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蝶々ロング!  作者: 春野きいろ
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着衣は体温調節に必要なものです その3

 見積書を作り終えて、夕方の五時。そろそろ鉄が現れてもおかしくない時間になった。売り場の中には客はいない。中途半端な時期なので、夏物はまだ出しっぱなしだ。

 てっちゃん、早く来ないかなあ。ちょっと退屈。


 階段に足音が聞こえ、美優はカウンターから顔を上げた。鉄の軽い足音じゃない。億劫そうな重い足取りで、まず頭のてっぺんが見える。年配者である。

「ああ、こんにちは。おねえちゃん、足袋どこ?」

「こちらになります」

 案内しながら、毎度のことながら不思議な気分になる。もう筋肉の残っていなさそうな身体つきで、階段を上がるのも大儀そうな年寄りが、地下足袋を購入していくのだ。

「先芯の入っているものですか?」

「いや、硬いのはいらない。紺色の」

「ハゼの数は何枚で」

「十五かな。ふくらはぎまで来るやつ。植木屋だからね」

 こんな老人が樹を切ったり脚立に乗ったりして、怪我は大丈夫なんだろうか。まあ、余計なお世話である。


 地下足袋の老人が帰るとお馴染みさんが訪れて、高価いだの少ないだの憎まれ口を利きながら手袋を買っていく。鉄はまだ来ない。

 おかしいなあ。てっちゃん、今日見積を取りに来るって言ってたのに。

 店から連絡するほど急ぎの話でもないし、もしも急いでいると言われればメールやFAXで送ってしまえば良いのだ。注文者が気にしていないのなら、こちらから連絡をするほどのことでもない。放っておけば良いだけの話である。


 どかどかと階段から音がしたとき、今度こそ鉄だろうと美優はそちらを振り向いた。けれど、階段の上に立ったのは鉄じゃなかった。昨日、鉄と一緒にいた男のうちのひとりだ。

「見積、できてる?」

「あ、はい、こちらに」

 もうプリントして社印も押してあるそれを、手渡す。

「これ、ロゴ変更できる?」

「複雑に変更でなければ、大丈夫です。大きさと文字数で決めてますから」

 答えながら、妙ながっかり感だ。何故鉄じゃないのか。

「どれくらいかかるの?」

「モデルとロゴが決定すれば、一週間ほどでできます。十月に入ると業者が混んじゃいますから、今のうちなら」

「ふうん。じゃあ、日曜日にもう一回打合せするから、それから注文する」

 男はそんな風に言って、階段を下りて行った。


 何よ何よ、てっちゃんが来るんだと思ってたのに。だいたい、あれって仕事用じゃないよね。『ひまじんオール☆スターズ』って、なんてダサいネーミングよ。

 膨れっ面をして、ポロシャツを着替える。別に膨れるようなことはされていない。仕事の依頼が来たから仕事をして、客の要望に応えただけだ。そしてそれは確実に売り上げに繋がる予定のやりとりである。


 なんだか私、支離滅裂じゃない?別にてっちゃんが来なくたって、いいじゃん。売上が上がりそうなんだから、喜ばなくっちゃ。しかもあれ、六万以上の見積だよ。いっぺんにそんな売上、二階では滅多にないじゃない。

 自分に言い聞かせて、自転車を漕ぐ。言い聞かせるべき理由が見つからず、生理が近いからということにしておく。まったく面白くない。



 鉄が姿を見せたのは、翌月曜日だった。少し涼しい風の立った日で、まだ早い羽織物が数枚動いた。

「よう、この前は見積ありがとうな。あれで決まったから、正確な枚数とロゴ持ってきた」

 ロゴをプリントした紙をひらひらさせて、鉄がカウンターの前に立つ。

「ご注文、お待ちしてました」

「あれ、何か怒ってる?」

「怒ってません。ありがとうございます」

 わざとぶっきらぼうに言う理由が、自分ではなんとなくわかっている。だけどそれを鉄に悟らせるのもまた、やっぱり面白くない。

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