休みの日に作業着は着ません その3
五時を回った。来ると言っていた鉄は来ないし、階下の大きくなっていくざわめきとは裏腹な、閑古鳥の声を聴く。
「辰喜知のカタログ、貰えますか」
そう言う客にカタログを渡すのは構わないが、カタログだけ持って行って注文は来ないことの方が多いのだ。ファッション雑誌でも見るようにカタログを楽しんでいるのか、それとも他の店で買っているのかは定かでない。一つだけ言えることがあるとすれば、客はしっかりと作業着を着ているってことである。どこかでは買っているのだ。
「これ、夏物?」
熱田から借りた鳶服のハンガーを指差して、客が質問する。生地を見ればわかりそうなものだと思いながら、精一杯の笑顔で肯定の返事をした。
「はい、今季の新モデルです!」
「チョウチョウしかないの?ニッカは?」
えっとあの、ニッカって今触ってるものじゃないんですか。チョウチョウ?自信満々で新モデルとか言ってしまった手前、質問を返すことは気後れがする。
「ごめんなさい、それしか入れてないんです。お取り寄せはできますが」
慌ててカタログの該当ページを開くと、ズボン形状のものが三種類あった。一つの名称は知っている。カーゴパンツだ。もう一つは足首にベルトがあり、裾を絞めたニッカポッカ。美優の目の前に下がっているものとは違う。
ん?違う?私、今までこれをニッカだと思ってたんですけど!
「あ、この生地のベストもあるのか。そしたらさ、セットで取り寄せてよ」
後ろから覗きこんだ客の声に、気持ちを無理矢理切り替える。頭の中ではズボンが絡まっている。
「はい、サイズと色を伺います」
受注伝票を出してサイズと色の確認をし、連絡先を聞く。梅雨の湿度と気温だけではない、ヘンな汗を腋に感じた。もう一度カタログを確認して、正式な名称を確認しなくては。
超超ロング八分、カタログにはそう記載されている。蝶々でもなければ、ただのチョウチョウでもない。八分とは何ぞやと他のページを捲れば、ニッカズボンとロングニッカという記載がある。同じものじゃないのだ。他にも乗馬ズボン、七分ズボン、八分ズボン、ロング八分、超ロング八分……
ちょっと待て。売り場のズボンを整理したとき、私は何故長さと形に気が付かなかった!呆然とカタログを眺めること約十分、そしてハンガーラックを眺めること五分。全部ニッカポッカだと思っていた。鉄のようにブカブカなのは一頃のストリートダンサーのように、オーバーサイズのものを着用しているのだと思い込んでいたのに、違うデザインだったのだ。
ハンガーにかかっているズボンの裾を見る。ベルトで止めてあるものと、ブカブカズボンが途中から細くなりファスナーで裾を締めるものがある。言われてみれば、違う形だ。人間の思い込みっていうのは、怖い。全部一絡げに、現場の人が着るものと仕分けしていた。
「てめえが遅ぇからだろうがっ!」
階段をドカドカ上がってくる音が聞こえて、我に返る。そう言えば、鉄はまだ来ていなかった。美優の勤務時間は残すところ三十分だ。
「クロガネさんが寝てたんじゃないっすか」
「待ちくたびれて寝ちゃったんだよ!てめえ、三時に来いって言ったろ?」
賑やかしく階段の上に立ったのは、鉄と十代も半ばの少年だった。
「い、いらっしゃいませ」
鉄の勢いに呑まれて、ハンガーをチェックしていた手が止まった。
「まだいたか。みーは上がるの早いから、帰ったかと思った」
鉄が顔をくしゃくしゃさせて笑うと、隣の少年が美優を意味ありげに眺めた。
「クロガネさんが急いでたのって、そういう理由ですか?」
途端に少年の足に蹴りが入る。
「ここはな、在庫ねえのっ!担当者に直接注文しねえと、いつ入るかもわかんねえのっ!」
大層な言われようだが、否定はできない。
「ウチの新人。二ヶ月持ったから、親父が作業服一式揃えてやるんだと」
そう言いながら鉄は、熱田から借りたシャツのハンガーを持ち上げ、少年に突き出した。
「リョウ、これどうだ?」
リョウと呼ばれた少年がハンガーを受け取り、タグを改めてからラックに戻す。
「辰喜知じゃないんすか?」
「バカヤロ、いきなり辰喜知なんて百年早え!てめえなんか朱雀でも勿体ねえ!」
他人の頭を殴るとか足を蹴るとかが、こんなに気安く行われても良いものなのだろうか。しかも殴られているほうは、気にしている様子もない。
「だってクロガネさんなんか自分だけカッコ良く……いてっ!」
「下回りがカッコつけてどーすんだ。みー、こいつに試着させてな?」
鉄に押し付けられたズボンを数本持ち、リョウは試着室に入っていった。




