海の見える丘で
それから、どのくらいの時間歩いたかは、定かではない。
忌み嫌われている自分の存在を、知っている人物が町に居るとも考えた。そのため、孤児院の近くの町とは反対方向に進み、知らない道のりを、当ても無く彷徨った。
最初は色々と考え歩いていたものの、今では体はもとより思考する脳も疲れ切っており、一体どこへ向かおうとしているのか、考えも足もおぼつかない。
「ははは……足が棒になるって、こういう事なんだね」
あれから何も言わなくなったカシス。完全にシノンの独り言だ。
すっかり空は、星模様の紺へと時間が移り変わり、頼れる明かりは月明かりだけ。いつの間にか嗅ぎ慣れない香りはするが、相変わらず変わり映えのしない原っぱの上を歩む。
「体力はそれなりにあると思ってたんだけどなぁ……」
シノンとカシスの記憶にある光景は、孤児院の中、孤児院の周り。ただ、それだけ。
あとは知識として、図書室にこっそり侵入した際目に焼き付けた、絵や写真の風景。シノンはそれを見て、まだ見ぬ地へ思いを馳せたりしたこともある。昔こっそり遠出しようと、町へ出たのが災いして、たまたま出かけていた孤児院の大人に見つかり、連れ戻され、こっぴどく叩かれた。
そんな記憶が、何の気なしにふぅっと蘇った。
叩かれるのは日常茶飯事な記憶でも、今の状況下でそれを思い出したら、なんとなく疲れが増すような気がした。シノンは気晴らしに、疲労の溜まった筋肉を解きほぐそうと、右へ左へ、体を大きく捻った。
(あ……)
久々に聴いた、カシスの声。
シノンの視界にも入って来たそれは、まだだいぶ先の地面にポツンと建っている、小さな、小さな十字架。
(誰かの墓……か)
「丁度いいや、あそこまで行って休憩しよう……」
トボトボと、もはや力も入らせようとしない足で、目的地へと進みだした。
その時だった。
「……あれ?」
墓の先に見えてきたそれは、水平線まで占める、黒く揺れる何か。先ほどまで気にも留めなかったが、箱の中の砂を傾けたような音が、黒い揺れと同じリズムで耳に入ってくる。
(……まさか、あれは)
「海! 海だよカシス!!」
感じていた疲れはどこへやら、シノンは目的地へ向かって駆け出した。
徐々に視界広がる、初めて見る海。本で見て知ってはいたが、想像を超えるスケールに、シノンの心は浮きだった。
「わあ……!」
息を切らしながら、墓のある小高い丘に着く。
気にも留めていなかった香りは、潮の香り。砂のような壮大で優しい音は、波の音。
これが、海。果てしなく広がる、大海原。
それほど高くも無い丘の下に広がるのは砂浜で、海水が来ては戻り、来ては戻り、不規則な動きを見せている。
初めて見る光景に、シノンとカシスも言葉を失っていた。
「ふふっ」
(何が可笑しいんだ?)
「海という姿も言葉も、本で見た。疲れが吹き飛ぶって言葉も、知っていた。だけど本当の意味での知るって、僕らの想像を遥かに超える感情の一種なんだね」
(……ああ、同感だ)
シノンはそう言うと、すぐ傍にあった十字架の墓に話しかけた。
「挨拶が遅れてごめんなさい。ここでしばらく休ませてください」
そう言い終えると、吸い寄せられるように地べたにへたり込んだ。
ふうと一息つき、月明かりと海のコントラストに見惚れながら、果てしなく広がる海と、先行きの見えない不安を重ね合わせた。
「新天地、きっと見つかるよ」
また、カシスは喋らなくなった。
いつもカシスは、シノンに弱みを見せない。そのカシスが、取り乱した。
あの出来事からカシスの口数は減ったが、だからと言って自分が弱みを見せてはいけない。シノンは構わず続けた。
「どこかの町に着いたら、まずは働かなきゃね。本に載ってた靴磨きだっけ?それなら、僕やカシスでもできそうだ。でもまずは、靴を磨く道具が必要かな。あー、それにもお金が必要か。そもそも靴磨きって何が必要だっけ?洗剤でいいのかなぁ――」
(……き馬鹿)
「ん?」
(前向き馬鹿すぎて、礼も言えない)
「どういたしまして」
(だいたい洗剤だと?お前はどの文献を読んで、そんな結果に行き着いた。いいか、靴磨きは――)
いつものカシスが、戻って来た。
当たり前だったカシスの口調が、こんなにも自分を安心させるなんて。靴磨きの何たるかをつらつらと述べるカシス。シノンは心地よい気持ちに包まれた。
――そんな時。
「……許可は取ったのか?」
突如聞こえた、カシス以外の、誰かの言葉。
驚いたシノンは振り返ると、墓の前にいつの間にか、女性が立っていた。
「許可は取ったのか、と聞いている」
銀というよりも白に近い、そんな色の長い髪の女性。額を出したその顔は、怒っているのか平常心でいるのか、傍から見れば見極めのつかない凛々しい顔立ち。
「ええと……僕、ここで休んでいるだけで……」
「だから、よく見ろ。ここは墓だろ。既に居る者に許可を取って休むのが、礼儀ってものじゃないのか」
ようやく、何のことを言っているのか理解したシノン。慌てて女性に弁明した。
「あ、あの!挨拶しました!休んでもいいかって聞きました!」
「なんて言っていた」
「え」
また、返答に困ってしまう。
(……シノン、私が変わって逃げようか?)
カシスも何だか心配になってきたらしい。
「えーと……『休んでどうぞ』、って」
シノンは戸惑いながらも、そう答える。
すると女性は、凛々しさはそのままにフッと微笑み、手に持っていた花束を墓に置いた。
「お前は誰に対しても優しかったからな。死んでもその性格は相変わらずか」
墓に向かい、そう話しかける女性。その表情は、先ほどの凛々しさとは違い、穏やかな美しさを照らし出していた。
「悪かったね、坊や。ここには人は滅多に来ないから、ついからかいたくなったんだ」
「ぼ……僕は坊やじゃない、シノンだ」
言われ慣れない言葉に、何だか恥ずかしくなるシノン。
「シノン? じゃあ、もう一人は誰なんだい?」
「この子はカシスっていう……え!?」
思っても無い言葉に、今度は女性と距離を取ってしまうシノン。
「え、ちょ、なんで!?」
「おや、あてずっぽうに言っただけなのに、当たるとはねえ」
愉快そうに微笑む女性。何やら楽しげだ。
ふわっと吹いた風を合図に、シノンの容姿が変化する。
すぐさま立ち上がり、利き手を構えた。
「お前、何者だ?」
(カシス! この人は何もしてないよ!)
「既に怪しいだろう。追手の者だったら、止むを得ない」
「その坊やの言う通り。本当に何もしてないのに、カシスって子は物騒だねえ」
今度はカシスが驚き、思わず後ずさりしてしまう。
「お前、シノンの声が聴こえるのか!?」
「そうみたいだね。私もさっき分かった」
女性はそう言い、その場へ座り込んだ。
「そんな怖い顔せずに、まあお座りよ。なに、取って食いやしないさ」
カシスは警戒は解かないが、それでも女性の言葉通り、その場へ座った。勿論、すぐに逃げれるように、体制を整えて。
「まあなんと言うか、私はそうだな……世の中で言う“普通”でないものの部類だ」
女性の表情に、少し悲しさを感じたのは、気のせいだろうか。
「……お前も、なのか」
「おや、怖くないのかい?」
「私達を畏怖しない時点で、既に怖くない」
髪が、月明かりに光る銀色になった。シノンが複雑な、それでもって嬉しそうな表情になる。
「初めて会う、そんな人……」
(今まで孤児院周辺から出たことなかったから、尚更だな)
「あははっ。こいつが巡り会わせてくれたのかもな」
墓に建ててある十字架を、そっと優しく撫でる女性。
「ここに来るのは本当に久々なんだ。長年こいつと叶えようとした夢が、ようやくスタート位置に着いたって、その報告に。暫く来ないから拗ねてるだろうと思ったが、まさかこんな出会いを用意してくれたとはね」
そっと、今度はシノンの髪を撫でる女性。
突然のことに、心臓が飛び出る勢いで驚くシノン。
なぜなら、女性とは十分距離をとっていたわけで――
「いっ、いいいいいつの間に!?」
「だから言ったろう、私は“普通”じゃないって」
意地悪めいた笑みを浮かべ、女性はシノンのほっぺをぷにぷにつまんだ。
「ふぁにふんのふぁ!?」
「シノンって言ったっけ? お前からかい甲斐があっておもしろいなぁ~って」
「くぁふぃふっ、たふふぇふぇふぉう!」
どうやら、カシスに助けを求めているらしい。
(いや……この女にどう対応すればいいか、思いつかん)
「害は加えないってことは、分かっただろう?」
(今のところは)
ぱっと女性は手を放し、シノンはつままれたほっぺを不機嫌そうに擦った。
「ほらほら、そんなにふて腐れないでおくれよ」
「お姉さんの所為じゃないか……」
「これやるから、機嫌を直してくれるかい?」
すっと差し出されたのは、何やら板状の、銀色にピカピカ光る包み。
「……何、これ?」
「何って…チョコレートだよ。知らなかったのかい?」
「ちょこれ……」
(カカオという南国の実を使った、甘い食べ物。孤児院にあっても、ご褒美に子ども達に与える程度だったから少なかった。そういう菓子類は盗んでなかったからな)
「へぇ……」
キョトンとしながらもそれを受け取り、カサカサ銀色の包みを破っていく。そこから現れたのは、茶色い、等間隔の凹凸が目立つ板。
「食べてもいいの?」
「どうぞ」
「……」
(待てシノン、よく考えてみれば見ず知らずの人物から食べ物を貰った訳で)
そうカシスが懸念したにも関わらず、シノンはチョコレートに齧り付いてしまう。
(って人の話を聴け!!)
「あははは! そんなに私は怪しいかい?」
(当たり前だ! シノン、そんなに食べるなパンの二の舞に……)
カシスの言葉が途切れた。流れてきたのは、シノンの感情だけではない。
「これが、甘い……? この感情が、美味しい……?」
頬を伝う涙に目もくれず、シノンはチョコレートを夢中で食べていく。
嬉しいとも、楽しいとも違う、満たされていくこの感覚。
カシスもこの感情を受け取り、互いに初めての不思議な感情に戸惑っていた。
「……お前も、色々あったんだね」
女性はそう言うと、食べ終わっても呆然とするシノンを抱き寄せた。
「大丈夫だよ。世の中理不尽だが、必ず“日の当たる場所”はあるからさ……」
シノンとカシスの中で、何かが、弾けた。
女性の匂いに身を埋め、糸が切れたように、泣いた。
初めて触れる他人の優しさに、感情を委ねるように、声を出して泣いた。
ただただ、悲しくて、嬉しくて、泣いた。
その姿は女性に隠れ、シノンなのか、カシスなのか、分からなかった。
ガタガタ不規則な揺れに驚き、シノンは目を覚ました。
がばっと飛び起きてみると、そこは広くもなければ狭くも無い、暗いが何やら鮮やかな空間だった。本でも見たことも無いようなものが、所狭しと並んで揺れている。
「え!?」
(ここは、どこだ!?)
カシスも状況が分かってないようで、シノンは必死になって記憶を呼び起こそうとする。
確か、海のある丘で休んでいて、何だか大人の女性に出くわして、チョコレートで、泣いて…
泣き疲れて、眠ったようだ。
「ああ、成程」
(何が成程、だ! 問題はここがどこであるかで……)
「おや、気が付いたかい!」
不規則な揺れが一層揺れ、座っていた体制が崩れるシノン。
何やら馬の声がしたかと思うと、揺れが止まった。状況がさっぱり飲み込めないシノンの背後から、光が差した。振り返ると、ドアから昨夜の女性が入って来た。
「あ、ええと……?」
「自己紹介が遅れたね。私はベル。ベル・フルール」
「えーと、ベルさん、ここは一体?」
「一体って、移動小屋の中さ」
パチっと電球を付けるベル。すると周りの景色がより一層鮮やかになり、見たことも無い派手な衣装や大きなボール、模造刀にフープ――
――もしかして、ここは
「悪かったね、昨日はあのまま寝てしまったのはいいんだが、何せ寝かせる家が無くってね。丁度ここが空いてたとは思ったんだが、早急に移動もしなければならなくて、仕方ないから二人が起きるまでこっちはこっちでやること済ませてもらったよ」
「ねえベルさん!? ここってもしかして“サーカス”!?」
本当に子どものような目を輝かせて、シノンはそう問いかけた。
「察しがいいね。まあ正確に言うと“旅芸人一座”だが、まだ始めたばかりの代物さ」
「わぁっ、僕本で読んで一度は見たいと思ってたんだ!」
そう言い、立ち上がって辺りをウキウキと見回すシノン。
(シノン……少しは“疑う”ということを覚えろ)
「だって、大道芸や手品っていうのが、見れるかもしれないんだよ!」
「手品が見たいのかい?」
ベルはその場にあったスカーフを手に取り、何やら丸めたかと思うと――
「わあっ!?」
手の中から、まるで生み出されたかのように、真っ白なハトが出てきた。
「まあ、今見せれるのはこれくらいだね」
「すっごいすっごいベルさん! 本当に魔法使いみたい!!」
(すごいが、はしゃぎ過ぎだ)
「素直に喜んだらどうだい、カシスちゃん」
(ちゃん付けはやめてくれ……)
「すごいなー、僕にも出来たらなー」
この、シノンの何気ない発言。
ハトを鳥かごに戻したベルは、その言葉にこう返した。
「じゃあ、やってみるかい? でも教わるなら、生半可は駄目だ。やりたいなら本当の“マジシャン”を目指しな」
何気ない言葉に、真剣な答えが返って来た。
「見た所、行く当てはないんだろう?もしお前達が目指す場所があったら、そこで降ろしてやるよ。なにも強制じゃないからね。もしその気があるんだったら、うちで暫く稼ぎの修業をしてみないかい?」
唖然とし、言葉が返せないシノン。
ベルは構わず続けた。
「ま、どのみち行く先々で団員をスカウトするつもりだったんだ。お前達が晴れて団員になってくれたら、こちらとしては嬉しいけどな」
「で、でも、僕らじゃ迷惑が……差別、されるよ……」
「言ったろう? “日の当たる場所”はあるって」
シノンの不安を払いのけるかのように、ベルは無造作に彼の頭を撫でた。
「ここがそうなれば良いって思って、この一座を立ち上げたんだ。なに、迫害されたらされたで、別の場所を目指せばいいさ。なにも“居場所”ってのは定位置じゃない」
ベルはシノンの手を引き、外へと連れ出した。
外は晴天で、一瞬目が眩んだが、目の前にある存在を認識すると、シノンは息を飲んだ。
先ほどまで中に居た場所は、賑やかで、それでいて鮮やかな色で塗られた大きな移動小屋。これが所謂宣伝の役割を果たすのだろう。一座の名前らしきものが書かれていた。
その先に繋がれているのは、赤茶と焦げ茶の馬のコンビ。乗り手のベルをおとなしく待っている。
「……カシス」
(何だ?)
「カシスも良ければ、ここで頑張ってみよう。僕ら、このままじゃ何もできない子どもだ。どうせなら、世の中生きていけるくらいに僕はなりたい」
(……奇遇だな。私も、そう感じた)
決心がつき、シノンはベルに顔を向ける。その顔は、少し大人びているように見えた。
「話は、まとまったようだね」
ベルはまるで舞台挨拶かのように、シノンに向かってお辞儀をした。
「さあ、改めて
――ようこそ、旅芸人一座“エルミタージュ”へ」




