畏怖される者
カツ、カツ、カツ、と、無機質な足音が空気を伝う。
この場所付近は、割と静かだ。それは皆揃って“あの部屋”を気味悪く感じているからだ。
『悪い子はバケモノに食べられちゃうよ』
『言うこと聞かない子は、バケモノの部屋に連れていくぞ』
決まって、子ども達に言う脅し文句。それが功を奏してか、大人達の把握している限りでは、ここの子ども達は皆規律を守って生活している“良い子”達だ。
時折いる、肝試し感覚でこの部屋に近づく子を除けば、誰も“あの部屋”に近づこうとしない。
そして現在、唯一頻繁にそこへ足を運んでおるであろう人物、孤児院長オリガ・マーラー。
今年で半世紀を生きた、皺の彫られた彼女の顔は、厳格で険しい。
等間隔に鳴らしていた足音を、ピタリと止める。彼女の前には古めかしい、一見レトロで、ひとたび見方を変えればおどろおどろしいドアが、立ちはだかっている。
それを何の迷いもなく、ノックもせずに力任せに開けた。
「おいバケモノ! ダナに怪我をさせたらしいわね!」
開口一番に、そうぴしゃりと言い放つ。
部屋の中は、日光の入らない、暗い部屋。ポツリと周囲を照らすほどの豆電球が、申し訳なさ程度にあるのが、唯一の光。
そこにあるのは鉄パイプの錆びれたベット。空になった皿、トレーが転がっており、隅には誰も行きたがらないような、古い古いトイレ。
生活するにあたって、必要最低限のものが揃っているだけの、まるで監獄のような部屋。
その中央に居座る、黒髪の少年……
否、カシスは少女だ。
「なんだい……黒い方のバケモノかい」
「ご不満そうで何より、マーラー先生」
皮肉たっぷりにそう言ったカシスに、より一層顔が険しくなるマーラー。
「まあいい、どうせダナに怪我をさせたのもお前だろう」
「何のことやら、さっぱり」
「すっとぼけるのもいい加減におよし! じゃあその濡れた髪をどう説明するつもりなんだい!?」
ああ、と今気づいたように、カシスは湿った前髪をいじる。
「これは今朝マーラー先生に仰せつかった、雑巾がけの最中に転んでバケツを転倒させ水を被ったもの。何せ毎日この施設掃除を任されてる身としては、少々体に堪えましてね」
「私は“黒いお前”に仕事は頼んでいない、“白いあいつ”に頼んだはずだよ!」
「マーラー先生ともあろうお方が、我が二重人格を理解していないとお見受けする」
「理解も何も、姿の変わる二重人格のどこに理解の余地があると!?」
何かと逆撫でするような口調に、マーラーの口調も激しさを増していく。
「“白いあいつ”で私達を油断させて、いつも“黒いお前”が不幸を運ぶ! お前達はバケモノじゃない、ただの悪魔だよ!」
「ほう、シノンも悪魔呼ばわり、ね」
暗がりの中、紅い眼が鋭く光る。
マーラーは表には出さなかったものの、まるで本当のバケモノを見たかのように、冷たい恐怖を感じた。
「私をバケモノ呼ばわりしようが、悪魔呼ばわりしようが構わない。実際手を出しているのは私なのだから。だがな、シノンは違う! あいつは本当にお前らと分かり合えると思っている馬鹿で、純粋な馬鹿だ! 他に思い当たらないくらいの前向き馬鹿!」
(……カシス……言い過ぎ)
もちろん、内側に存在するシノンも会話を聴いているわけで、カシスにしか分からないツッコミをする。
「だから私は、そんなシノンの気持ちを踏みにじる様な、貴様らの所業が大っ嫌いなんだ。特にお前!」
鋭い目つきで、更に鋭くマーラーに指をさす。
「さっき『髪が濡れているのをどう説明する』とか言っていたな。何故、ダナとかいうガキが怪我をしたという話を切り出して、到底関係の無さそうな私の濡れている髪を指摘した?」
言葉に詰まるマーラーを無視し、カシスは続けた。
「お前はダナ達に事の成り行きを聞いている、もしくは見ているはずだ。でなければ、私の髪を指摘せず、ただ怪我をさせた疑いで飯抜きか暴力をする……まあ後者はシノンの場合だが、そうなるはず。水をバケツごと落としてくるなんて、度を越した行いを黙って見逃している、と推測するが?」
「お前、ダナに怪我をさせたことを認めるのかい!?」
「認めるのはお互い様では、先生?」
刹那、真横でガラスが弾ける音がした。
マーラーが、持っていたランプを、カシス目掛け投げつけたのだ。
「……」
「お前に……バケモノごときに何が分かる……」
わなわなと、震えるように呟くマーラー。
そんな彼女を見ながら、カシスは頬の痛みに気づき、そっと指で触る。ランプは辛うじて避けたが、飛び散った破片が頬を掠ったのだろう。血が滲み出ているのが分かった。
「……ふん。どうせ明日になれば傷跡も残らず治るんだろう?今まで負わせた、傷も、痣も、全て。バケモノじゃなければ、一体その力はなんだっていうんだい……」
蔑むような、恐怖のような、複雑な表情。
沈黙という静寂が、辺りを包み込むかと思った、その時だった。
突如として、複数の子どもらしき悲鳴が響いた。
我に返ったかのように、マーラーは悲鳴の方向を振り向いた。
そしてカシスも……
「大変だよマーラー先生! あの方向は多分井戸だ!」
口調が、カシスのものとは打って変わって、幾分か優しいものになっていた。
またも驚いたマーラーが見た先には、銀髪の少年……シノンが居た。
(シノン!? 馬鹿お前、いつの間に……!)
「僕のことより皆の所に行ってあげて!でないと……」
パシッ、という軽快な音。傷が出来た頬に、衝撃が走る。
「お前なんかに言われなくても!」
激昂したマーラーがシノンに平手打ちしている間に、何やら騒がしく、不規則な足音がドタバタと、こちらへ近づいてきた。
「こ、ここでしたかマーラー院長!」
若い男の先生らしき人物が、息を切らしてこちらへ入って来た。
「何事です」
先ほどとは打って変わって、落ち着きを取り戻しているマーラーに、男は声を震わせこう続けた。
「ダ……ダナが、井戸にっ……!」




