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蝶々ロング!  作者: 春野きいろ
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予算はがっちりと使いましょう 5

 フツーですけど、それが何か問題でも。女に声かけたったって、野球の試合の後ふたりでどこかに消えたってわけじゃない。顔を覚えられないほどたくさんの人数でファミリーレストランに行って、それだけ。つきあってるわけでもないし、大体ナニあの男! 他の店が気に入ってるんなら、はじめっからそっち行けばいいじゃないの。買う気がないなら、何しに来たのよ。

 あ、なんだか軽くムカついてきた。公私ともども面白くないぞ。


 オンナとかオネーチャンって言葉を蔑称代わりに使う男は、ときどきいる。言葉が荒くても良識的な職人さんたちに、おねえちゃんなんて声をかけられても、腹は立たない。彼らはあくまでも親しみを込めてそう呼びかけている。だから蔑称として使われたってのは、肌感覚でしかない。自分が不愉快なときに、あの言葉は一体何だと腹が立つだけだ。

 現場仕事は男社会だから(少数でも女がいることはいるが)女との接触が少ないのは納得できる。自分を大きく見せるために他人を卑下しようとする人間がいることも、知っている。つまりあの男は、普段接触のない女を眺めに来て、自分の期待よりも下だったからって理由で美優をバカにして行ったに違いない。

 まったくもってバカヤローで、そんなヤツに腹を立てるのは神経の無駄だ。けれどやっぱり、面白くないものは面白くないんである。


 ――お客様のご紹介、ありがとうございました。

 厭味ったらしく送ったメッセの相手は、言わずと知れている。現場で仕事中であれば、すぐになんて返信は来ない。送ってしまえば別にどうってことはない。何かを表現したかっただけで、相手が反応しようがしまいが忘れちゃって一件落着である。だから、すぐに忘れた。

 そして少々考えて、一種類の靴だけイレギュラーサイズを置いてみることに決めた。需要が大きければ、次は拡大すれば良いのだ。言われっぱなしになんかしておけない。


 五時過ぎに戻ってきたメッセのアイコンは、やっぱりオレンジ頭。

 ――誰か、来た?

 名前なんか知らない。顔もちゃんと覚えてない。覚えているのは失礼な口の利き方と、量販店と自分の売り場の比較をされた不愉快さだ。

 ――足が二十九センチの人。

 情報はそれだけだ。

 ――半魚人みたいな顔したやつ?

 半魚人なんて会ったことないから、どんな顔してるのかは知らない。にも拘わらず、その顔が浮かんできてしまう。

 ――そんな失礼なこと、言わない。

 その答えは、充分に失礼である。


 上着を羽織って帰りの挨拶をして店を出ると、美優の自転車はなくなっていた。慌てて駐車場を見回すと、見覚えのあるバンの前に長身が立っている。

「私の自転車、知らない?」

 いらっしゃいませの挨拶じゃなくてそれなのは、焦っている証拠であるのだが、鉄はごくごく平坦な顔で車を親指で示した。

「乗せた。メシ行こうぜ」

 こちらの都合も聞かない身勝手さだ。

「なんか待ち合わせしてたっけ?」

 慣れてくると、こういうところもある性格なのだと、だんだんに理解してくる。きっとそれは、男友達では通用する間合いなんだろう。予定がないなら遊びに行こうぜ、みたいな。美優は女の子だ。


 少し前に、女の子と長続きしないと聞いた。原因は、こんなこともあったに違いない。ここで言葉を遠慮すると、また同じことをされる気がする。

「あのさ。顔直してないし、これの下は伊左次のロゴ入ったポロシャツ着てるんだよね」

「いいじゃん。俺もそのまんまだし、ファミレスで気取ったって」

「気取ってるわけじゃないの。女の子は外に出るとき、それなりに準備してるんだよ。顔だってばしゃばしゃっと洗っておしまい、じゃないんだから」

「そんなに大層なこと、してねえじゃん」

 ふう、と溜息を吐く。予測できることはこの際、言ってしまった方が良いかも知れない。これから先に何らかの進展があるとすれば、自分に不利益をもたらすことだ。

「てっちゃんが朝起きると、おばあちゃんってもう全部支度しちゃってるんでしょ? 着替えてお化粧済ませて、ごはんまで作ってて。違う?」

 鉄は明らかにムカっとした顔になったが、とりあえずおとなしく聞いている。

「何かの用事で出るときも、自分の支度が全部終わってから声かけるんじゃない? でもさ、こっちにはこっちの都合ってものがあるんだから、てっちゃんのペースにだけなんて合わせらんない」

 一息に言い終えた後に、少々きつかったかなと思う。


「うるっせー女だな。わかったよ、チャリ返すよ」

 あ、そういう展開? やば、ちょっと言い過ぎたかな?

「そういうこと言ってるんじゃなくって、修正してくれって」

「で、行くの? 行かねーの?」

 バンの後部を開けたまま、鉄は言う。

「……行ってもいい」

 返事に鉄は、口角を持ち上げた。

「昨日も親父に言われたばっかり。世界中の人が、俺のことばっかり気にしてんじゃねえぞって。わかってても、やっちゃうんだよなあ。ガキくせえったらねーわ」


 運転席に乗り込んで美優に隣を促しながら、鉄は続けた。

「どうもね、こいつは大丈夫だって思っちゃうと、余計自分に合わせてくれる気がしちゃうらしい。ガキなんだな、やっぱり」

 小さく笑って、車を発進させる。美優の心情なんかお構いなしに、ハンドルを握って街道に出る。少々複雑ながらも、帰るとは言えない。

 美優の兄は金融の男だから、どちらかと言えば相手優先の行動が身についている。父親も普通の会社員だし、手マメ口マメな母親が梶をとって家庭生活が成り立っているので、他人の生活や性格を言及することなんて滅多にない。

「ちゃんと言ってくれないと、なんで怒ってるか、わかんなくってさぁ。ま、何にせよ良かったわ」


 そっか、ここまで親しくなったから、言えたのか。これもまた、人間関係の予算の消化である。そして消化した予算が次の利益を産む、筈なのだ。

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