。

「ピアノ、か?」

 目の前の城壁のせいで見えないが、確かにピアノの音色が城の方から聞こえてきていた。エーファの母が作った『希望』という曲だ。なぜか小さな違和感を覚えたが、幾度となく聞いた曲だ、その旋律を間違えようがない。

「あんなことを言った直後にピアノ、か。やはりあの言葉は本心だったのかも知れないな」

 その自嘲めいた呟きは透子に向いているものでもあったが、彼女は全く反応しなかった。

 視線を城壁の向こうから透子へと向け、モルタはぞくりと背筋が冷たくなった。

 憤怒。

 透子の表情を一言で表すなら、まさしくそれだった。ピアノの音色が聞こえてくる先、エーファの部屋を恐ろしいまでの目力で睨みつけている。間には城壁があってエーファの部屋は見えていないはずだが、その城壁に穴を開けそうなほどの眼力だ。

「絶対に、許さない……」

 低く、暗い、地獄を思わせるような透子の呟きに、次男ラルドは泡を吹いて倒れた。


          *     *     *


「のんきなものですね」

 鍵盤に指を走らせるエーファに、ホルガーは嘲るようにそう言った。

「彼女たちも貴女の言葉を疑っていたかも知れませんが、これで諦めもついたことでしょう。手向けに音色を届けたところで、それが慰めになるはずもありません。ふふ、今頃は理不尽な対処に憤っていることでしょう」

 ホルガーの言葉に耳を貸さず、エーファはただただ鍵盤を弾き続ける。

(――「トーコさんたちに、最後にもう一度だけピアノを聞いてほしいんです。弾かせてください、お願いします」――)

 決して、ホルガーが透子たちのメンタルにとどめを刺そうとしたわけではない。今こうしてエーファがピアノを弾いているのは、彼女自身がそう頼んだからだった。

 数え切れないほど弾いてきた曲だ。目を瞑っていても過たず弾ける。だが今だけは、そうではなかった。気を抜くと間違えそうになる。いつもは大好きだった音色も、今は胸が張り裂けそうなほどにつらいものになってしまっている。

 それでもエーファは指を動かし続けた。このつらい旋律(、、、、、)が、透子の耳に、そして心に届くと信じて。

「もう十分でしょう」

 そんなエーファの指を、氷のように冷たいホルガーの声が止めた。

「時間に余裕がない、というわけではありませんが、いつまでも貴女の遊戯につきあうつもりはありません」

 ホルガーはエーファの腕をつかみ、強引に立ち上がらせた。そして部屋の反対側へと突き飛ばす。

「い、痛いです……」

 まなじりに涙を浮かべるエーファ。暴力そのものを受けたことはないが、タンスの角に小指をぶつけるなどのドジで痛みそのものは知っている。

 彼女の涙は痛みによるものではない。優しかったホルガーから暴力を受けているという、そのつらさがそうさせていた。

「さあ、最後の仕事をしてもらいます」

 震えるエーファを気にも留めず、ホルガーはソレを操作する。

「い、一体何をするつもりなんですか」

 エーファの目の前にあるもの。それは今となってはあるのが当たり前になっていた、魔力水晶だった。台座の上で浮遊するそれが、不安な自分の顔を映しだしている。

「もう魔力は十分に貯まったのでね、貴女に取り出してもらいたいのですよ」

「魔力を、取り出す?」

「ええ。魔力を保管するこの魔力水晶とは別に、魔力を凝縮させた魔力結晶。魔族はそれを生み出すことができるはずです。遺憾ながら人間の私にはできませんので。お願いできますか?」

 お願いと言ってはいるが、それは実質命令と相違ない。余計な口を挟めば、何をされるかわからない。断ることはもちろん、なぜと疑問を投げかけることさえできなかった。

 ふう、と小さく息を吐き、瞳を閉じる。魔力の結晶化などしたことはないが、やり方は本能で理解していた。

 両手を魔力水晶に向け、魔力を込める。水晶の内側に膜を張り、それを徐々に縮めていくイメージ。膜から魔力を逃さないように集中し、ゆっくりゆっくりと凝縮していく。

 魔力の量は半端なものではない。少しでも焦ったり気を抜いたりすると、漏れた魔力が無駄になってしまう。それを容認されるとは思えないし、ホルガー自身も望まないだろう。集中し、ゆっくりと時間を掛ける必要がある。

 十分は経っただろうか。汗だくになって座り込んだエーファの手には、紫色の物体が生まれていた。

「なるほど、これが」

 うっとりとした声色で独りごち、ホルガーはエーファの手から魔力結晶を取り上げる。

 アメジストのような外見で、大きさは鶏の卵より少し小さいくらい。見た目は単なる宝石だが、そこから発せられる魔力がそうではないことを雄弁に物語っている。

「上等です。これはありがたくいただきましょう」

 まさしく宝石を扱うかのような所作で、ホルガーは魔力結晶をだぼついたローブの内側にしまい込んだ。

「一体、あなたの目的は何なのですか……」

 魔力結晶を生成した疲労をその顔に浮かべながら、エーファは気丈にもそう問いかけた。ホルガーの機嫌が良さそうに見えることからの行動だったが、エーファはすぐにその判断を後悔した。

「……ああ」

 ゆっくりと、ホルガーの顔がエーファの方に向く。その薄ら寒い笑みに、エーファは凍り付いた。

「まだいたんでしたね。もう用済みですよ」

 無感情な声でそう言って、壁に立てかけていた〝それ〟を手に取るホルガー。それが鞘から抜かれると、白刃が神々しく輝いた。

 そう、そうだった、機嫌がいいからと言って、道端に転がる石ころに情けをかけるような男ではない。エーファ自身がよく知っているはずのことだった。

「ひっ」

 のどの奥で悲鳴が上がる。ホルガーに対してではない。彼のもつ両刃剣、それが発する気配に対してだ。

(怖い、怖い……そうだ、あの剣の気配、あれは間違いなく――)

 見たことはない。だが、本能が知っている。魔族が忌避する、彼らにとって唯一にして最大の驚異。

(――聖剣)

 恐怖に体が震え、歯がかちかちと打ち合わされる。

(イヤだ、助けて……)

 ホルガーが聖剣を振り上げた。窓から差し込む日光に照らされ、聖剣が美しく輝く。

(助けて、お父さん……)

 じわ、と座り込んだ床が温かくなった。魔王の姫としてあるまじき粗相ではあったが、もはやエーファにそんなことを気にする余裕はなかった。

 聖剣が振り下ろされる。

(助けて、トーコさん!)

 ぎゅっと目を瞑ったが、受けるはずの衝撃は受けることがなく、その代わりに金属が木を叩く鈍い音が響いた。


「遅くなりました、エーファ様」


 聞き慣れた声。交流を始めてまだ短い期間だというのに、もう聞き慣れてしまった声。

 彼女には言っていなかったが、エーファが姉のように慕っていた人。

「トーコ、さん……」

 目を開き、エーファは涙を流した。

 エーファとホルガーの間に立ち、聖剣の・凶刃・を同じく聖剣で受けたスーツ姿の勇者――古迫透子がそこにいた。なぜか手は血でにじみスカートは破けているが、彼女のその頼れる背中はまさにエーファが望んでいたものだった。

「てりゃ!」

「ぐっ」

 剣を受けたまま、後ろ回し蹴りを繰り出す透子。ホルガーはそれを腹に受け、よろけるように数歩下がった。多少はダメージが入ったらしくホルガーは腹を押さえ、透子を睨みつけた。

 ひとまず窮地を脱したことを確認し、透子は片膝をついてエーファの手を取った。

「大丈夫ですか、エーファ様」

「トーコさん、なぜここに……」

「聞こえたんですよ、あなたのピアノが」

「ピアノ、ですって?」

 ホルガーが疑問を投げかける。

「あの曲ならいつも弾いていたもののはずです。助けを呼ぶような内容では……」

「ハン、情緒を解さない男ねえ」

 透子は侮蔑の視線をホルガーに向けた。

「メロディが同じでも、エーファ様がいつも弾いてたのは長調、今のは短調よ。暗い曲調が嫌いって言ってたエーファ様がわざわざ短調で弾くんだもの。何かあると思うのが普通でしょ?」

「トーコさん……」

 自信満々に語る透子に向けるエーファの顔は、完全に恋する少女のそれだった。目がハートでもおかしくはない。

「ふん、まあそのSOSについては納得しましょう。ですが、どうやってここに入ったのですか。城には結界があったはず……」

「部下思いだと、部下の秘密を共有してもらえるのよ」

 お生憎様、と透子はウィンクを決めた。


          *     *     *


「絶対に許さないわ、あのクソ野郎」

 怨嗟の声は、エーファに対してだとモルタは思っていた。だがそれは、ホルガーに対してのものだった。

「行かないと」

 城壁の向こうを睨みつけていた透子だったが、気持ちを静めるように一息ついた。

「なに? どこへだ」

「決まってるじゃない、エーファ様を助けに行くのよ!」

「は? さっきと言っていることが真逆ではないか。姫様の言葉だけに従うのだろう?」

「だからじゃない!」

 エーファはモルタに詰め寄り、胸ぐらをつかんだ。身長差がかなりあるので見上げる体勢は変わらないが、気迫は伝わってくる。

「あんたには聞こえなかったの? エーファ様の助けが」

「助け?」

 モルタはわけがわからない。助けも何も、聞こえていたのはピアノの音色だけだ。

 相手をしていても仕方ないと判断し、透子は困惑するモルタから手を離した。そしてその手を城壁に向ける。

「おい、どうするつもりだ」

「この壁を登るのよ」

 こともなげに言い、透子はパンプスを脱ぎ捨てた。ストッキングすらも脱ぎ、素足になってしまう。そして感覚を確かめるように、手や足を壁にかけ始めた。

「待て、無茶だ!」

「なめないでよね。ボルダリングも嗜んでいた私に、こんな壁わけないわ」

「そうじゃない! ボルダリングとやらが何のことだかはわからないが、ホルガー様の話を聞いてなかったのか。壁の上空には結界が張ってある。触れたらただでは済まんぞ」

「だから何?」

 声だけを返し、透子は壁を登っていく。

「エーファ様が待ってるの。ならそこに行くだけなのよ。結界だろうが何だろうが、私の邪魔をするならぶち破ってあげる。無茶かどうかなんて興味ないわ。ただ、エーファ様のために私はそうするのよ。OLのOはobedience(服従)のOってね。……っ!」

 透子が足をかけ損ねた。バランスを崩し、立て直すこともできずに数メートル下の地面に落下した。

「っくぅ……邪魔、なのよ」

 落下の衝撃に身悶えしたのも一瞬だけ。透子はすぐに立ち上がり、タイトスカートの両横をたてに引き裂いた。スカートに大きなスリットが入り、透子のしなやかな太股が露わになる。

 そうして、透子は再び壁を登り始めようとしたが、すぐに手を押さえてうずくまった。

「おい、どうした」

 駆け寄ったモルタは愕然とした。左手の指、その内二枚の爪がめくれていた。恐らく、先ほどバランスを崩したせいだろう。

「こんな手じゃあ無理だ。城壁の上まで高さもあるし、とっかかりもほとんどない。また落ちるぞ」

「それがどうしたのよ。関係ないって言ったでしょう」

 心配するモルタを押しのけ、透子はまた壁を登ろうとする。

 そんな透子の肩に、モルタは大きな手を置いた。

「なに、邪魔するならあんたも――」

「違う、早合点するな。私も手伝う」

「……何ですって?」

 透子は眉をひそめた。意識を取り戻したラルドも首を傾げている。

「結界が危ないって言ったのはあんたでしょう? 手のひら返しもいいとこね」

「それをチーフには言われたくないな。上司が血をにじませて頑張っているのに、部下が手をこまねいている場合ではなかろう」

「は? それこそ意味がわからないわ。私たちは城を追放されたの。上司でも部下でも何でもない。もう私に従う必要なんてないの。それに、あれだけ理不尽な扱いをしたのよ? あんたたちに私への敬意があるなんて考えられない。恨み言ならあるでしょうけれど」

 苦笑を伴った透子の皮肉に、モルタは神妙な顔で答える。

「恨み言というのなら、山ほどある」

「でしょうね」

「あなたがこの城に来るまで、我々は平和に暮らしていた。だが今はどうだ。罵倒され、殴られ、しごかれる日々。悪魔より悪魔らしい人間に戦慄した。やってられるかと思ったことは星の数ほどもある」

 淡々と紡がれる恨み言に、透子は僅かに目を伏せた。悲しかったわけでも、悔しかったわけでもない。ただ、恨み言をぶちまけるモルタが、以前の自分と被って見えた。

「だが、あなたは我々の上司だった」

 モルタは僅かに口角を上げた。

「理不尽なのは間違いない。だがそれは上司としてで、同時に、上司として我々に(、、、、、、、、)対等(、、)だった。覚えているか? あの冒険者から鉱山の話を聞いたときのことだ。我らは当然接収されると思っていた。だがあなたはそうしなかった。そのときに我らは話し合ったのだ。この人は、信じてよいのではないか、と」

 風が吹いた。未だ、エーファのピアノは鳴り止んでいない。

「あなたは今、もう我々は上下の関係ではないと言った。形式上はそうかも知れない。だが、私はあなたに仕えたいと思った。罵倒され、殴られ、しごかれ、扱いは理不尽でも、仁義を通すあなたに仕えたいと思ったのだ。これでは答えにならないだろうか」

 透子は答えず、さっとモルタたちに背を向けた。

「……馬鹿じゃないの?」

 いつものような、理不尽な罵声。だがその声が僅かに震えているのを、モルタは気づかない振りをした。

「私は、ああはなりたくなかっただけなのよ」

 透子の脳裏に、憎たらしい狸親父の顔が浮かんだ。今となっては懐かしいが、かと言って忘れられるものではない。

 悩んだこともあった。自分の振る舞いで、きっとオークたちから嫌われているだろうと。結局、自分もまた、あの狸親父と同じなのだと。

 だが、そうではなかった。

「違いない、我々は馬鹿なのだろう。まぁ、そのセリフはそっくりそのまま返させてもらうがね。何はともあれ、我々はあなたに従う。ラルドもそれでいいな?」

「うん、いいよ」ラルドはなぜか頬を赤らめた。「たくさん頑張るから、またたくさん殴ってください……」

「お前……」

 モルタは言葉を失う。可愛い弟に新たな性癖が生まれた瞬間だった。

「っぷ……ふふっ、あっはははは! ……まったくオークってのはあんたたちみたいに変なのばっかなの? これから苦労しそうだわ。――ところで」

 透子は辺りを見回す。

「ロースはどこに行ったの? さっきから姿が見えないけれど」

「さて、ともにここまで走ってきたところまではいたんだが。まあ奴のことだ、そこらの薬草でも摘んでるんでしょう。それよりも、姫様のところに行く手だてを考えなければ。結界を破るのは不可能ではないだろうが、やはりリスクが高すぎる」

「んなこと言ったって、他に方法なんて――」

 ないじゃない、と言いかけたところだった。

「え? きゃあっ」

 突如透子の足下が隆起し、透子は後ろに転がった。

「なっ、なな何なのよ!」

 めくれあがったスカートを慌てて押さえつけ、透子は涙目で起きあがる。

 隆起したと思っていた地面は、まるで潜水艦のハッチのようになっていた。そこから「よっこらせ」と巨体が這い出てくる。

「ろ、ロース! お前何をしてたんだ!」

「へ? いや、何って」

 地面から出てきたロースは、目を丸くしている透子たちに大きな袋を掲げた。

「城を追い出されるって聞いたから、荷物を取りに行っとっただけやけど? うわ、どしたんチーフ、手ぇ血塗れやし、スカート破れてますやん! えーっと、薬、薬……」

 ロースは袋をごそごそし始めたが、透子たちはそんなことどうでもよかった。

「ロース、あんたその荷物、どこから取ってきたの……?」

「そんなん自分の部屋からに決まってますやん」

「城の中の?」

「そらそうでしょ」

 こともなげに言うロースを見て、透子は少し前のことを思い出していた。

(――「何であなた壁から出てくるの!?」――)

(――「町ぃ? 確かあなたたち、町はもちろん、外出にも私とホルガーの許可がいるんじゃ……」――)

 そう、確かあのとき、ロースは壁に掛けてある絵画を押しのけて現れたのだ。あのときはうやむやになってしまったが、つまりそういうことだったのである。

「あんた、勝手に抜け道を作ってたのね?」

「げ」

 ゆらりと立ち上がった透子に、ロースは体を硬直させた。ちょうどそれは、悪戯が見つかった子どものようだった。

「いや、それは……ちゃ、ちゃいますねん。ウチの研究には薬草とか色々ようけ必要やのに、ホルガーはんがなかなか外出許可をくれんから――」

 口角泡を飛ばしながら言い訳を重ねるロースだったが、透子はふるふると顔を横に振る。そして、ロースの肩に手を置いた。

「でかしたわ、ロース」

 ロースはわけもわからず首を傾げた。


          *     *     *


「てことよ。ロースが通れる抜け道だもの。私にはいっそ快適なくらいだったわ」

「そんなご都合主義な……」

 ぎり、とホルガーは歯を食いしばる。

「いいわ、その表情最高。あんたのそんな顔が見たかったの。ご都合主義だろうと何だろうと、最終的に勝った方が勝ちなのよ」

 透子は鞘に納められたままの聖剣をホルガーに向けた。

「さあ、もう諦めなさい!」

 すでに勝ち誇った気分でいる透子だったが、ホルガーは苦々しい表情を消し、不敵に笑んだ。

「ふ、舐められたものです」

「何ですって?」

「私が、デスクワークだけが取り柄の運動音痴だとでも思いましたか?」

「言うじゃない。なら白黒つけてあげるわ。OLなめんじゃないわよ。――エーファ様、危険なので下がって……」

 背後のエーファを伺う透子。だが、その体がぴたりと止まった。

「え? ……あっ!」

 透子の様子を不自然に思い、エーファは自分の状態を思い出す。そして瞬時に顔が紅に染まった。

「み、見ないでください!」

 自分の下に広がる、まだほんのり温かい液体。それが何なのかは一目瞭然だった。悪魔の娘から生み出される聖水。たちの悪いジョークである。

 羞恥に染まるエーファを一通り堪能してから、透子はホルガーを睨みつけた。

「あっ、あんた! エーファ様にお漏らしさせたのね!?」

「失礼な。姫様が勝手にお漏らししただけです」

「責任転嫁してんじゃないわよ! あんたが脅かすからお漏らししたんでしょうが!」

「脅かしたつもりはありません。お漏らしの責任を押しつけられても困ります」

 透子はエーファをかばっているつもりだったが、

「もう、死にたい……」

 飛び交う「お漏らし」という単語は、エーファのメンタルにとどめを刺していた。

「エーファ様に恥までかかせて、もう許さないわ。覚悟なさい!」

 聖剣フェアラートを握りしめ、怒りのままにホルガーへと斬りかかる。だがそれはあっさりと受けられてしまった。

 続けざまに一合、二合、三合、あらゆる角度から剣撃を繰り出してみるものの、苦もなく受け止められてしまう。

 鍔迫り合いの体勢になり、透子は不敵な笑みを向けた。

「ふん、やるじゃない。文官ってのはこういうことにはからっきしだと思ってたわ」

「だからそう言ったではないですか」

 対するホルガーは、いつものような涼しい笑みを浮かべている。

「逆に私は、貴女に対して落胆しました」

「何ですって?」

「優れた身体能力をもち、行動力、判断力も十分。ですが貴女は人間で、勇者なのです。魔族は人間にとって悪。片棒を担ぐべき相手ではありません」

「……それがあんたの本音ってわけ?」

「無論です。私も人間。人の肩をもち、魔族という悪を伐つことの何が悪いのですか!」

 ホルガーは透子を押し返し、上段に斬りかかった。

「つっ!」

 予想以上に重い一撃だった。無論剣の重さだけではなく、そこにはホルガーの剣技量が現れている。

「ご高説、拝聴したわ。けどね、私は人間とか魔族とかどうでもいいのよ」

 透子は後方のエーファを一瞥する。なぜか涙目で睨みつけてきているが、それもまた愛らしく見えた。

「私にとってはエーファ様だけが世界の全て。それ以外はどうなろうとしったこっちゃないわ」

「狂ってますね」

「せめて偏愛と言ってちょうだい」

「いいでしょう」

 ホルガーは距離を取り、聖剣を構えた。剣氣が増大し、透子の肌をぴりぴりと刺激する。

「ならその偏愛、私の正義でもって打ち破って差し上げましょう!」


 エーファの部屋に、剣戟の音が響く。室内と言ってもペタンクができる程度には広く、贅沢を好まないエーファ故に物も少ない。剣を振り回しても全く問題はなかった。

 一際大きい音が響き、透子とホルガーは距離を取った。

「ふう、しぶといですね、透子さん」

「はぁはぁ、あんたの方こそね……」

 軽口を叩くものの、息が上がっているのは透子の方のみ。技量の差はそこまででもないが、徐々に優劣がつきつつあった。

「それに、その剣も大したものです。これだけ打ち合っていて、ヒビ一つ入らないとは」

 透子は未だ、聖剣を抜くことができていない。ずっと鞘のまま抜き身の刃と打ち合っていたが、ホルガーの言うとおりその黄金の鞘にヒビところか傷一つついていなかった。

「あんたのそれこそ、聖剣だったのね。宝物庫で見たとき、妙な既視感があると思ったのよ。魔王城に聖剣を隠してるなんて、性格が悪いにもほどがあるわ」

「常に堂々と持ち歩いている人に言われたくありませんが」

 ぐうの音も出ない正論だった。

「……善戦のご褒美に、透子さんの知りたがっていたことを教えて上げましょう」

 不意に、ホルガーが口の端を持ち上げながらそう言った。

「知りたがっていたこと? ――まさか」

 透子は後ろを振り返る。そこには、不安げな顔のエーファ。そのエーファもまた、ホルガーが何を言おうとしているのかを悟り、顔色を変えた。

「まさか……や、やめてください!」

「エーファ様が魔力を生み出すスピード。それが異常だという話は前にしましたね?」

 エーファには構わず、ホルガーはつらつらと話し始める。

「無論、普通の魔族も魔力を体内で生み出しています。ですがそれは生理現象のようなものであり、スピードも多少の個体差程度の違いしかありません。魔力を早く多く生み出そうとするならば、それに見合った栄養補給がいるのです」

「つまり、エーファ様の魔力生成が早いのも、栄養のあるものを多く食べてるからってことなの?」

「そうです。そして、それこそがエーファ様にかけられた呪いなのですよ。魔力を生み出すもの……いや、魔力を多く保有しているものは何だと思いますか?」

 そんなことを聞かれても、単なるOLだった透子にわかるはずもない。

「マムシとかスッポン?」

「貴金属、そして宝石ですよ」

 透子の下ネタ(無意識)をスルーし、ホルガーは声高にそう言い放った。

「希少だからなのか、なぜかそれらには魔力が込められているのです」

「ふーん……待って、さっき栄養補給って言ったわよね? つまり――」

「そう、エーファ様は貴金属や宝石を口にしているのです。それこそが、彼女にかけられた呪いなんですよ!」

 透子は再びエーファの方へ振り返った。エーファは真っ赤になって俯いている。ただでさえ小さい身体が、余計に小さく見えた。

「いや、でも……エーファ様、歯とあごがすごく丈夫なんですか?」

 違います、とエーファは小声で答えた。

「呪いのせいなのか、噛み砕くことにも飲み込むことにも抵抗がないんです」

 消化された後はどうなるのかも気になったが、そこはさすがに聞かなかった。

「ちなみに、普通の食べ物はどうなんですか?」

「口にした瞬間に戻してしまいます。何ともないのは水くらいで……」

「ふむ……」

 透子はホルガーに向き直った。エーファの恥部を晒したからか、ホルガーは意地の悪い笑みを浮かべている。

「どうです? 宝石なんかを食べているんですよ? おぞましいで――」

「で、オチは?」

「……は?」

 ぽかん、とホルガーは口を開けた。

「は、じゃないわよ。オチはないの?」

「オチって、透子さん、今の話を聞いて、思うところはなかったんですか。宝石や貴金属を食べてるんですよ?」

 ホルガーは強調するように繰り返すが、透子は首を傾げるだけだ。

「思うところ? ……ああ」ぽん、と透子は手を打つ。「宝石なんて食べてるの~? え~、気持ち悪~い。何て私が言うのを期待してたのね? でもお生憎様、私だって、お金がないときは土食って生きてたんだもの。栄養のあるものは全部妹に回してたからね。宝石や貴金属食べるくらい何とも思わないわ」

 遠くを見つめる透子。

「いや~、懐かしいわねぇ、カエルが食べられるって知ってからは土も減ったんだけどね。ただ小さいカエルは小骨が多いのよ。個人的によかったのは蛇とウシガエルね。特にウシガエルは食用だけあって、鶏肉みたいで美味し……」

 ハッと、透子は我に返る。ホルガーに哀れみの視線を向けられていた。

「コホン! つまり、その程度で私がエーファ様を嫌いになるわけがないの。残念だったわね」

 そう言うと、ホルガーは哀れみから一転、憎々しげに顔を歪めた。

「ふん、どこまでいっても食えない女ですね雑談は終わりにしましょう」

 右手で聖剣を構えるホルガー。透子もそれに呼応する。

「行きますよ!」

 ホルガーが床を蹴った。瞬時に間合いを詰め、右手で聖剣を振り上げる。

 振り上げた瞬間に、白刃は閃いた。

「なっ!?」

 その輝きは聖剣のものではない。聖剣を振りかぶると同時に、ホルガーは左手でナイフを投擲していた。

「つっ!」

 眉間を狙って放たれたそれ。とっさに弾くことができたのはやはり偶然だったが、この奇襲で透子は完全にバランスを崩した。

「そこです!」

 ホルガーは聖剣を振り下ろした。何とかそれも受け止めたものの、足のふんばりがきかずに透子は壁際のベッドまで吹っ飛ばされた。

「きゃあああ」

 無意識に手を伸ばすが、つかめたのはふかふかの布団だけ。当然布団はめくれ、透子はそれに包まれながらベッドと壁の隙間に落ちてしまった。

(くっそぉ……)

 布団に包まれ、真っ暗闇の中で歯ぎしりする透子。悔しいが、僅かにホルガーの方が上手だ。

「どうしました? お休みの時間にはまだ早いですよ」

 人を小馬鹿にしたような声が聞こえてくる。追い打ちをかけてくる様子はないらしい。

(どうする……)

 正攻法でやっても勝ち目は薄い。かと言って、エーファを連れて逃げ出せるほどの隙もない。

(どうすれば……ん?)

 ふと、身じろぎした拍子に上着のポケットに手が当たった。そこには何かが入っている。

(これは……そうか!)

 透子は、唇の端を吊り上げた。


「何を企んでいるのかは知りませんが、早く出てきなさい。姫様のお漏らしを全国に通達しますよ」

 とばっちりです! というエーファの声はホルガーに届かない。だが透子には届いたようだ。ベッドと壁の隙間から、透子が立ち上がった。

「初めから素直にそうしていればいいんです。さあ来なさい」

 そう挑発するホルガーに応えるように、透子はベッドから跳躍した。右手に聖剣を持ち、大きく振りかぶっている。

 透子からホルガーへは数メートルも離れている。間合いに入られるにはまだ十分に猶予がある。

 そう判断し、ホルガーはゆっくりと剣撃に備えたが、

「なっ!?」

 透子は左手で、小さな筒状の何かを放り投げた。まだ間合いの外だと思っていたホルガーはとっさに反応できない。

 三男ロースとよく交流していたエーファは、透子が投げたものが何なのか知っていた。だから、反応ができた。目を瞑るという反応が。

 オーク三兄弟とはほとんど接点をもたなかったホルガーは、それが何なのか知らなかった。だから、それを注視してしまった。

 筒が強烈な閃光を発し、エーファの部屋が光に満たされる。

「ぐ、ああああああ!」

 光を発したのはほんの一秒足らず。だがその光が収まったときには、ホルガーは顔を覆って床にうずくまっていた。

 隠し持っていた閃光弾によって生まれた隙。それを見逃すはずもなく、透子はホルガーに殴りかかる。

 袈裟斬りに振り下ろす聖剣が、ホルガーの頭蓋骨を打ち砕く、はずだった。

「……甘いんですよ」

 嘲笑うような声。そして、もう何度聞いたかわからない、鞘と刃がぶつかり合う音。

 透子の聖剣はホルガーの後頭部に届くことはなく、受け止められていた。

「奇襲を考えないわけがないでしょう。その内容も限られる。それに何ですか、その気の抜けた振りは。爪が甘い。全くもって甘いんですよ!」

 勢いよく立ち上がりつつ、ホルガーは受け止めた透子の聖剣を弾き飛ばした。

 辛うじて手放すことはなかったものの、透子の身体はがら空きになってしまう。

 それは、致命的な隙だった。

「死ねッ!」

 ホルガーは手首を返し、弾くために振り上げた聖剣を反転、袈裟斬りに振り下ろした。

 奇しくも直前の透子と同じ太刀筋。

 だが今回は、それが受けられることはなかった。

「トーコさん!」

 エーファの悲鳴が響き渡る。

 ホルガーの聖剣は、透子の身体を深々と切り裂いていた。

 透子からはうめき声一つ上がらない。どこかスローモーションのように、その身体が床に崩れ落ちた。

「いや……いやぁっ!」

 仰向けに倒れた透子に、エーファは泣き叫びながら駆け寄った。

「そんな……いや……いやです!」

 透子の傍にひざまずき、透子の様子をのぞき込む。すでに、透子の瞳からは光が消えつつあった。

 どくどくと溢れる血が、紺のスーツをどす黒く染め上げていく。裂かれたスーツからのぞく傷口はかなり深い。致命傷だ。

「ク、ククク……私があの程度の奇襲に引っかかると思ったのでしょうか」

 笑いをこぼすホルガーを、エーファはキッと睨みつけた。

「あなたは、最低です。仮にも、ともにこの城で過ごした人ではないですか。魔族に荷担したというだけで、人間に逆らったというだけで、どうしてここまでひどいことができるのです」

「人間に……? ああ、そう言えばそんなことを言いましたね」

「……どういう、ことですか」

 ホルガーの言い回しには違和感があった。まるでその理由が――

「建前ですよ」

 あっさりと、ホルガーはそう言った。

「ただ魔族を討つだけなら、何年もこんなかび臭い城にいません。私がそれに耐えてきたのは、ただただ貴女の魔力が目当てだったからですよ!」

 両手を広げて声高に述べる様は、まるで選挙の演説のようだ。透子という邪魔者を打ち倒したことで、気分が高揚しているらしい。

「存在が欠陥だとしても、貴女の魔力を生み出す力はすばらしい。それがようやく形となったのです。魔力結晶という形にね。この魔力を利用すれば、私は何だってできる。そう、新たな魔王となることもね!」

「それが、あなたの真の目的だったのですか……」

「わかりやすいでしょう? まあ、アーダルベルト様を伴侶とする目的もありましたがね」

「え? あんた実は女だったの?」

「馬鹿おっしゃい。私は正真正銘男です。男同士で何の問題が……な!?」

 突如割り込んだ声に、ホルガーは驚いて振り返る。その顔面に、

「ラ○ダーキィィィィィィック!」

「んのおおおおおおおおお!」

 パンプスのヒールが深々と突き刺さった。攻撃にかかる面積が小さい分、もしかすると本家より痛いかもしれない。

 スーツの女は華麗に着地。ホルガーはボールのように吹っ飛び、部屋の反対側にあったドアに直撃した。

「決まった……」

「と、トーコさん!?」

 死んだと思った人が、キックを伴って復活。エーファの驚きはもっともだろう。

「私がそう簡単に死ぬわけないじゃないですか」

 バチコンとウィンクを決める透子。

「え? え? じゃあこっちは……」

「ああ、それはですね――」

 透子は死んでいる方の透子の傍で膝をつくと、そっと首の後ろに手を伸ばす。その瞬間、透子(死)はみるみる縮み、藁人形になってしまった。

「身代わり……」

「ロースからパク……借りていたのを思い出しまして。バージョンアップして血も出るようになってましたからね、おかげでまんまと騙せました。いや~、頭脳キャラを気取ってる奴を騙すのは最高だわ!」

 最後の一言は、ドアの前で倒れているホルガーに向けられていた。

「ぐ……なるほど、閃光弾も囮だったというわけですか、やられました……」

 ホルガーはゆっくりと立ち上がる。すわ効いていないのかと透子は一瞬戦慄したが、ホルガーのうごきはややぎこちない。ダメージは確実に入っているようだ。

「さて、年貢の――」

「ただの脳筋かと思っていました。頭も回るんですね」

「誰が脳筋よ! いや、それより、とうとう年貢の――」

「まったく油断しました……ですが、これで終わりにはできません。一旦仕切り直させていただきます!」

 言うが早いか、ホルガーは背後のドアから逃げ出してしまった。

「待ちなさい! 納め時! 納め時って言わせて!」

「トーコさん!」

 即座に追いかけようとする透子だったが、ビタリと動きが止まる。振り返ると、仏頂面のエーファがいた。

「おさめどき……」

「もう! びっくりさせないでください!」

 大人しいエーファには珍しく大きな声。かなり怒ってる。ようやくそう悟り、透子は決めゼリフへの未練を断った。

「まあでも生きてましたし、ね?」」

「本当に、死んじゃったかと思って……私……わたし……」

 エーファの言葉は尻すぼみになり、それに反比例して声が震え出す。いよいよ顔を覆ってしまい、透子は大いに焦ってエーファのもとに駆け寄った。

「あああいやほら! 敵を騙すからにはまず味方からって! それに、あの策を使ってなかったら負けてたかも知れませんし……あの、その……ごめんなさい」

 頭を下げる透子。ようやくエーファは顔を上げた。目に涙を浮かべ、上目遣いで透子を睨みつける。

「許しませんから」

「え?」

「勝たないと、許しませんから」

「は、はい! もちろんです! ぎったんぎったんにしてやりますよ!」

 勢いづく透子に、エーファはにこやかな笑顔を向けた。

「頑張ってください!」

「その言葉だけで元気百倍です!」

 ぐ、と親指を立て、透子はホルガーを追うべく部屋を飛び出した。


          *     *     *


 透子がホルガーと対峙していたとき、モルタたちもまた城に侵入していた。

「ホルガー様はチーフに任せていても平気だろう。我々は我々のできることをするぞ」

 モルタの言葉に弟たちもうなずき、彼らは廊下を駆けだした。

「一体どこだろう」

 問いかけたのは次男ラルド。

「わからん。とりあえず一旦大広間まで行き、そこから手分けしよう」

 モルタが答え、三体は大広間へと向かった。

 正面玄関がある大広間。エーファの部屋からはかなり離れているため、平和さえ感じるほどに静まりかえっていた。

 大階段の上で、モルタは指示を飛ばす。

「よし、では手分けして探そう。私は玉座を中心に城内を回る。ラルドは庭園や農園、ロースはダンジョンの方を回ってくれ。では」

 行こう、そう言おうとしたときだった。

 ばん、と勢いよく正面玄関が開き、三体は驚いて階下に顔を向けた。

「やぁ! パーティには間に合ったようだね!」

 歌劇団のような芝居がかった口調。だがそれ以上に、モルタたちはその男の眩しさに目を細めた。

「ん? そこにいるのは従業員かな? 出迎えご苦労じゃないか。だが、客を見下ろすのはいただけないねぇ」

 全身を黄金の鎧でまとった男。趣味が悪いの一言に尽きるが、その腰のものは馬鹿にすることはできなかった。

「……勇者」

 モルタは苦々しく呟く。頭の悪そうな外見ではあるが、腰に下げたものは間違いなく聖剣であった。

「おや、この剣が気になるかい? なかなかいい目をしているね。そうとも! これは聖剣ハープギーリヒ! 我が家に代々伝わる由緒正しき聖剣さ!」

 聖剣ハープ略を高々と掲げる金ピカ勇者。が、そんなことは聞いていないし聞いている暇でもない。

「勇者がなぜこの城に。そもそも結界が張ってあったはずだ」

「ふふん、反抗的な目つきだね。まあいいだろう。僕は招待されたのさ、結界に阻まれるはずがないだろう」

「招待……そういうことか」

 短い言葉だったが、モルタが理解するのには十分だった。ホルガーがこの男を手引きしたのだ。今までにやりとりしていた文の多くも、この男とのものだったのだろう。

「大方、城を追い出したチーフや我らを討伐させるつもりだったのだろう。用意周到なことだ」

「オークのくせに頭が回るね。そういうことさ。さぁ、パーティを始めようじゃないか。大人しく斬られるのと、抵抗して斬られるのとどちらがいい?」

 すらりと聖剣を抜く金ピカ勇者。

 少し前までのモルタたちなら、すでにくるくるの尻尾をさらに丸めて逃げていただろう。だが、今は違う。

「チーフに感謝するべきだな」

 剣と盾を握り直し、モルタは大階段から飛び降りた。その重量に石畳の床がひび割れたが、鍛えてきた体には何の問題もない。

「この勇者を追い返したら、ご褒美に殴ってもらえるかな」

「特別手当くらいは期待してええやんな?」

 続いて、ラルドとロースも飛び降りてくる。

「おいおい、冗談だろう? 彼我のレベル差くらいはわかるはずだ。勝てない相手からは逃げる。君たちの上司はそんなことも教えてくれなかったのかい?」

「ああ、逃げたら殺す、と教えてくれたよ」

 嘘でも何でもないモルタの言葉に、勇者は顔と腹に手を当てて爆笑した。

「いやぁ、君たち最高だよ! 喜んでハープギーリヒの錆にしてあげよう」

 勇者が聖剣を構える。モルタたちもそれぞれの得物を構えた。

「合わせろ、行くぞ」

 モルタを先頭に、三兄弟はオークたちとなって勇者へと突撃する。

 両刃剣、ハルバード、釘バットが次々と勇者へ襲いかかった。勇者はそれをあくびしながら聖剣でいなす。完全に舐められていたが、

(ここからだ!)

 彼らの本領は次の囲い込みからだ。カーヤにしたときと同じように、三体が一斉に武器を振り下ろす。が、

「何……!?」

 全く同時に、全てが受け止められていた。

「馬鹿な……」

 モルタは言葉をなくす。一斉攻撃と言っても、三体が同じ所を攻撃するわけではない。当然ながら少しずつずらしたところを狙う。だがこの勇者は自らの位置をずらすことにより、被弾箇所を一点に集めたのだ。

「言っただろう、レベルが違うと」三本の得物を受け止めたまま、勇者は口を開く。「レベルってのは腕力や防御力だけじゃない。戦闘経験も含まれるのさ。この平和な町に飛ばされるまではそこそこ激戦地にいてね、同時攻撃なんて珍しいものでもなんでもないのさ。それっ」

 勇者は軽く剣を振るう。それだけで、三体は散り散りに吹っ飛ばされた。

「まだやるかい? 面倒は嫌いなんだけれど」

「当然だ」

 モルタは立ち上がる。ラルド、ロースも体勢を立て直した。

 そんなオークたちを見て、勇者は深々とため息をつく。

「イヤだイヤだ。知ってるんだよ、君たちみたいなのは意外としぶといんだ。どれだけ攻撃を受けても、ゾンビみたいに起きあがってくる。だから――」

 勇者は懐から小瓶を取り出し、床に叩きつけた。

「――君たちの相手は他の連中に任せるよ」

 モルタは眉をひそめる。他の連中? 仲間や部下がいるのか、今の小瓶は何かの合図なのか。

 様々な思考が巡ったが、割れた小瓶から漂う匂いに、モルタははっと息をのんだ。

「すぐに玄関を閉めろ!」

 玄関の近くにいたラルドにそう怒鳴ったが、ラルドの反応は間に合わなかった。

「キィッ!」

 甲高い鳴き声が響き、玄関から小さな影が飛び込んできた。ラルドはとっさに反応し、それをハルバードで弾き飛ばす。

 ごろごろと転がって動かなくなったそれは、小さなゴブリンだった。

「魔族のフェロモンか……」

「ご名答」

 歯ぎしりをするモルタに、勇者は笑顔を向ける。

「君たちのようなそこそこ知能があるモンスターには使えないがね。野良ゴブリン程度の低級モンスターはよく釣れる。さあ、もっともっと来るぞ」

 勇者の言葉通り、玄関の外にはゴブリンが次々と集まりつつあった。十や二十ではない。

「僕以外を狙うようにしてある。さっきも言ったが、所詮は低級モンスターだ。君たちの相手にはならないだろうが、多勢に無勢というものは厄介でね、足止めくらいには十分だ。その隙に、私は友の元に行くとしよう」

「く……」

 モルタたちに比べれば、ゴブリンなどただのボールのようなものだ。それでも大量に投げつけられれば痛いし腹が立つ。無視しようとしてしきれるものでもない。

 狼狽する間にもゴブリンたちは増え続け、とうとうモルタたちに襲いかかり始めた。一匹を吹っ飛ばしても、すぐに次が飛びかかってくる。

「ふふん、せいぜいそこで戯れていたまえ。あのクソ女を倒したら、すぐに戻ってきてあげるよ」

 鎧の音を鳴らせながら、勇者は大階段を登っていく。見た目はアレだが、あの勇者はかなりの手練れ。いくら透子であっても、ホルガーと同時に相手をするのは無理だろう。

「くそっ、くそっ!」

 悪態をついてもゴブリンたちが減るわけではない。ラルドとロースもいなすだけで手一杯のようだ。

「ふふふ、いい様だ……な?」

 大階段を登りきった勇者が、混沌と化した階下を見下ろして一笑に付す。だが、その笑顔がすぐに凍り付いた。


「おお、盛り上がってんな」


 野太い声。「キ!?」とゴブリンたちがその声の方に反応した。

「何だ」とモルタが呟くや否や、黒く小さな影が流れ、モルタの周りにいたゴブリンたちが倒れ伏した。黒猫のような影は目にも止まらない早さで走り抜け、ラルドとロースの周りにいたゴブリンまでもが沈黙してしまう。

「おおいオスカー、全部やっちまったらダメじゃねえか! カーヤの分も残してやれよ」

「いや、テオさん、そ、その心配はないみたいですよ。城門の方からも次々と来ます……」

 ゴツい男とローブの女、黒猫のような少女に、一切喋らない全身鎧。

 城に乱入してきたのは、もう顔なじみとなった冒険者たちだった。

「よし、じゃあ俺とヴァントで玄関を食い止める。オスカーは討ち漏らしを中で処理してくれ」

「あ、あの、私は……?」

「決まってるだろう?」

 テオバルトは満面の笑みを浮かべた。

「お前は外でソロプレイすんだよ。経験値の山だぞ、ほれ、行ってこい」

「ひ~ん、テオさんの鬼~!」

 テオバルトに尻を蹴られ、カーヤは涙目で外に飛び出した。なんだかんだ言いつつ、錫杖でゴブリンをノしている。ゴブリンの方が涙目だ。

「貴様ら、魔族の肩をもつのか」

 怒気をはらんだ声は階段の上からだった。

「この城にはお世話になっててな、潰れてもらうと困るんだよ。それに、俺たちが肩をもつのは魔族に対してじゃない」

 テオバルトはつかつかと歩き、モルタの肩に手を回した。

「このオークたちに対してさ」

「あんたたち……」

 困惑した声はモルタのもの。身長差があるため、モルタはやや前屈みになる。テオバルトはそんなモルタにウィンクした。

「あんたらはどうも他人に思えねえ。ゴブリンたちは俺たちが引き受ける。あんたらはあの悪趣味な勇者を相手してやれ」

 モルタは玄関を一瞥した。ゴブリンは外でカーヤが大多数を処理しているらしく、ヴァントと呼ばれた全身鎧は暇そうに突っ立っている。オスカーに至っては、その場に座って本を読んでいた。

「ちなみに、そっちに関しては手を貸さねえからな。俺たちはただの経験値稼ぎ。城の問題は城の連中で何とかしろ」

「……ああ、恩に着る」

 モルタはテオバルトに親指を立て、階段の上の勇者を睨みつけた。

「だそうだ。悪いが、相手をしてもらうぞ」

「くっ、冗談じゃない。面倒は嫌いとぐほゅ!」

 無視して去ろうとする勇者。廊下の方に消えかけたが、吹っ飛ばされて帰ってきた。

「ちょっと、急に飛び出してくるんじゃないわよ、危ないわね。って、あんたは……なるほど、ちょいちょい手紙をやりとりしてるとは思っていたけれど、こいつが相手だったのね」

 そして廊下の影から飛び出したのは透子だった。どうやら出会い頭に蹴り飛ばしたらしい。問答無用である。

「チーフ、無事だったか!」

 モルタの声に、透子はようやく階下の様子に気がついた。

「……あんたたち、ホルガーを見なかった?」

 そう問いながら、透子の目は玄関をゆっくりと見渡している。

「いや、残念ながら見ていないな」

「そう」

 その問答が終わると同時に、透子は状況を把握したらしい。一切の躊躇いなく、金ピカ勇者を大階段から蹴落とした。

 鎧をやかましく慣らしながら階段を転げ落ち、ガラゴロンと床に転がる勇者。完全に白目を剥いている。聖剣を手放していないのは見上げた執念だ。

「その馬鹿にも浅からぬ因縁があるんだけれど、私はホルガーの相手で忙しいの。そいつの相手はあんたたちに任せるわ。ああそれと――」

 透子はモルタたちにとびっきりの笑顔を見せた。

「――負けたら殺すから」

 それだけを言い、透子は大階段の上を横切っていく。勇者が勢いよく起きあがったのは、ちょうど透子の姿が見えなくなってからだった。

「あの女ァァァ! よくもこの僕を二度も足蹴に! 絶対に許さ――」

 激昂する勇者だったが、とっさに振り返って聖剣を構えた。その白刃にモルタの両刃剣が重なる。

「不意打ちとは、騎士のような格好をしておいて意外と狡いな」

「負ければ殺される。必死の表れと思っていただきたい」

「いいだろう、レベル差を忘れたとは言わせないぞ。そんなに死にたいなら相手をしてやる! さぁまとめてかかってこい!」

 勇者が吠える。

 それに呼応し、モルタもまた声を上げた。

「行くぞお前たち、ここが正念場だ!」


          *     *     *


 大きな扉を勢いよく解き放つ。

「よくここがわかりましたね」

 果たしてそこに、ホルガーはたたずんでいた。

 体育館ほどの大部屋。扉からは幅広の赤絨毯がまっすぐに延びており、階段の上――玉座へと続いている。そう、ホルガーがいたのは王の間だった。

「魔王になる、なんて馬鹿なことを吹いてたからね」

 以前「魔王になってやる!」などと天に向かって叫んだことなど、透子はすっかり忘れている。

「ともかく、フィナーレにはお似合いの場所ね。あんたの最期にはもったいないでしょうけれど」

「何とでもおっしゃい。どの道、貴女はもう私に攻撃できないのですから」

「は? 何を寝ぼけたことを……」

 そこまで言ったところで、透子はホルガーの言いたいことを悟った。彼の背後には玉座があり、そこに手を後ろに回された男が座っていた。

「魔王、様……」

 絶句する透子。魔王は俯いたままピクリともしない。気を失っているのだろう。

 だが、透子が言葉を失ったのは、そんなことに対してではなかった。

(完全に忘れてた……)

 愛してやまないエーファ。そして憎いホルガー。この二人のことで頭がいっぱいで、肝心の城主のことを失念していた。

 まあそんなことはどうでもよろしい。

「なるほど、人質ってわけね。いや、この場合魔王質かしら」

 透子は即座に思考を切り替える。大切なのは、今起こっていることだ。

「あくまで貴女方を排除するまでですよ。その後に、私と魔王様の桃源郷を造り上げるのです。そうですよね、魔王様?」

 魔王の方へ振り返るホルガー。それに応えるように、魔王アーダルベルトはゆっくりと目を開いた。

「起きてたの!?」

 これに驚いたのは透子である。

「魔王ともあろう方が、どうしてこんな男の言いなりになっているんですか!」

 透子の言葉には何も答えず、魔王は再び目を閉じた。その仕草を、まるで全てを諦めたかのように感じ、透子は少し苛立つ。

「無駄ですよ、透子さん」

 ニヤニヤと笑うホルガーに、透子の苛立ちはさらに募った。

「魔王様は争いを憎んでいらっしゃるのです。透子さんも良しとされたではありませんか、ラブ&ピースですよ」

「……本当にそれでいいのですか」

 透子の言葉は、魔王に向けられたものだった。

「そこまで争いを疎むのであれば、恐らく過去に何かあったのだと推測します。ですが、私はあなたの過去になど興味はありません」

「……相変わらず、はっきりものを言う人だね」

 魔王が口を開いた。せっかくのダンディボイスだが、少しかすれている。

「でも、僕はもう争いごとはごめんなんだ。もう、人を傷つけるのは嫌なんだよ」

 まるで、何かに懺悔するかのような口調。ダンディなオジサマがしょげているというギャップ。普通の女性ならくらっと来たかも知れないが、残念ながら透子は普通ではない。

「チッ」と透子が舌を打ったが、魔王には聞こえなかった。

「五年前、僕はある理由で町を襲った。だが、結果は最悪に終わった。あのときに決めたんだ、暴力とは決別すると」

「……で?」

 透子が一歩踏み出した。ホルガーが魔王の首元にナイフを当てる。

「近づかないでください。これが目に入らないんですか」

 金さんかよと思いつつも、透子はそれを無視して玉座へと近づいていく。

「近づくなと言うのが聞こえませんか!」

 無視、である。いよいよ透子は、玉座の三歩手前まで来てしまった。

「く……」

 刹那、ホルガーが首元に当てたナイフに目を落とした。改めてナイフの場所を確認するためだったのかも知れない。だが、透子はその一瞬を見逃さなかった。

「ぐへっ!」

 今日何度目かの奇声を発し、ホルガーは真横に吹っ飛んだ。透子の手には、鞘に収まったままの聖剣。

「馬鹿ね」

 床に転がったホルガーを、透子は白い目で見下す。

「あれだけご執心の相手を刺せるわけがないでしょうが。人質に取るなら、自分にとってどうでもいい人を選ぶのね」

 ついでに唾でも吐きそうな勢いでそう吐き捨て、透子は魔王に向き直った。

「立ってください」

「でも、僕は……」

 未だ、過去に囚われている魔王。

 プツン、と透子に中で何かが切れた。

「一介の魔王とも男が――しゃんとなさい!」

 パン、と乾いた音が響いた。倒れてそれを見ていたホルガーも、そして魔王自身も目を丸くする。

 透子の渾身の張り手が、魔王の頬に炸裂していた。

「男がグジグジとみっともない! あなたのその争う力は戦う力よ。そしてその戦う力は、決して人を傷つけるだけのものじゃない。人を守ることのできる力だと、どうしてそう思わないの!」

 まるで母親のように魔王を叱りつける透子。

「それに私が苛ついているのわね、エーファ様が危なかったときに、どうしてこんなとこでのうのうと縛られてるのかってことよ!」

「エーファが?」

 これにはさすがに魔王も顔色を変えた。

「どういうことだ」

 魔王はホルガーの方に顔を向ける。透子にあごを殴られたホルガーは、必死に立ち上がろうと生まれたての子鹿のようになっていた。

「僕が大人しくしていれば、エーファには手を出さないんじゃなかったのか」

「そ、それは……」

 珍しく口ごもり、小さくなるホルガー。まるで将軍に問いつめられたときの悪代官みたいね、と透子は思った。

 魔王は、透子に苦笑いを向ける。

「確かに君の言うとおりだ。無抵抗なだけではだめなときもある」

 魔王の背中から、何か太いものが引きちぎれる音がした。魔王はゆっくりと玉座から立ち上がり、引きちぎった縄を床に落とす。

「僕は僕の力を、守るための力として行使しよう。僕自身を、そして大切な人たちを守るために」

 そう言って、魔王はホルガーを見下ろした。柔和な顔のままだが、ホルガーは「ひ」と息を飲んで後ずさる。

 そんな二人の間に、透子が割って入った。

「残念だけど、こいつは私が決着をつけないと気が済まないの。魔王様は玄関の方に行ってちょうだい。そっちのお客をもてなしておいて」

「独り占めするのかい? 多少なりとも、僕も腹が立っているんだけれど」

「私はそれ以上なの。さっさと行って」

「やれやれ、本当に自分勝手だね。なら任せたよ」

 そう残し、魔王は玉座の間を出て行った。それを見送り、透子はホルガーに向き直る。ホルガーもまた、ようやく立ち上がったところだった。

「……本当に、邪魔ばかりしてくれる」

「ざまあみろ、でいいのかしらね」

 透子としては、完全に追いつめたつもりだった。だがホルガーは、彼らしくない下品な哄笑を上げた。

「魔王様に、私を討たせるべきだったのですよ。貴女の敗因は、そのくだらない意地です」

 ニィ、と笑みを浮かべるホルガー。それは今までのような余裕のあるものではなく、破れかぶれのような、もう仮面も何もかも取っ払ったかのような残忍なものだった。

「もしくは、もっと早くに私にとどめを刺すべきだったのです。そう、私がこの方法を思いつく前に」

 そう言って、ホルガーは懐に手を入れる。そうして取り出したのは、拳より一回り小さい紫色の玉だった。綺麗と言うよりも、禍々しい気配が漂っている。

「悪役というものはね、最後に切り札を隠し持っているものなのです。私の勝ちですよ」

 ホルガーはその玉をゆっくりと持ち上げ、そして、口に入れた。

「うげ」

 透子は眉をひそめる。あんなデカいものを飲み込んだら、自分なら吐いてしまいそうだった。

 だがホルガーは苦しみながらもそれを嚥下していく。今が殴りかかるチャンスかも知れなかったが、透子はドン引きしていて無理だった。

 紫色の玉はどうにか喉元を過ぎたらしい。ホルガーは腹に手を当て、笑い始める。

「ク、ククク……」

 ぞくりと、透子は寒気を覚えた。ホルガーの身体から、悪寒そのもののような気配が染み出していく。魔力だ、と直感で理解した。

「貴、様ノ、負ケダ……」

 低い、まるで地鳴りのような声。明らかに今までのものではない。

 透子はホルガーと距離を取り、聖剣を構えた。

「殺シテヤル、殺シテヤルゾ!」

 咆哮とともに、魔力が増大する。


 ホルガーの身体が、変化した。


          *     *     *


 両刃剣の白刃が閃き、ハルバードが風切音を唸らせ、釘バットが空を切る。三位一体の連携は洗練されつつあった。だが、やはり金ピカ勇者には届かない。

 正面玄関には、すでに瀟洒な雰囲気は残っていなかった。石畳には蜘蛛の巣のように亀裂が入り、窓ガラスは粉々に砕け散り、靄のように砂埃が舞っている。それらが全て、戦いの激しさを如実に物語っていた。

「無駄だと言ってるのがわからないのか?」

 三方からの攻撃をいなしながら、勇者はやれやれとため息をつく。

 無駄? 勝てない? そんなことは百も承知だ。刃を交えて戦力差を測れるほど、モルタたちは戦いに慣れたわけではない。しかしこれだけ攻撃が当たらないのだ。技量の差など嫌でもわかる。

「ぐっ!」

 勇者が振るった聖剣を、モルタは左手の盾でなんとか防いだ。ダメージは避けたものの、吹っ飛ばされて壁に激突した。オークの巨体を吹っ飛ばすほど、勇者に筋肉があるようには見えない。聖剣のもつ対魔性能によるものだろう。

 呻くモルタの両脇に、弟たちが同じように吹っ飛ばされてきた。大きな外傷はないようだが、ダメージは蓄積してきている。

「いっつつつ、あの人強いね、兄さん」

 と次男ラルド。

「ああ。だが、手がないわけではない。ロース、首尾はどうだ」

 モルタが聞くと、ロースはせき込みながらも親指を立てた。

「あと一枚でイケるで」

「よし」モルタが立ち上がる。「勝機は見えた。もう少しだ。畳みかけるぞ!」

 そう言って駆けだしたモルタに続き、ラルドとロースも勇者に突撃を仕掛ける。

「まったく、馬鹿の一つ覚えとはよく言ったものだ。もっとひねりがほしいねえ」

 軽口を叩く勇者。だが、決して口だけではない。最低限の動きでモルタたちの攻撃をいなし、的確に反撃を繰り出していく。

「そこ!」

「ぐえっ」

 バランスを崩したロースが、勇者に吹っ飛ばされた。巨体が軽々と空を切り、壁に激突する。同様にラルドも吹っ飛ばされ、残るはモルタだけになった。

「本当に面白いくらい弱いね、君たちは。だけどもう弱いものいじめも飽きた。そろそろ終わりにしよう。はっ!」

「ぐっ」

 聖剣を振るう勇者。だが、モルタにはダメージが入らず、その代わりに手に持っていた両刃剣と盾が弾き飛ばされた。

「恨むなら、弱い自分を恨むんだね」

 とどめを刺さんと、勇者が聖剣を振りかぶる。

 が、その動きがぴたりと止まった。決して自分の意思で止めたのではない。金ピカ鎧を纏ったその胴体に、足に、腕に、光るロープのようなものが巻き付いていた。

「や~、ぎりぎりで間に合うたわ」

「……キミの仕業か」

 勇者が声の主――ロースの方に顔を向ける。ロースの背後の壁には小さな紙が貼り付けてあり、そこから光るロープが伸びていた。同様に、今までロースを吹っ飛ばした各所にも、同じように紙が貼ってある。

「設置型の結界や。起動には複数必要やけど、即席でもなんとかなるもんやね」

「小賢しい真似を……」

「オークが全部脳筋やと思たら間違いやで。今からの時代、大事なんはここや」

 トントンと自分の頭をつつき、ロースは最上級のドヤ顔を決めた。

「今がチャンスだ! ラルド!」

「わかった!」

 体勢を立て直したラルドが、ハルバードを手に突進する。その巨斧を勇者に振り下ろして終わり、のはずだった。

「甘いね。マシュマロのように甘い」

 にやりと笑うと、勇者を縛っていた光のロープが一瞬にして霧散してしまった。

「な!?」

 驚く声は、ロースのもの。

「ふん!」

「えっ」

 ラルドも勇者の聖剣に反応できず、振り下ろさんとしていたハルバードを弾き飛ばされた。

「馬鹿な、なぜ……」

 驚愕に目を見張るモルタに、勇者は口の端を吊り上げて見せた。

「途中までは良かった。まさかオークみたいな下等なモンスターが、結界を使うなんて思わなかったよ。だけど、君たちもしょせんは井戸の底にカエル……いや、柵の中の豚。世界を知らない。世の中には、魔力抵抗の高い鎧もあるのさ」

 金ピカ鎧がキラリと光った。

「成金趣味だだけではなかったのか……」

「言い残すことはそれでいいかい?」

 勇者が聖剣を振りかざした。

 モルタは牙を食いしばる。唯一の逆転策も無為に終わった。今度こそ本当に絶体絶命だ。

「兄さん!」

「あんちゃん!」

 観念して閉じた瞳の向こうで、弟たちの声が聞こえた。最後に弟たちの声が聞けたなら満足だ。唯一の心残りは、母を残して逝くことだった。

(親不孝な息子で、申し訳ありませんでした)

 心の中で母に言葉を贈る。

 だが、覚悟を決めたモルタに、聖剣の刃は届かなかった。

「……?」

 不思議に思い、恐る恐る目を開く。そこには、大きな背中があった。

「僕の部下が世話になったね」

「ま、魔王様!」

 いつもの農作業姿。少し白髪の混じった髪。耳をトロケさせるようなダンディボイス。

 その背中は見間違えようもなく、魔王アーダルベルトのものだった。

 振り下ろされた聖剣を、片手の指二本だけで受け止めている。

「魔王だと!?」

 今度は勇者の顔が驚きの色に染まった。

「こんななりだが城の主なんだ。お見知り置きはしなくていいよ。もうお別れだから」

「なに?」

 余裕を感じさせる魔王の言葉に、勇者の顔が露骨に歪んだ。

「ふん、オヤジ魔王が調子に乗るなよ。しょせんは魔族、勇者にかなうはずがない! いいか、この金の鎧は魔力抵抗の極めて高い特注品。そしてこの聖剣ハープギーリヒは、我が家に代々伝わる由緒正しい聖剣で、魔王だろうと一刀両断に――」

 勇者の言葉は最後まで続かなかった。

 小枝を折るような、軽く寒い音が響く。決して勇者の心が折れた音ではない。いや、もしかしたら折れたかも知れない。なぜなら、聖剣を受け止めたたった二本の指で、魔王がその聖剣を折ってしまったのだから。

「え、ちょ……」

「なんだ、安物じゃないか。聖剣なのは間違いないようだけど、単なるコモン武器じゃあ僕には勝てないよ」

「は……」

 勇者は呆然として、折れてしまった聖剣から魔王に視線を変える。

「さあ、歯を食いしばるんだ」

 魔王は、すでに攻撃のポーズを取っていた。

 右手の甲を天に向け、中指と親指で輪を作る。後の三本はまっすぐに伸ばす様は、勇者に狙いを定めているようだ。何ということはない。子どもでも知っている、眉間を打ち抜く必殺技。

 デコピンだった。

 だが単なるデコピンと侮るなかれ。それを繰り出すのは魔王である。魔族の王が放つ威圧感、抵抗の高い鎧をも打ち砕く魔力のせいで、勇者の目にはそのデコピンが恐ろしく巨大に映っていた。

「今、虫の居所が悪いんだ。だから手加減はしてあげられないが、悪く思わないでくれ」

 その声は、果たして放心する勇者に届いていたであろうか。

 勇者の手から聖剣が落ちたのと、魔王の中指が炸裂したのはほぼ同時だった。


 割れた窓を貫通し、断末魔をあげることなく、勇者は晴天の星になった。


          *     *     *


「グフ、グフフフフフフ……」

 まさにその姿は、透子がイメージする〝魔王〟そのものだった。

 三メートルはあろうかという巨体、筋骨隆々の身体、幽火のようにおどろおどろしく光る両目、鋭く尖った牙、天を刺すかのような二本の角。

「やっぱり魔王って聞くとこうよね。てかその姿って、私がだまされたときのじゃない」

 今となっては懐かしい、透子が初めてこの城に来たときのことである。透子を試すためにホルガーが首を落として見せたのが、この魔王の姿だった。違うところは、あのときは豪奢な服を着ていたことくらい。今は身体の膨張に伴って破けてしまっている。だが元々ゆったりしたローブだったことが幸いし、布が腰でひっかかってどうにか局部だけは隠されていた。

「ああ、つまり、その姿があんたの理想だったってわけね。プッ、デカい体に筋肉に角とか、テンプレすぎて恥ずかしいわ」

「ホザケ! ソノ貧相ナ体デ我ニ勝ツツモリカ。鞘モ抜ケヌ聖剣デモッテ我ニ抗オウナドト百年早イワ!」

 魔王と化したホルガーが、その丸太のような腕を振るう。スピードは落ちたが、パワーは人間の頃の比ではない。おまけに刃物のような鋭い爪。聖剣の加護があるとは言え、受け止めればただではすまないだろう。

 そう判断し、透子は後方――玉座を降りた先まで一気に飛び退く。

(かわせなくはない、けど……)

 音もなく着地する透子。だがその瞬間、スーツに横三本線のスリットが入り、黒い下着が露わになった。

「爪の衝撃波ってところかしら。また一着縫わないと」

 軽口を叩きつつも、透子の現状分析はあまりよくない結果を示していた。

(かすってもないのにこのザマ。一発でももらったらアウトね。しかもあの筋肉モリモリマッチョマンにこっちの攻撃は効かないでしょうし。さて、どうしたものかしら……)

 つ、と透子の顔に冷や汗が流れたのを見て、ホルガーは地獄の底から響くような笑いを漏らした。

「グフフフ、ドウシタ、カカッテコナイノカ。ナラ、コチラカラ行クゾ!」

 石造りの床が砕ける。それほどに強く重い踏み込みだった。数メートルもある巨体が宙を舞い、透子に跳び寄ってくる。

 とてつもない威圧感を覚えつつも、透子はその動きを注視していた。

 太く大きい右腕を振りかぶるホルガー。先ほどと同じ、薙ぎ払いだ。

「くっ」

 風すら感じるその薙ぎ払いを、透子はぎりぎりで回避した。こんな大振りかわせないはずがない。そのまま目でも突いてやろうかしら。などと思ったのが一瞬の油断だった。

「えっ、っきゃああぁっ!」

 まるで十トントラックにでも突撃されたかのような衝撃を受け、透子の細い体は軽々と吹っ飛ばされた。床を転がって倒れ伏し、透子の口からは血反吐がこぼれる。

「……なる、ほど、ただのでくの坊かと思ったら、器用な真似、するじゃない……」

 一度腕を振りきったと見せかけてからの裏拳。二の矢を考えていなかった透子は、それを完璧にもらってしまった。爪によるダメージこそないものの、打撃は内蔵にまで達している。拳に速度が乗っていなかった、そして聖剣の加護のおかげで致命傷には達しなかったものの、ダメージはかなり大きい。

「痛イカ? 苦シイカ? 心配スルナ、スグニトドメヲ刺シテヤロウ」

 ホルガーの巨体がゆっくりと近づいてくる。

(死、ぬの……?)

 ホワイトアウトしかかった頭で、透子はそんなことを思った。白い靄の向こうで、誰かの顔が霞んで見える。

(死んだら、向こうで会えるかしら……あの子に……詠香に……)

 ふ、と目を閉じかけた、そのときだった。

「トーコさん!」

 後方から、声が響いた。

「エーファ様……」

 血のにじむ視界で、透子はどうにかエーファの姿を捉えた。

 エーファは、泣きそうな顔をしていた。ボロボロな透子の姿を見て、心を痛めている。

(ああ、だめだ、ごめん詠香、まだ死ねないわ……)

 靄の向こうの少女。霞んでよく見えない少女が、僅かに微笑んだ気がした。

(今度は……守、らなきゃ……)

 ぼんやりと、ただ本能でそう思った。その瞬間、透子は理解した。

「そう、か……」

 口元に笑みが浮かぶ。聖剣を床に突き立て、ぎしぎしと悲鳴を上げる体を立たせた。膝は笑い、腕に力は入らない。立っているのがやっとだ。

 だが、透子は聖剣を構えた。

「トーコさん、だめです! 死んじゃいます! それ以上は――」

 走り寄ろうとしたエーファを、透子は片手を向けて制した。

「ナゼダ……」

 そう思ったのは、エーファだけではなかったらしい。

「ナゼソコマデスル。勝チ目ナド皆無ダ。ナゼマダ立チ上ガル」

「ふん、愚問ね」

 透子はちらりと背後を一瞥する。そこにいるのは、誰よりも、何よりも愛しい人。

「魔王を前にして、背後にいる姫を守る。最っ高のシチュエーションじゃない! だって私は、勇者だもの!」

 ボロボロのはずの体に、力が戻った気がした。足の震えが止まり、聖剣をしっかりと握り直すことができる。それは、気のせいなどではなかった。

 聖剣が、輝いていた。

「ま、眩し……え? 何で?」

 困惑する透子。だがすぐに理解した。

「……そうか」

 鞘を握り、ゆっくりと聖剣を抜く。今まで全く見ることのかなわなかったその真の姿を、透子はようやく目にすることができた。

「やっとあんたも、私を認めてくれたのね」

 その刃は、黄金の輝きを纏っていた。

「グ……」ホルガーが唸る。「ヤラレタハズガ復活ダト? アリキタリナ三文小説デモアルマイシ」

「ふん、ありきたりだろうがご都合主義だろうが、勝った方が強いのよ」

 透子は鞘を腰に差す。

「ついでに私からもあんたに言葉を贈ってあげるわ。頭脳派ぶった悪役が裏切ってボコられて、挙げ句の果てに最後の手段の巨大化。そういうのをね――」

 び、と透子は、ホルガーに中指を立てた。

「――三下っていうのよ」

 ホルガーが激昂する。

「フザケルナ! 聖剣ガ抜ケタトコロデ何ガデキル! 我ガ圧倒的ナ魔力デ、貴様ナド消シ炭ニシテヤル!」

「できるもんならやってみなさいな!」

 今度は透子から斬りかかった。黄金の刃を、ホルガーの爪が受け止める。そのまま押し合う形になったが、両者とも一歩も引かない。

「聖剣の力ってのは大したもんね。あんたの筋肉が泣いてるわよ。ねえ、今どんな気持ち?」

「グヌヌ……ヌガッ!」

 ホルガーが強引に腕を振り、透子は仕方なく距離を取った。

「必死じゃない。さて、どう引導を渡してやろうかしら」

 クリアになった頭を回転させる透子。

(すごい必殺技とか出せる。今の私なら絶対できる。でも、それには一瞬でもいいから隙が欲しいわね……)

 ホルガーを倒すまでのプランはできている。だが、そこに至るまでの最後のピースが欠けていた。

「グオオオオ! 小娘風情ガ調子ニ乗リオッテェェ! 殺シテヤル、殺シテヤルゾォォォ!」

 玉座の間全体が震えるような、ホルガーの咆哮。そんな中――

「やっ!」

 ――ポン、と、この場にはあまりに似つかわしくない、可愛らしい音が響いた。

「オオォォ、オ?」

 魔王と化したホルガーの目が丸くなる。恐らく彼にとっては、顔に豆鉄砲が当たったよりも小さな衝撃だっただろう。だが、あまりの唐突さに、思考が止まらざるを得なかった。

 エーファが、魔法弾を撃ったなどと。

「これ以上トーコさんをいじめるのは、私が許しません」

 小さな魔法弾を撃った小さな女の子は、強い意志でもってホルガーを睨みつけていた。

「最高! 最っ高ですエーファ様!」

 そして、そのホルガーの隙を見逃す透子でもなかった。

「ぬおおおおおおおおおお!」

 聖剣を天に向け、体の中に沸き上がるよくわからない力を集中させる。

(魔力でも何でもいい、私に力を貸しなさい!)

 黄金の刃に黄金の輝きが集まり、それが形を成していく。刃の形をそのままに膨れ上がるその輝きは、まるで聖剣そのものを巨大化した、一つの塔のようであった。

「ヌ、サセルカアアァァ!」

 一瞬遅れてホルガーが反応する。集中する透子を害さんと腕を振り上げるが、もちろん透子には、その一瞬だけで十分だった。

「即席必殺――」

 聖剣フェアラートを振り下ろす。ホルガーには、巨塔が倒れてくるようにも見えただろう。

 

「――オベリスク(Obelisk)ライトニング(Lightning)!」


 黄金の塔が、ホルガーを飲み込んだ。

「アアアアァァァァ…………」

 断末魔が消えていく。やがて光の塔もその姿を消すと、そこには瓦礫が散らばるばかりで、ホルガーの姿はどこにもなかった。

「ちなみに、技の名前に意味はないわ!」

 どうでもいいカミングアウトをしつつ、透子は聖剣フェアラートを鞘に納めた。その瞬間に体から力が抜け、その場に尻餅をついてしまう。

「トーコさん!」

 座り込んだ透子の元に、エーファが駆け寄ってきた。

「勝ちましたよ、エーファ様」

「……はい。はい!」

 大きくうなずくエーファの目から、大粒の涙がこぼれた。


          ~ epilog ~


 ベルンシュタイン城は、ようやく平穏を取り戻した。

 ホルガーは塵も残さず消え去り、金ピカ勇者はお星様となった(生死不明)。

 冒険者たちもまた、一仕事終わったと言わんばかりの笑顔で帰って行った。唯一、カーヤが疲労でフラフラしていたが。

 魔力(だったらしい。後でエーファに聞いた)を使い切った透子と、何やかんやでダメージを受けていた三兄弟は丸三日寝込んだが、どうにか回復。今はダンジョン再開のために訓練の日々。

 魔王アーダルベルトは相変わらず農作業に精を出している、と思いきや、戦いの傷跡が残りまくっている城内を直しているようだ。

 ホルガーがいなくなった他は以前の装いを取り戻したが、透子にとって一つだけどうしても無視できないことがあった。

(何だか、エーファ様に避けられている気がする)

 様式トイレで用を足しながら、透子はそんなことを考えていた。

 思えば、透子が目を覚ましてからである。透子と目が合うと、エーファは一瞬何かを言おうとした後、すぐに目をそらすようになった。もちろん透子に心当たりはない。

(もしかして、仮にもプロポーズしてきたホルガーを、跡形もなく消し去っちゃったのが悪かったのかしら。って、そんなわけないわよね)

 タイトスカートを上げ、ふるふると首を振りながらトイレを後にする。

「あ、エーファ様」

 廊下に出た瞬間、その当のエーファとかち合った。

「あ、う……」

 今までと同じだ。何かを口ごもり、すぐに去ろうとする。だがとうとう我慢の限界に達したのか、透子は意を決してエーファの手を取った。

「恐れながら! 最近、エーファ様に避けられているように思います。もし私に至らぬ点があるのなら言ってください。エーファ様のためなら、私は何でもできます!」

 勇者というよりは、騎士のような透子の言葉。ややあって、エーファは赤い顔を透子に向けた。

「……なら、一緒に来てください」


 連れてこられたのは、もう慣れっことなったエーファの部屋だった。この部屋もホルガーとの戦いで荒れに荒れたが、魔王はいの一番に直したらしい。もうすっかり元通りになっていた。また幸いなことに、エーファが大切にしていたピアノには、傷一つついていなかった。

「それで、話とは何ですか?」

「えと、その……」

 エーファは顔に朱を散らし、もじもじしている。トイレでも我慢しているのだろうか、などとはさすがに透子も考えない。あれは、何か言いたいけれど言い出せない顔だ。

「どんなことでも甘んじて受けます。何なりとおっしゃってください」

 助け船を出すと、ようやくエーファは深呼吸一つして口を開いた。

「あの……その……ごで話しかけないで下さい!」

 声が小さくて中間部分は聞き取れなかったが、最後の「話しかけないで下さい」ははっきりと聞こえた。

 一瞬頭が真っ白になったが、すぐに透子の脳内で演算が始まる。

 話しかけないで→私、あなたのこと嫌いです→シスコン→死んでください。

「……わかったわ」

 精一杯の笑顔を見せ、ベッドのシーツをたぐり寄せて部屋を出ていこうとする透子。

「ちょ、ちょっと待って下さい。どこへ行くんですか!」

「今まで迷惑かけてごめんなさい。ちょっと吊ってきます。あ、シーツ借りますね」

「どうしてそうなるんですか!」

 エーファは涙目である。透子は不覚にも萌えた。

「だって、話しかけないでって……」

「それがどうして自殺に……あっ! 違います。そうじゃないんです!」

 どうやら自分の声が小さかったことに気づいたらしい。エーファは両手をぶんぶんと振った。

「私が言ったのは、敬語で話さないで下さい、です!」

「敬語で……?」

 どうやら自殺しなくてもいいらしい。

「でもなぜ? 私はダンジョンチーフとは言え、エーファ様は王女です。敬語で話さない理由が見当たりません」

「それは」少し口ごもり、エーファは申し訳なさそうに言う。「トーコさんが、お姉さんみたいだからです」

 お姉さんみたいだからですお姉さんみたいだからですお姉さんみたいだからお姉さんみたいおねと、透子の脳内でエーファの言葉がリフレインした。脳内がバラ色に彩られ、天使が飛び交い、祝福のラッパが鳴り響く。

 透子は、ことさらきりっとした表情を作った。

「わかったわ……エーファ、私はあなたのお姉ちゃん。これでいい?」

「わあ、ありがとうございます! わたし、憧れていたんです。お姉ちゃん!」

「……!? もう一度言ってみて」

「え? お、お姉ちゃん」

「もう一度」

「お姉ちゃん。……あの、大丈夫ですか? 鼻血が出ていますけれど」

「ぷぁっ、だ、大丈夫よ。これはただの幸せの鮮血(ハピネスレッド)だから」

「そ、そうですか、うふ、うふふふ……」

 一瞬戸惑うものの、すぐに笑みを浮かべるエーファ。姉ができたことがよほど嬉しいらしく、踊るように部屋の中をくるくると回る。

 その様子を、鼻血を拭った透子は穏やかな気持ちで眺めていた。

(詠香、ごめんね。そっちに行くの、もう少し後にするよ。この子を幸せにしたら、きっと私は堂々とあなたに会えると思うから……)

 天国にいる妹とそっくりな、もう一人の妹。その(エーファ)が、ひだまりのような笑顔を透子に向けた。

 その笑顔を、透子は一生忘れないだろう。


「大好きだよ、お姉ちゃん!」


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