着衣は体温調節に必要なものです その2
――まだいる?
アイコンは、オレンジ色の髪だ。
――もう、帰るとこ。
返事を返しながら、なんとなくドキドキする。これってこの前みたいに、一緒にごはん食べに行くとか?別に帰ってから予定はないから、いいけど。でもちょっと待って、私ったら今日は量販店のTシャツ着てる……
――売場、戻って待っててくんない?
売り場?何故?
何故もへったくれもない。鉄は客で、客が売り場に戻ってくれっていうのは、商売の話だ。急に親しくなった気がしてプライベートに結び付けてしまったが、元来の関係は店員と客である。ただし、他の客は美優の個人的な連絡先なんて知らない。
定時は過ぎた。タイムカードも打刻した。別に売り場に戻る義理はない。美優がいなければ、一階の誰かしらがカタログと刺繍糸の色見本を確認しながら、受注するはずだ。美優が入る前はそうしていたのだし、今だって美優がいない時間はそうなっている。
でもさ、ご指名で注文もらうと、やっぱり嬉しいし。
通称になりつつある「二階のおねえちゃん」は、喜ばしい呼び名じゃない。それでも時々、名前は覚えていないけれどと前置きして、自分あてに電話がかかってくる。作業服売場担当として、顔が売れてきた証拠のように思う。
客はもちろん伊佐治に金を払って買い物するのだが、対面で販売しているのは美優であり、美優自体が気に喰わなければ買わない。これが高じると、たとえば同業他社に転職した場合に客はそちらに流れる。これを「客がついた」状態という。美優はまだ、そこまで客と仲良くはない。
「あれ。美優ちゃん、帰ったんじゃないの?」
「ちょっと用事ができたんで。多分大した時間じゃないから、サービス残業しまーす」
タイムカードは打ってしまったのだから、もうユニフォームには戻らない。相手は美優が伊佐治の人間だと認識しているのだから、名札をつける必要性も感じない。
でもさ、ちょっと顔直しとこうかな。自転車だからって、そのままだし。
今までその顔で店舗に出ていたくせに、客が来るからとグロスを塗り直したりする必要はあるのか。自分を深く追求するのは、止しておこうと思う。鉄は美優が好んで恋愛したくなるタイプとは、絶対に違う。
程無く二階に上がってきたのは、鉄だけじゃなかった。鉄と同年代の男が、合計で三人。
「悪いな、仕事終わったとこに」
鉄だけであるなら恩に着せるような言葉も返せるのだが、知らない相手も一緒では愛想笑いしなくてはなるまい。
「別に用事はないし、構いませんよ」
少しだけよそ行き言葉になって、頭を下げる。
「今日は何かお探しですか?」
美優の改まった接客に鉄がニヤニヤしようが、構っちゃいられない。鉄以外の人間に、視線を向ける。
「ああ、スタッフジャンパーを作ろうかと思って。カタログで見当つけてきたんだ、これ」
ひとりが丸めて持っていたカタログを開き、カウンターの上に広げた。
「ばしばし防寒ってわけじゃなくって、風防げればいいんだけど」
一緒に覗きこんで、デザインを確認する。中綿云々の表示はないから、おそらく軽いウィンドブレーカーのタイプだろう。
「これに刺繍入れて、どれくらいかかる?」
男は胸ポケットから紙を一枚出した。それが刺繍のデザインだっていうのは一目でわかるが、即答できる類のものじゃない。
胸に社名を入れるような単純で決まった形の刺繍であるなら、金額の目安はある。小さなロゴを入れる会社もあるが、とても複雑な形でなければ、前例を考えてざっくばらんな金額を出すこともできる。
「この大きさってことは、背中にですか?」
「背中っていうか、肩かなあ……ちょっとおまえ、背中出せ……この辺で」
男は位置を示して、もう一度金額を訊ねた。
「この大きさですと、刺繍店に型を作ってもらわないとならないので、まず見積りを取ります。コピーをとらせていただいて、良いでしょうか」
「ああ、なんだ。ここにミシンがあるわけじゃないの?ワーカーズは店でやってるよ、遅いんじゃない?」
他の店と比較されては困る。
「マコト、別に急ぎじゃないだろ。それにワーカーズが置いてるモデルとここで売ってるものは、違うだろうが。カタログでモデル決めたの、おまえだろ。ワーカーズにはそのブランドは置いてないぞ。みー、見積りっていつ出る?」
鉄が話を引き取ってくれたので、ほっとする。
「明日には出ます。枚数によって価格が変わってきますので、数量を教えてください」
「十五枚かな。寒くなるまでにできればいいから、急がなくていいよ」
そんな言葉のやり取りがあって、やっと話が進んだ。
「悪かったな、遅くに来てあれこれ言って。明日、見積り取りに来るから」
そう言って、鉄はあっさりと階段を下りていく。ひとりじゃないのだから、これから友達と飲みにでも出るのかも知れない。
なんとなく肩透かしを食らった気分で、美優の唇は尖っていた。




