序章・表~彼の追憶~
暗い、暗い。
温度も感じないような、誰も知らない、悲しい場所。
僕しか知らない、僕だけの場所。
ただ泣くことしか知らなかった。
痛くて、怖くて、泣いていた。
僕の一番古い記憶は、そんな場所と感情から幕を開け
“もう一人の自分”が聴こえた。
(……ぜ…………く?)
不意に感じた、誰かの声。
しゃくり上げていた体が、大きく跳ねた。
驚いて急いで辺りを見回す。
強い鼓動が胸と鼓膜をドクドク叩き、冷たい嫌な汗も掻く。
ここがばれた?
そう思ったのも束の間、何の気配も無ければ、何の音もしてこない。
(……ばれるも何も、ここはお前以外居ないだろうに)
ひゃぁっと、裏返った声が出てきた。
やはり、誰か居る。
「…誰? 誰なの?」
恐れ戦くも、勇気を振り絞って出た声。
久々にまともに喋ったであろう声は、掠れていた。
(まさか……私が聞こえるのか?)
感じる声は、初めて聴いた気がしない。
懐かしい、でも、知らない口調。
「……聞こえるのに、どこにいるの?」
立ち上がって、もう一度辺りを見回す。
涙で顔はぐしゃぐしゃだが、不思議と最初に感じた恐怖は消えていた。
(……こんなことは無かった……今まで表に出てくるぐらいで…)
何やら困惑しているような、でも何を言っているのか分からない、謎の声。
暫くすると、姿を見せない声は言った。
(……お前は……私が、怖くないのか?)
「どうして?」
そう即答すると、声は困ったように言ってきた。
(姿を見せない上に、誰だかも分からないんだぞ)
「毎日、僕を叩く皆に比べたら……君はそんなことしないよ?」
(…………)
相手が誰であろうと、幽霊であろうと。
悲しくないし、痛くもない。
そんな“存在”が嬉しいのか、固くなっていた心が解れていく。
「君、名前は?」
(……そんなもの、無い)
「何で?」
(お前も無いくせに、そんな質問をするな)
「……だって、皆僕のこと“クズ”とか“バケモノ”とか……決まった名前言ってくれなくて」
(それは名前じゃない、罵詈雑言だ)
「バリ……?」
分からない言葉にキョトンとなり、暫く沈黙してしまう。
「……そうだ! 僕が決めてあげるよ!」
(大声をだすな! 本当にばれる!)
はっと気づいてすぐに口を覆い、人の気配がしないか確かめる。
遠くから、誰かの笑い声がするが、この場所の存在には気づいてなさそうだ。
「……心配してくれてありがとう」
小さな声で、そう呟く。
(いや、別に心配なんか……)
「カシスってどう?」
唐突に、それでも、自然に。
(カ、シ……?)
「君の名前だよ。カシスってどう?」
自然と、口角が上がるのが分かった。
笑顔とは、こういう事だと、久々に知った瞬間だった。