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Ermitage~エルミタージュ~  作者: 橋空ミクノ
第一章~邂逅~
3/14

事件の日

町外れにある、レンガ造りの孤児院。

そこから漏れる子ども達の声は、無邪気で、明るい。

外では決して新しくはない、使い古されたであろう大きなシーツを、晴天の日差しを利用しパンパンと乾かす、大人の姿。


「せんせー!おはよー!」


元気よく走ってきた子ども達が、先生と呼ばれた大人を通り過ぎる。その様子を微笑ましく思いながら、洗濯物を干していく。

この孤児院に住む者にとっては、当たり前の日常が、当たり前のように過ぎていく。


そして今日も


当たり前のように




「……おい、静かにしろよ……そーっと、そーっと、だぞ」


なにやらこそこそしている、3人程の子ども達。孤児院の二階から、水汲み場にいる一人の少年を凝視していた。


ぼさぼさした長い銀髪の、穏やかな碧い眼の少年。

決して裕福ではない孤児院の子ども達とは、雲泥の差とも言って良いほどの、埃っぽいみすぼらしい服を着ている。

寒くなってきた気候には、水仕事はきついようで、先ほどまで雑巾がけをしていた手は赤い。

少年は手を擦りながら、井戸の水を汲もうとしていた。


「それっ、今だ!」


そう誰かが言ったのが聴こえ、少年は上を見上げた。


突如として降りかかってきた、冷たい水。


それをまともに浴びたかと思うと、すぐ横で豪快なバケツの落ちる音。

辺りを騒がしく、ガシャンガシャンと、強く地面に打ち付ける。

もう少し違う位置に居たら、少年に当たっていたであろう。


「……冷った! もー! 何すんのさ!」


未だに髪を伝ってくる滴を手で除けながら、少年は上に向かって言った。


「水が欲しいんじゃないのか?」

「たっぷりあげてやったぞ、バケモノ!」


悪意のある悪戯、そして無邪気な笑顔と笑い声。

この子ども達にとっての、当たり前で、そして日常。


「僕はバケモノじゃない! シノンだ!」


びしょ濡れになった体を襲う、吹き抜ける寒さに耐えながら、シノンという少年は反抗する。


「先生はバケモノに名前なんて無いって言ってたぞ」

「うーわ、自分で考えたのか? 一人で気持ち悪ぅ」


この日常は、決して子ども達だけではない。

大人も、世間も、皆。


「悔しいんならやり返してみろ、バケモ……ぎゃっ!?」


“普通”でないことを許さない。


「ダナ!?」


ダナと呼ばれた子どもが倒れ、驚く他の子ども達。

顔を覆いうずくまるダナの横に転がっていたのは、見慣れたバケツ。


「おいっ…見ろよあれ!」


一人の子どもが指差した先は、シノンだった。


否、シノンだったはずの、人物だ。


ぼさぼさの長い黒髪に、鋭い紅い眼。

一見すると別人のようだが、服装は先ほどのシノンと同じ、埃を被ったようなみすぼらしいもの。


ここの孤児院で、そのような格好をするものは、一人しかいない。


「……お望み通り、仕返ししてやったぞ」


シノンであったであろうその人物は、冷たくそう言い放った。

すぐ傍にあったバケツは無い。

恐らくさっきの子どもめがけ、投げ返したのだろう。


「で、出た! バケモノが出た! やばい、先生ーっ!!」


ドタバタと去っていく子ども達。

再び、静寂が訪れる。


「……言い返すだけでなんとかなると思ったのか、シノン?」


黒髪の人物は、誰も居ないはずのその場所で、いきなり問いかけ始めた。


「最近私が出てこないからって、調子に乗ったんだあいつらは」

(だからって暴力反対! 力ではなんも解決しないよ!)

「詭弁だな。言い合ったところであいつらの悪戯はエスカレートするばかりだ」


どうやら内なる存在と話をしているらしいその人物は、体にまとわりついた滴を払いのけ、孤児院の周りを囲む茂みの中へと入っていった。


「何が“自分で何とかしてみるから暫く出てこないように”、だ。結果こんな目に遭って…風邪でもひいたらどうする」

(あ、心配してくれたの? 大丈夫だって、自然に治るから)

「前向き馬鹿も治るといいな」


草むらを掻き分け着いた先は、地面がそこだけ網目状の鉄格子の出入り口。

慣れた手つきで格子を開け、人一人が入れるくらいの、薄暗い穴が現れる。そこにひょいと迷いなく入り、格子を閉じてからするすると、抜け穴を通っていく。


暫くしない内に、とある小さな部屋に辿り着いた。


「着いた。変わるぞ」


そう言うや否や、その人物は黒髪から徐々に銀髪に変わり、眼もいつの間にか紅から碧へと変貌していた。


「……ぶえっくしゅん!!」


その姿はもう、先ほどのシノンその者。

豪快なくしゃみをした。


(ほら自然に治すんだろう?そうでなかったら、とっととタオルで拭いて着替えをするんだな)

「カシスって、優しいのか冷たいのか分かんないよ…」


シノンも内なる存在“カシス”に話しかけ、棚からタオルと、今着ている服と全く同じ服を取り出す。


この部屋は、孤児院の地下室であり、緊急時に使う避難部屋。タオルや簡易ベット、保存食などが完備してある。

しかし長らく平穏だったためか、今ではこの部屋の存在を誰も知らない。昔のシノンが、偶然自分の部屋で見つけた、隠し扉を進んだ先にあった部屋だ。

以降、シノンは有効にこの部屋を使っている。保存食は、ばれない程度にちょくちょくカシスが失敬しているものが殆どだ。


「……いつも思うけど、盗みってどうかと思う」

(お前、ここで過ごしてきてまともな食事にありつけた事があるか?)

「そりゃ無いけどさー……」

(ここの奴らは、私たちを人間扱いしていない。いや、人間以下の扱いしかしない)

「僕らが野垂れ死にするのを待ってるんでしょ?で、なかなか死なないでもう早10年近く。いい加減僕らの体質にも慣れてほしいよね」


わしゃわしゃと髪を拭き、体を拭き、カシスと会話をするシノン。傍からみればただの独り言だが、彼らにとってはそうではない。

本当の意味で心が近い相手との、唯一の会話なのだ。


(慣れるなんて、また生ぬるい事を……諦めてくれればそれで十分だろうに)

「ダナ達もなー、多分構ってほしいんだって。孤児院はただでさえ人が多いから、大人は全員構ってあげられない。だから僕にちょっかい出すんだよ」

(また出たな、前向き馬鹿。お前はあいつらの無邪気で残酷な悪意を感じないのか?)

「無邪気なだけまだ良いよ。厄介なのは……」


そう言って、着替え終わった手を止めたシノン。

カシスの言葉も、感じなくなった。


カツン、カツン……


まだ非常に小さいが、近づいてくる、冷たい足音。


(……シノン、変われ)

「わっ!?」


すぅっと、銀から黒、碧から紅へ、先ほどの人物……カシスに姿が変わった。

険しい顔つきで、音もなく梯子を上り移動するカシス。


「厄介なのは……大人、か」


そう呟いたカシスの言葉は、静寂に溶けて消え去った。

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