事件の日
町外れにある、レンガ造りの孤児院。
そこから漏れる子ども達の声は、無邪気で、明るい。
外では決して新しくはない、使い古されたであろう大きなシーツを、晴天の日差しを利用しパンパンと乾かす、大人の姿。
「せんせー!おはよー!」
元気よく走ってきた子ども達が、先生と呼ばれた大人を通り過ぎる。その様子を微笑ましく思いながら、洗濯物を干していく。
この孤児院に住む者にとっては、当たり前の日常が、当たり前のように過ぎていく。
そして今日も
当たり前のように
「……おい、静かにしろよ……そーっと、そーっと、だぞ」
なにやらこそこそしている、3人程の子ども達。孤児院の二階から、水汲み場にいる一人の少年を凝視していた。
ぼさぼさした長い銀髪の、穏やかな碧い眼の少年。
決して裕福ではない孤児院の子ども達とは、雲泥の差とも言って良いほどの、埃っぽいみすぼらしい服を着ている。
寒くなってきた気候には、水仕事はきついようで、先ほどまで雑巾がけをしていた手は赤い。
少年は手を擦りながら、井戸の水を汲もうとしていた。
「それっ、今だ!」
そう誰かが言ったのが聴こえ、少年は上を見上げた。
突如として降りかかってきた、冷たい水。
それをまともに浴びたかと思うと、すぐ横で豪快なバケツの落ちる音。
辺りを騒がしく、ガシャンガシャンと、強く地面に打ち付ける。
もう少し違う位置に居たら、少年に当たっていたであろう。
「……冷った! もー! 何すんのさ!」
未だに髪を伝ってくる滴を手で除けながら、少年は上に向かって言った。
「水が欲しいんじゃないのか?」
「たっぷりあげてやったぞ、バケモノ!」
悪意のある悪戯、そして無邪気な笑顔と笑い声。
この子ども達にとっての、当たり前で、そして日常。
「僕はバケモノじゃない! シノンだ!」
びしょ濡れになった体を襲う、吹き抜ける寒さに耐えながら、シノンという少年は反抗する。
「先生はバケモノに名前なんて無いって言ってたぞ」
「うーわ、自分で考えたのか? 一人で気持ち悪ぅ」
この日常は、決して子ども達だけではない。
大人も、世間も、皆。
「悔しいんならやり返してみろ、バケモ……ぎゃっ!?」
“普通”でないことを許さない。
「ダナ!?」
ダナと呼ばれた子どもが倒れ、驚く他の子ども達。
顔を覆いうずくまるダナの横に転がっていたのは、見慣れたバケツ。
「おいっ…見ろよあれ!」
一人の子どもが指差した先は、シノンだった。
否、シノンだったはずの、人物だ。
ぼさぼさの長い黒髪に、鋭い紅い眼。
一見すると別人のようだが、服装は先ほどのシノンと同じ、埃を被ったようなみすぼらしいもの。
ここの孤児院で、そのような格好をするものは、一人しかいない。
「……お望み通り、仕返ししてやったぞ」
シノンであったであろうその人物は、冷たくそう言い放った。
すぐ傍にあったバケツは無い。
恐らくさっきの子どもめがけ、投げ返したのだろう。
「で、出た! バケモノが出た! やばい、先生ーっ!!」
ドタバタと去っていく子ども達。
再び、静寂が訪れる。
「……言い返すだけでなんとかなると思ったのか、シノン?」
黒髪の人物は、誰も居ないはずのその場所で、いきなり問いかけ始めた。
「最近私が出てこないからって、調子に乗ったんだあいつらは」
(だからって暴力反対! 力ではなんも解決しないよ!)
「詭弁だな。言い合ったところであいつらの悪戯はエスカレートするばかりだ」
どうやら内なる存在と話をしているらしいその人物は、体にまとわりついた滴を払いのけ、孤児院の周りを囲む茂みの中へと入っていった。
「何が“自分で何とかしてみるから暫く出てこないように”、だ。結果こんな目に遭って…風邪でもひいたらどうする」
(あ、心配してくれたの? 大丈夫だって、自然に治るから)
「前向き馬鹿も治るといいな」
草むらを掻き分け着いた先は、地面がそこだけ網目状の鉄格子の出入り口。
慣れた手つきで格子を開け、人一人が入れるくらいの、薄暗い穴が現れる。そこにひょいと迷いなく入り、格子を閉じてからするすると、抜け穴を通っていく。
暫くしない内に、とある小さな部屋に辿り着いた。
「着いた。変わるぞ」
そう言うや否や、その人物は黒髪から徐々に銀髪に変わり、眼もいつの間にか紅から碧へと変貌していた。
「……ぶえっくしゅん!!」
その姿はもう、先ほどのシノンその者。
豪快なくしゃみをした。
(ほら自然に治すんだろう?そうでなかったら、とっととタオルで拭いて着替えをするんだな)
「カシスって、優しいのか冷たいのか分かんないよ…」
シノンも内なる存在“カシス”に話しかけ、棚からタオルと、今着ている服と全く同じ服を取り出す。
この部屋は、孤児院の地下室であり、緊急時に使う避難部屋。タオルや簡易ベット、保存食などが完備してある。
しかし長らく平穏だったためか、今ではこの部屋の存在を誰も知らない。昔のシノンが、偶然自分の部屋で見つけた、隠し扉を進んだ先にあった部屋だ。
以降、シノンは有効にこの部屋を使っている。保存食は、ばれない程度にちょくちょくカシスが失敬しているものが殆どだ。
「……いつも思うけど、盗みってどうかと思う」
(お前、ここで過ごしてきてまともな食事にありつけた事があるか?)
「そりゃ無いけどさー……」
(ここの奴らは、私たちを人間扱いしていない。いや、人間以下の扱いしかしない)
「僕らが野垂れ死にするのを待ってるんでしょ?で、なかなか死なないでもう早10年近く。いい加減僕らの体質にも慣れてほしいよね」
わしゃわしゃと髪を拭き、体を拭き、カシスと会話をするシノン。傍からみればただの独り言だが、彼らにとってはそうではない。
本当の意味で心が近い相手との、唯一の会話なのだ。
(慣れるなんて、また生ぬるい事を……諦めてくれればそれで十分だろうに)
「ダナ達もなー、多分構ってほしいんだって。孤児院はただでさえ人が多いから、大人は全員構ってあげられない。だから僕にちょっかい出すんだよ」
(また出たな、前向き馬鹿。お前はあいつらの無邪気で残酷な悪意を感じないのか?)
「無邪気なだけまだ良いよ。厄介なのは……」
そう言って、着替え終わった手を止めたシノン。
カシスの言葉も、感じなくなった。
カツン、カツン……
まだ非常に小さいが、近づいてくる、冷たい足音。
(……シノン、変われ)
「わっ!?」
すぅっと、銀から黒、碧から紅へ、先ほどの人物……カシスに姿が変わった。
険しい顔つきで、音もなく梯子を上り移動するカシス。
「厄介なのは……大人、か」
そう呟いたカシスの言葉は、静寂に溶けて消え去った。




