失敗仕入れも時々あります 5
「朝、シカトしやがって」
「忙しそうだったから、遠慮したんだよ」
返事しながら、鉄のニットに目を向ける。太い糸で編んであるそれは、既製品にしては少々編み目が緩く、手編みらしい。
手編み? 誰の手編み? 一瞬でそう考えてしまう自分が、ますます情けない。
「珍しいカッコしてるね」
そう言うのがせいぜいで、その場から逃げ出したくなった。店の外に出ると、鉄は自転車置き場まで一緒に歩いて来た。
「明日休みだろ? メッセも既読ついてないし、なんだよ」
これに答える義務はあるのか。仕事中だったのだから、メッセの未読を責められる筋合いはない。誰かの(と美優は勝手に思い込んだのだが)手編みのセーターを見せびらかしに来ただけなら、もう見たのだからとっとと帰れ。
「まだ時間あるから、一回帰るだろ? どれくらいで迎えに行けばいい?」
「何が?」
「読めよ、メッセ!」
鉄の勢い込んだ言葉に、思わず顎を引いた。
「駅前のライトアップの点灯式、今日だろ。ラストにジャズの生演奏があるから」
ジャズと鉄っていうのは、どうも思いつかない組み合わせだ。ってか、まったく似合わない。
「てっちゃんがジャズ聴くの?」
鉄は曖昧に笑った。
「聴かねえ。親父が出るのが最後なだけ」
自転車置き場で開いたSNSの画面は、とても説明不足だ。父親がピアノを弾くから、三十分だけつきあえと書いてある。早坂興業の社長とピアノの組み合わせは少々意外で、それをわざわざ見に行く息子も意外だ。
セーター、誰の手編みなんだろ。そう思うだけでざわめいてしまう心を持て余して、帰途につく。
市のホームページで確認すると、仕度時間は結構タイトだった。悠長にシャワーを浴びている暇はないらしい。食事するかどうかはわからないから、帰宅時間は未定だと母親に告げた。
「あんまり遅くまで遊んでいないようにね」
「明日は休みだもーん」
言うだけ言って、クローゼットを開ける。タイツを穿けばスカートでも寒くないかな、それとも普段見慣れてるパンツスタイルのほうが違和感はないだろうかなんて考えながら、何故自分が誘われたのかとも考える。
てっちゃんのお父さんが出演するのなら、社員さんたちが応援に来るんじゃないの? そうしたら私なんて、ただのオマケじゃない。行く必要なんて、全然ない。
それなのに、出て行かないという選択肢は考えられない。誰かにこの感情をどうにかして欲しくて、けれど底に見え隠れする甘さを手放したくなくて、気持ちばかりがぐらぐらする。もうじき着くという連絡に応えて靴を履く美優の表情は、重い。
すぐに到着してしまった駅前広場は、別に大した賑わいじゃない。商工会が先導したイルミネーションに期待する市民なんか少ないから、駅の利用ついでに足を止めるか義理で見に来ているか程度の混雑だ。小さく設えたステージがダムになり、人間が溜まっている――そんな感じ。
ささやかな屋台で購入したコーヒーとホットドッグを手に、空いていたパイプ椅子に座る。もうエライサンの口上は終わったらしく、小さな子供のダンスチームが踊っていた。ステージの音に邪魔されて会話は耳元でしか成立しないから、黙って演目を観ているしかない。
プログラムの最後は、どこかの高校のジャズ研OBによるビッグバンドだった。日常的にJ-POPしか聴かない美優は、プログラムの曲目もわからない。
ガタガタとバンドのメンバーが席に着きはじめると、フライドポテトを買いに席を立っていた鉄が戻ってきた。
「鉄パパの席、ないね」
「ああ。バンドの正規メンバーじゃないから」
ずいぶんと冷え込んできたのに、鉄は上着の前を大きく開いた。
「どうせ一曲しか弾けねえし、音楽の趣味があるわけじゃなし。ただ、あれだけは敵わねえと思う。ドレミなんか読めないのにな」
楽譜の読めない人が、ステージに立ってどうするというのだろう。告げた鉄の声が思いの外硬質で、質問はできなかった。
華やかにイン・ザ・ムードで始まったミニコンサートの最初の二曲の間、早坂社長は舞台の隅で座っているだけだった。三曲目の前にステージの右袖にあった演目台が中央に引き出された。
「さあ皆さん、一緒に歌いましょう」
司会者が声をかけると、早坂社長は立ち上がって客席に頭を下げ、ピアノの前に腰掛けた。同時に美優の隣で、鉄は上着を脱いだ。
「てっちゃん? 寒くないの?」
「ラスワンの演奏、なるったけクリアに聴かせてやろうと思って。世界で一番カッコイイ人だったらしいから」
リトル・ブラウン・ジャグ、誰でも知っている曲だ。演目台に下げられている歌詞は子供向きで、簡単な歌詞を子供が楽しそうに歌っている。その横で、鉄は身じろぎもせずにステージを見つめていた。父親のステージを観るなんて理由じゃない、他の意思が見えるようだ。
父親の演奏が終わると、鉄はあっさりと上着を着て立ち上がった。
「最後までいないの? 鉄パパのこと待ってなくていいの?」
慌てて一緒に立ち上がると、ニヤッとした笑いが戻る。
「みーもうちの親父、大好きだもんな。あんなおっさん待ってたって、しょうがないだろ。メシ行こ」
さっきまでの真剣な顔は一体なんだったのか。質問もできないままに後ろをついて行き、近場で見つけた手軽そうなイタリアンレストランに入った。
店内に入って上着を脱ぐと、自分の身体が思いの外冷えていたことに気がつく。もうすっかり冬なのだ。
「これな、母ちゃんの手編み」
聞きもしないのに、鉄は自分の着ていたニットを指した。
「ハタチの母ちゃんが、二十七の父ちゃんに編んだもんだって。物持ち、いいだろ」
どう返事していいかわからず、美優は鉄の顔を見返した。
「今年で十三回忌だから、親父が母ちゃんの代理をするのも終わり。潮時ってやつかな」
「お母さんの代理?」
「プログラム、見てみ」
自分の知っている名前などないのだからと、イベントのプログラム表は畳んでバッグにしまっていた。開いて演奏者の名前を確認する。
『pf.早坂みどり』
どきどきする胸を宥めながら、鉄の顔を見た。
「ガキだったから、どういう経緯か知らないけど。再発した母ちゃんの代わりに、父ちゃんがピアノソロをやった。一年こっきりで復活できるって、少し期待してたんだろうな。だけど翌年の演奏者にも母ちゃんの名前を入れたって言われて。で、まあ、何年も続いてたみたい。母ちゃん、いい友達持ってたんだな」
病名は入っていなかった。それを訊ねる気も、なかった。
その人が手を掛けたものを身に纏い、その人がいただろう場所を見に行く。そしてそこで目にするのは。
「うちの母ちゃんさ、本当に父ちゃんのこと好きで。なんだか子供みたいに好きで。俺が母ちゃんの言葉で記憶してんのって『父ちゃん、カッコイイね』だよ。あとさ、意識なくなる前に言ったのが『明日も父ちゃんに会えるかなあ』だぜ。まったくねえ、子供にまで恋愛脳垂れ流してどうすんだって」
笑ってるけど今でも悔しいんでしょう、てっちゃん。鉄パパとてっちゃんのイメージが似てるのって、てっちゃんがどれだけ観察してるかってことだよね。
そのあとの鉄は普段の鉄で、美優は夜半前には帰宅していた。何故自分を誘ったのかという疑問は、ひとりで居たくない場所だけれど男同士のノリには繋がらない場所だからと、無理矢理自分に言い聞かせる。髪を乾かすためにドライヤーを使っていると、ふと耳に蘇る声がある。
やばい、過剰仕入だ。いつ捌けるのかわからない在庫を、ここにも抱え込んでしまった。




