失敗仕入れも時々あります 4
相次いで帰宅した父と兄のスーツ姿を見て、改めて鉄の父の肩の線を思う。職業柄の体型だとすると、鉄も中年になったらあんな姿になるんだろうか。骨格は似ていそうだし、持つ雰囲気は本当によく似ているし、鉄のほうが背が高い。
なんで嬉しくなっちゃってんのよ。私に何か関係があるっていうの。ってか、さっきから何を考えてるの?
早坂家の父を思い出してるんだか息子のことを考えてるんだか、入浴中の美優の頭の中は多忙だ。翌日発注するものと、次の休みに誘われたアウトレットモールの情報の間に、鉄がひょっこりと顔を出す。安定の悪い精神状態にうんざりしながら、口許まで湯に浸かった。
もしもそんなことになったとして――ですよ? どうだと思います? つきあってくださいとか言うんですか? それとも向こうから、好きだとか言ってくるわけですか?
お気に入りだった筈のフローラル系の石鹸の香りが、やけに甘ったるく感じる。兄のミント系のシャンプーのほうが、今の気分を引き締めてくれそうな気がする。洗い場でそちらに手を伸ばしかけて、ひっこめた。うすぼんやりと形になっていく期待が、逆に自分を不安に導いて行きそうで。
まわりに女の子がいない。それがこんなに不安だなんて、思ってもみなかった。美優は鉄がどんな人だか半分くらいは知っているつもりになっているけれど、それは主観だけだ。いい子だよと褒める人たちは、客としての鉄の顔しか知らない。客観視した鉄を、美優に伝えてくれる人がいない。
自分の気持ちがそちらに傾いていくのを自覚しているのに、この先どうしたら良いのか見当がつかない。
「風呂長いぞっ! 後がつかえてんだから、早く出ろ!」
ドア越しに兄が大声を出す。途端に思考はぶつ切りになり、ヤケクソな気分で湯をかぶった。とても浅い経験だけれど、考えたって何の足しにもならないことは知っている。
悔しいじゃない。私だけがそんな風に期待したって、てっちゃんは仕事や買い物の用事で店に来てるんだから、私じゃなくても仲良くなったのかも。私だって一番最初に気安く口を利いたのが、てっちゃんだったってだけかも知れない。たまたま手近にいたからなんて、悔しいじゃないの。
頭にタオルを巻いてパジャマを身に着け脱衣場から出ると、待ち構えていた兄が入れ替わりに入って行った。居間に残されたビジネスソックスを指先でつまんで退け、なんとなく癪に障って睨みつける。ただの八つ当たりだから、そのまま自室に入って髪も乾かさずにベッドに腰掛けた。
どうしようっていうのよ、美優。どうしようもないじゃないの。
そして翌朝、美優が出社と同時に見たのは、資材を荷積みしている鉄だった。防寒ジャンパーを着ないまま、トラックの後ろで腕組みをしている。フォークリフトで持ち上げた資材を見上げ、積み込みの確認をしているみたいだ。
顎を上げたときに出る、無防備な首のライン。隆起する喉仏が見たこともない生き物のようで、美優の視線はそこに吸い寄せられる。男の喉仏が珍しいわけもなく、それをクローズアップしてしまうのは特定の個人であるからに外ならない。
口許を押さえ、美優は早足で店舗に入った。鉄が気がつかなかったことを幸いに、朝の挨拶はしない。否、できなかった。
早鐘を打つ胸を宥めながら、タイムカードを打刻した。見てはならないものを覗いたような、見たかったものを目の当たりにしたような気分だ。たかが顎と喉仏に。こんなことで動揺してしまう自分が、とても情けなくなる。
自分のカウンターに入って、通常業務に使うファイルを出した。過剰仕入した箱が自分の場所を圧迫して、とても狭い。同時に浮かび上がってくる鉄の顎のラインを手で払い、前日の客注を纏めて発注書を書いた。なんだか泣きそうだ。
どうしよう。このままこんな気分が進んで行っちゃったら、もうてっちゃんの顔を見て話すことなんて、できやしない。
ほどなく来店した中年の客に朝の挨拶をし、安全靴のサイズの話なんかをする。自分の気分を顔に出して接客して許されるほど、小売業は甘くない。感じが悪い店だと印象づければ、安かろうが品揃えが良かろうが客は二度と来ない。自分が客の立場ならば、そうなのだから。
夕方にメッセの着信音の鳴ったスマートフォンは、聞こえないフリをした。仕事の話もプライベートの暇潰しも、今はしたくない。事務所に入って上着を羽織り、タイムカードを打刻する。なんだか疲れた一日は、家に帰って母親の作ったご飯を食べて、とっとと寝てしまうに限る……ってつもりだった。
一階のカウンターの前に立った鉄は、襟のあるシャツの上にざっくり編んだニットを着て、細身のパンツ姿だった。普段は見るからにサラリーマンと違う職業を持つ人の鉄の服装が、何故今日はこんなにフツーなのか。
足、長いな。一瞬誰だかわからない顔をした美優の表情は、鉄に思い切り晒されていた。




