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蝶々ロング!  作者: 春野きいろ
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失敗仕入れも時々あります 3

 たかだか三本のカーゴパンツでも、売れれば嬉しい。帰り時間直前に、いきなり上がるモチベーション。

「いらっしゃいませーっ!」

 次に来た客への挨拶も弾むってもんである。

「なんかさ、俺らが来たときと態度違わねえ?」

「そうっすよね。また来たの、みたいな顔してましたよね」

 背中でボソボソ聞こえる声は無視し、いそいそと新しい客に近づく。何度か来店している客は売り場の配置を覚えているので、案内の必要はない。慣れていなくても店員の案内を嫌う客もいるので、少々間を開けて案内の必要性を確認するのだ。


「サイズは出てるだけ? 相変わらず役に立たないねえ」

 毒々しい言葉でも、表情が笑ってさえいれば苦痛じゃない。在庫がないものはないのだから、反発したって言い訳にしかならないのだ。

「すみません、次に揃えておきますので。お色はネイビーで?」

「じゃあ、次に来たときに買うよ。売場に出しといて」

「たくさんは在庫できないので、出しとくと売れちゃうかも。入荷したら連絡しましょうか?」

 買わないかもよと念を押しながら、客は電話番号を残す。そう言いながらも自分で入れておけと言った手前、知らんぷりできる人は少ない。しばしば訪れる店では尚更だ。

 頭を下げて客を見送りカウンターを振り向いた美優は、小さくサムアップした。


 カタログをパラパラ捲っていたリョウが指差すものをメモに取り、試しに取り寄せてみると約束すると、美優の定時が来た。

「私、もう時間だから帰るよ」

「ひっでえ店員。客がいるのに帰るとか」

 鉄が笑う。

「時給のアルバイトでございますから。注文があれば、下のカウンターにお申しつけください」

 ざっくり言い置いて名札を外す。利益にならない客と、いつまでも遊んでいるわけにいかない。まだカタログを開いている鉄とリョウを放って、事務所に引き上げた。


 リョウ君と一緒じゃ、ごはん食べに行くってわけじゃないだろうし、何しに来たのよ。下唇を突き出し気味にタイムカードを押し、上着を羽織る。

 何しになんて考えることが変で、作業服売場を訪れるのは、作業服や安全靴や革手袋に用事があるに決まっている。客を客扱いしないことが特別扱いなのだと、美優はまだ気がついていない。いわゆる公私混同ってやつなのだが、気楽な小売店の気楽な接客なので咎められたりはしない。

 今度は一階で遊んでいる鉄とリョウに挨拶しようとしたところで、二人の横に工具店では珍しい姿の人がいた。メーカーの営業ですら作業ジャンパーメインの店で、普段はほとんど見ない背広姿である。もの珍しくて、つい顔を確認してしまう。


 会社勤めのころ社内で見る中年男の背広姿は、くすんでいた。丸まり気味の背中と薄い胸で、着ているのは紺茶灰の暗い色。まるでお仕着せを身に着けただけの、個性も何も見当たらないものだと思っていた。通勤電車の中で目が行くのは自分より少し年上の男たちだったが、全身をじっくり見てたわけじゃない。他に目にするのは兄だが、金融の男は遊びを取り入れたりできないらしい。

「素敵ですねぇ」

 思わず近寄って声をかけると、早坂興業の社長はにっこり笑った。がっしりした体躯で背をまっすぐに立て、日焼けした肌に映える淡い黄色のシャツだ。仄かにコロンの香りまで漂うのだが、着慣れていないものを着るときの野暮な感じはない。

 中年の男が素敵だなんて、思ったことなんてない。三十代から五十代は十把一絡げのオジサンカテゴリに区別していて、興味範囲外だったのに。うっかり目がハート形になりそうになり、ふと我に返った。

 てっちゃんのお父さんだよ、これ。何うっとりしてんの。


「今日はどちらかへ、お出かけですか」

「ちょっと大きい物件取れそうなんでね、こんなカッコして出なきゃなんなくて」

「じゃ、気が張りますね」

 相槌を打つ声も、どことなく浮かれ気味になる。自分の父親がこんな人だったら、嬉しいなあ。

「酒飲んで、お姉ちゃんのいるとこ行くんだろ。迂闊にアドレスなんか教えんなよ、自分で迷惑メールフォルダに入れられないんだから」

「最近の機種、操作がわかんねえんだ。おい、終わったから駅まで送れ」

 親子のやりとりを聞きながら、自分も自転車の鍵を握る。ぼうっと見惚れていても仕方ないし、売場に鉄とリョウが来たことすら、父親の用事の最中の暇潰しだったのだ。美優には何の用もない。


 あ、なんだかすっごく面白くない。てっちゃんが売り場に来ただけで、何かの誘いかもって思っちゃうのって、一体どうよ? 私だけ余計な期待してない?

 とても負けた気分で、自転車のペダルを踏む。手袋で守られている指先が、もう冷たい。鼻の頭も冷たい。暗くなった道を走るのもイヤになり、仕事へのモチベーションまで下がりそうな気がする。

 バカみたい、私。てっちゃんは、ただ少し仲の良いお客さんなだけなのに。

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