愛おしい人を・・・
轟々と耳障りな音を立て、人の手で植えられた貧弱な街路樹である銀杏や、危機感無く道端に放置された看板や自転車、もちろん小さな紙くずや空き缶なども、吹き飛ぶほどの暴風が街を襲っていた。
大風などというものは、例えば水不足の時に程よく雨を降らせてくれれば(もちろんダムの上にだ)存在などしないと分かりきっている神に感謝したくなるほどの恵みとなるが、いかんせん今は金曜の夜だ。
立っていられないほどの暴風に、アスファルトを叩き割るような雨が加わり、ターミナル駅の出入り口は身動きできずにいる多くの人でごった返していた。
社畜と呼ぶにふさわしい草臥れきったサラリーマンやオフィスレディ。塾帰りの老成した目をしている子供たち。弄ぶしか出来ない自立性を掲げた者たちには、老いも若きもあったもではなかった。
都会の喧騒は進路を変えた台風のせいで、普段の週末のような、どこか淫靡な雑踏から、ぴりりと張りつめた戦場のような場に様変わりしていた。
バスは動かないのか、ハイヤーは来ないのか、迎えはまだなのか――。
帰宅困難に陥った疲労感。焦り。不安。楽しみを奪われたことによる苛立ち。知的活動とはとてもではないが呼べない思考で飽和していた。
そんな人混みの中、小池尚之は自宅へ帰れない不安よりも、あたりまえの事だが(停電にでもならない限りほぼすべての家庭がそうであるように)二十四時間稼働し続けている冷蔵庫の中身へと思いを馳せていた。
一年前に結婚し、新居をかまえる際に購入した大型の冷蔵庫。買ったばかりの頃は大きすぎたかと後悔もしたが、今はちょうどいいと思えるようになった家電製品。
その昔は白物家電と呼ばれていたらしいそれは、メタリックな赤色のデザインも洒落た物だ。妻の洋子が気に入って、尚之に相談もなく買ったものだ。
尚之は雑踏の中、絞り出すようにため息を零した。
(今日は帰れないかもしれないな)
そんな考えが頭をよぎり、足の多いカサカサとした蟲が足元から這い上がってくるような悪寒を感じた。
尚之は殊更に意識して、左手の薬指につけたシンプルなプラチナリングを撫でた。
ただの……純粋な暴力としかいえない風も雨も弱まる気配は一向に見せない。
悪態をついてもバスは動かないし、ハイヤーも来ない。迎えに至っては、有るはずもないのだ。舌を打ち付けたところで事態は何も変わらない。
(中を……中を見なければいけないんだ!)
働いている間も気が狂うほどに焦がれているというのに! 不快な人混みの中に放り込まれている嫌悪が首をもたげる。
尚之は気持ちの悪い人間たちの間を無理やりに掻き分け、唸る暴風雨のただ中に身を躍らせた。
髪から顎から、びっしょりと濡れそぼったスーツから、ぽたぽたと染み込んだ雨が流れる。靴も靴下も水に浸かり、尚之は歩くたびに寒気がした。
濡れてすっかり重くなった鞄から自宅の鍵を取りだし、玄関を開けた。
真っ暗な室内であっても尚之は問題なくキッチンへとたどり着いた。
小さく唸るような稼働音の発生源である冷蔵庫へと、濡れた体を近づける。
何気ない、慣れた動作で冷蔵庫の扉に手をかけ開けた。
零れる冷気に濡れ鼠の身体が一気に冷やされ、尚之はぶるりと痩躯を震わせた。
短く刈り込んだ黒髪からは、汚れた水がぽたりと落ちる。尚之は自身の格好など気にもせずに、スーツのポケットから王冠を三つ取り出し、冷蔵庫の中へと入れた。
王冠は妻がコレクションしているものだ。ビールでもジュースでも、種類は何でもいいらしい。
「洋子が集めてるって話したら、同僚がくれたんだ。五歳になる子供も集めてるんだってさ」
尚之は楽しげに冷蔵庫の中に話しかける。
「今、どのくらい溜まったかな? そうそう外は台風が凄かったよ。根性出して駅から一時間かけて歩いて帰って来たよ。褒めてよ、ねえ?」
尚之は手を伸ばし『左手を握る』そして愛おしげに微笑んだ。
「大好きな君に早く会いたくて、悪天候の中頑張って帰ってきたんだよ?」
冷たくて硬くて、少し腐ってきた薬指には、尚之と揃いの愛の証のリングが鈍く光っていた。