表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蝶々ロング!  作者: 春野きいろ
29/134

休みの日に作業着は着ません その5

 車の後部座席で、鉄とリョウの他愛ない話を聞くともなしに聞いていた。

「……だからよぅ、フルハーネスなんかヤダっつったんだけどよ。親父の奴、蹴り入れやがって」

「でも腰紐一本より、安心感あるんじゃないっすか?」

「フルハーネス、ダサいじゃん」

 ちんぷんかんぷんの会話の途中で、駅までの道じゃないことに気がついた。

「ねえ、どこに向かってるの?」

 知らない場所に連れて行かれたら、困る。そんな不安が声に出たが、それを鉄は笑って否定した。

「悪い悪い、先にリョウの家に送ってく。曲がり損ねたから」

 ってことは、そこから駅まで鉄とふたりで車に乗ってるってことか。


 リョウの家は、そんなに遠い場所ではなかった。と言うよりも、ここからなら駅に行くよりも、まっすぐ美優の家に向かったほうが早い場所だ。すっかり腰の落ち着いてしまった美優は、歩くのが億劫だ。このまま送ってもらっちゃおうかなー、なんて気分にもなる。安手のアパートの前で、鉄は車を停めた。

「おい、リョウ、宿題」

 鉄がリョウに差し出したものを、つい見てしまったのは好奇心だ。仕事関係の何かかと思ったのだが、それは小学校の時に散々見た記憶のあるものだった。漢字ドリル、小学四年生。

「え?」

 見ていないふりをするつもりだったのに、つい声が出てしまう。

「俺、バカっすから」

 リョウは明るく言い、ドリルをヒラヒラして見せた。

「ベンキョーなんて全然したことなくって、行ける高校なくって。でも、字ぃ読めないと免許も取れないぞってクロガネさんが……いてっ」

 べしっと音がして、リョウの頭が沈んだ。

「早く降りろ、後ろから車来るから。明日までに二十頁やっとけ」


 車を降りたリョウは九十度の角度で深々と頭を下げた後、腹からの声で挨拶した。

「ありがとうございました!お先に失礼致します!」

 鉄に指示されて助手席に乗った美優は、どう返して良いのかわからずにあたふたしたが、鉄自身は慣れているらしく、軽く手を振っただけだ。

「すっごく元気な挨拶だね」

「はじめに仕込むんだ、ああやって。挨拶と返事は大声で、自分の上司には絶対服従。勝手な判断には鉄拳制裁」

 鉄の声はフラットだが、軍隊みたいな言葉を聞いた気がする。

「鳶さんって、そんなに厳しいんだ……」

 なんか品の悪い仕事っぽいし、やっぱり古い感覚で乱暴なのかな、なんて生返事だ。


「勝手な判断とか指示を中途半端に聞くとかだと、死ぬからな」

 そんな大袈裟なと一瞬思ったが、鉄の顔は大真面目だ。

「他人も巻き込んで死んだら、シャレになんねえよ。自分も他人も殺したくなきゃ、守るしかねえんだ。そういう職場だから」

 死なんて言葉は、二十代の日常ではあまりリアルでない。

「お仕事で、死ぬような怪我することがあるの?」

「あるさ。新聞なんかでも、現場事故って載ってんだろ?」

 そういえば、見たことはある気がする。


「みーの家、どっち?」

「えっとね、次の次の信号右に曲がったとこで大丈夫。ありがとう」

 結局家の近くまで送ってもらい、別に危険でも気詰まりでもなかった。客であることは確かだが、今はお互いにユニフォームじゃない。まるまるプライベートな事柄で、親切な知り合いに送ってもらっただけだ。

「リョウの宿題、笑うなよ?」

 鉄は思い出したように言った。

「あいつ、バカじゃねえんだ。わかんねえこと放っといて、わかんねえことが積み重なっただけ。本人、やる気満々で大真面目にオベンキョーしてっからさ、可愛いだろ?」

「それを見てあげてるんだ?てっちゃん、面倒見いいね」

 案外と面倒見が良いと言っていた、叔父の言葉を思い出した。

「漢字も書けねえ奴に何か教えたって、ノートに平仮名並ぶばっかりだろうが。意味わかんねえし」

 確かに平仮名ばかりのメモ書きなんて、読み返すと意味は繋がらない。

「それにな、知識がなきゃ、他人の仕事も知らん奴からバカにされると腹が立つ。俺らがいなきゃビルが建たねえのも知らねえのに、ビルの中にいる仕事がエライと思い込んでるバカは、ゴマンといるんだ。こちとら由緒正しき職人だからよ、バカは相手にしたくねえさ。バカだって言われたって、自分がバカじゃないの知ってりゃ腹も立たねえ」

 そういう理屈だけじゃ、他人の学力を上げてやる手助けする理由には、当たらない気もする。


「あ、ここで大丈夫。ありがとうございました」

 さすがに自宅前まで送ってもらうのは、やめておく。ほんの数十分の会話だけで相手を信用してしまうほど、警戒心は薄くない。

「ついでついで。またな」

 思いの外イイ奴で、ただ口だけが悪い。鳶職っていうのがどんな仕事なのかなんて興味もなかったし、今でも厳密に言えば興味はない。けれどなんとなく自分が展開する商売とそれは、密接な関係があるらしい。鳶職だけじゃなく、他の作業着さんについても。

 実は、少々侮っていたのだ。言葉も素行も荒く、学歴の無い人間が流れ着く仕事だと思っていた。曲がり角の先で建築中のマンションには、大手の建築会社の札が立っている。札や看板が建物を建てるんじゃない。建てるのは、人間だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ