予算はがっちりと使いましょう 4
そうして夜半近くまでお喋りを楽しめば、大抵の懸案事項など忘れるものだ。っていうか、鉄のメッセは別に懸案事項じゃない。仕事の話でもなく重要な用事があったわけでもなく、ただ時間が合わなかっただけ。ここで少々引っかかりがあるのは、早坂興業自体が伊佐治の重要な顧客であることと、もうひとつ。
もうひとつの方は敢えて無視することとして、社員として考えれば――いいや、どうせアルバイトだもん。職場にいる時間以外に、客の機嫌なんか考えてたまるもんか。さっきは急いでたから、ゴメンね。そんなメッセを送るような間柄じゃない。
「おはようございまーす!」
出社時にユニフォームを着ていなくても、客に挨拶すること。意識して覚えたわけでも指導されたわけでもなく、いつの間にか美優にも当たり前の習慣になっている。長く一階の顧客でも二階には何があるのか知らない人も多いから、客は美優の顔なんか知らない。それでもそう挨拶することで、美優も店の人間だと印象付けることができる。つまり一種の顔つなぎで、覚えてもらって軽口が利けるようになればしめたものだ。次のステップが販売に繋がる。
「美優ちゃん、昨日の晩の客注」
差し出されたメモに目を通し、二度見する。
「これ、品番とか確認してないんですか?」
「階段あがってすぐ右にあるやつ。あれの黒だって」
それ以上問い詰めても仕方がないので、自分の持ち場に上がっていく。上がってすぐ右のモデルのカラーバリエーションに黒はない。朝からぐったりする瞬間である。
知識も興味もない人が、カタログも確認せずに注文を受けているのだ。美優が入るまで、どうやって手配していたのかが謎である。
そういえば、てっちゃんが言ってたことあるな。揃ってない上に、いつ入ってくるかわからないって。あれって、わかんないって後回しにされちゃってたんだろうな。
今は違うでしょ?チェーンのワークショップみたいに在庫はないけど、受注したら一週間以内に全部揃えて渡せるし、とり急ぎ必要なものなら困らないだけの品数がある。美優なりのプライドで、売り場を作ったのだ。それを否定するヤツがいれば、出て来い。
朝礼のあとには商品の棚をチェックして歩き、不足なものや気になるものの発注をする。それが済んだ頃に午前便の入荷が来る。午前中はあっという間に過ぎてしまい、ひとりの売り場でも結構気が抜けない。プランを練るのは、主に午後になる。
メーカーから送られてきたファクシミリの中に商品入れ替えのための特売品が記載されていたので、自分の売り場に置いて動くものかどうか、インターネットから商品の情報を引き出してみる。置いてみたくても、勝負だなと思うようなものは一度に大量に発注はできない。肘をついて考え込んでいると、客が入ってきちゃうのだ。
「みーって子、おねえさん?」
「はい?」
何故顔も知らない人から、そんな風に呼び掛けられるのかわからない。
「テツが野球に連れてきたことあるって言ってたけど、俺の顔覚えてる?」
相手も自分も覚えていないのだから、やっぱり関係のある人じゃないように思う。けれど、客は客だ。最低限でも愛想よくしておかなくてはならない。
「ああ、やっぱり覚えてないか。ま、いいや。靴なんだけど、二十九センチのやつ」
「ごめんなさい、そのサイズはお取り寄せになります」
客は明らかに、フンとした顔になった。
「どこの店だって、何種類かは置いてるよ? ワーカーズじゃなくてこっちの方がモノがいいって、テツが言ってたのに」
置いてある商品の品質については、量販を売り物にしている店舗とは違うと胸を張れる。けれども品数やサイズの揃え方では太刀打ちできない。
「二・三日いただければ」
「だから伊佐治ってダメなんだよなあ。テツがマシになったって言ってたのに、ダメじゃん。ワーカーズのほうが全然いいよ」
何だこいつ、ワーカーズワーカーズって、そっちの方がいいんならそっちに行けよ。絶対にそんなことを言ってはいけない。イレギュラーサイズまで本当にちゃんと揃っているのか美優は確認したことはないのだから、教えを乞うフリをしてスルーしてしまうのが一番早い。
男が気持ち良さそうにワーカーズと伊佐治の比較をしているとき、美優は思いっきり男の服装を確認していた。伊佐治も扱っているメーカーだが、彼が着ているのは量販店向けのブランドだ。デザインは同じでも、生地と縫製が一ランク落ちる。つまり、メインにカタログ品を置いている伊佐治を愛用するようにはならないだろう。
「お取り寄せ、いたしましょうか?」
「いいや、ワーカーズに行くわ。伊佐治、高価いし」
男は言うだけ言って帰ろうとし、余計なこともついでに言って行った。
「テツが珍しく女に声かけたって言うからさ、どんなのかと思ったらフツーなのな。硬派男が泣くわ」
硬派? てっちゃんが? だって私には、はじめっからあの調子なんですけど。




