序章・裏~彼女の追憶~
暗い、暗い。
温度も感じないような、この子しか知らない、悲しむ場所。
あとは私しか知らない、秘密の場所。
ただ泣くことしかしていなかった。
痛くて、怖くて、泣いていた。
私の一番覚えている記憶は、そんな場所と感情から幕を開け
“もう一人の自分”と出会えた。
全く、情けない。
薄暗い部屋で、私はいつものことながらそう感じていた。
だいたい何の理由もなく、ただそこにいたから殴られる、だと?
私が表に出てきて、隙を見て逃げなかったら、今頃打ち身だけじゃすまなかったはず。
こっちは何も悪くない。
なのに
なぜ、お前は怒りの感情が無い?
なぜ、お前は悲しそうに泣くんだ?
そう問うた所で、向こうはこっちの存在に気づいていない。
いつも通り、自分の独り言のように終わる。
そう思っていた。
すると何かに驚いたようで、大きく体が跳ねたのが分かる。
誰かが入ってきたのか?
私はそう思い、世間で言う第六感というやつだろうか…こいつには無いそれで、人の気配を探す。
……誰も、居ないようだ。
それでもきょろきょろ、挙動不審になるあいつ。ばれたのか、という思いが伝わってくる。
……ばれるも何も、ここにはお前しか居ないだろうに
「ひゃぁっ!?」
不意に発せられた声に、私も驚いてしまう。
「……誰? 誰なの?」
……。
まさか、私が聴こえるのか?
「……聴こえるのに、どこに居るの?」
明らかに、私の問いかけに反応している。
しかも、私が感じたこと全てではない、特に強く感じた事を、あいつも感じ取っている。
しかし、こんなことは無かった。今まで表に出てくるぐらいで、こいつ自身が私の存在に気づくことは無かったのに。
……お前が虐げられている、一番の理由。
それは私だと、どう説明したらいいものか。
お前は……私が怖くないのか?
「どうして?」
姿を見せない上に、誰だかも分からないんだぞ。
「毎日、僕を叩く皆に比べたら……君はそんなことしないよ?」
いや、叩くとか以前に、それは私がお前であるから……
どう説明しようか、言葉に迷う。そもそもこいつはまだ年端もいかない子どもだ。私の存在を理解してくれるのか、それさえも謎であるし……
「君、名前は?」
不意に言われた、考えてもない言葉。
……そんなもの、無い。
「何で?」
お前も無いくせに、そんな質問をするな。
「……だって、皆僕のこと“クズ”とか“バケモノ”とか……決まった名前言ってくれなくて」
それは名前じゃない、罵詈雑言だ。
「バリ……?」
しまった、言葉を選ぶべきだった。
だいたい、なぜ私はこんなにも知識を持っているのかが、不思議でならない。
明らかに小さいこいつより、語彙があるわけで……
「そうだ! 僕が決めてあげるよ!」
大声を出すな! 本当にばれる!
慌てたそいつは、すぐに口を覆った。
辺りは静寂だが、遠くでこちらの事情など知らずに、のんきに笑う声が聞こえる。しかし人の気配はそれくらいで、笑い声が遠ざかったかと思うと、すぐに安堵の溜息を漏らす。
気が気でならない上に、放っておけない奴。
自分の精神年齢が上な所為か、余計にそう思ってしまった。
「……心配してくれてありがとう」
いや、別に心配なんか……
「カシスってどう?」
カ、シ……?
「君の名前だよ」
思ってもなかった、あいつからの言葉。
カシス。
たぶん、思い付きで言ったんだろう。何の捻りも無いように感じる。
だけど
何か
分からない、込み上げる
この感情は、何?
「カシスも、嬉しい? 僕も、嬉しいんだ」
嬉しい……
言葉は、知っていた。知っていただけで、何も感じたことは無い。
私もまだ、無知なのか。
これが、嬉しい……
じゃあ……ありがとう。
「どういたしまして」
シノン。
「……え?」
……お礼。貰ったから、お返し。
「僕? シノン? シノンシノン…うん! 僕はシノン!」
ありがとうと、もどかしい嬉しさが、私に伝わってきた。
……シノンが、喜んでいる。
これも嬉しい事なのかと、その時はまだ分からなかった。




