ノスリの見る夢 2
伊佐治の中には入らずに、自転車置き場で待った。売り場まで行ってしまってから鉄や社長が入って来ると、逃げ場がないっていうヘタレな理由である。ちなみに自転車置き場でも、後ろ向きに立っているのである。
六時を数分過ぎたころ、自転車置き場に人が近づいてくる気配があった。恐る恐る振り返れば、それは期待していた人影ではなく――
「リョウ! てめえ!」
行く手を阻むように立つ姿の横をどうにかすり抜けて走ろうとすると、後ろからシャツの背中をがっつり掴まれ、ガンッと目から火花が散る。この感覚は、知ってる。
いてぇ! 反射的に腹が立ち、その後急激に次の感情が襲って来る。突然殴られた怒りと、その行為がまだ自分に通用すると信じている相手への思慕で、混乱する。
「何で殴んだよぉ! いてぇじゃんか! どうせ俺みたいなバカなんかいらないと思ってんだろ! だから仕事に行かなくても何とも言わないで――」
情けないことに途中から涙声になり、涙声になりながら支離滅裂な抗議をする。夢中になって出てくる言葉を次々口にすると、感情が煽られてくる。
クロガネさんなんて社長の息子で頭も良くて、俺なんて頑張ったってバカなのに。行ける高校なんてなくて、できる仕事もなくて、誰もどうしたのかなんて訊いてくれなくて、クロガネさんだってバカなんて来ない方がいいと思ってるくせに、だけど俺だって俺だって俺だって。
言葉が続かなくなって、自分の感情のもどかしさがどうしようもなく、思わず鉄に殴りかかろうとした瞬間に、後ろから違う声がした。
「あーっ! リョウくん!」
ふいっと入って来た影は鉄とリョウの間に入り、リョウを庇うように立って鉄と対峙した。
「もうっ! 待ってた人のこと泣かせてどうすんのよ! 子供虐めてっ!」
「違うだろ! 拳振り上げそうになってたの、リョウだろ!」
「リョウくんが自分から、てっちゃんにかかってく訳ないじゃないの。泣いちゃってるじゃない、かわいそうに」
「ちげーよっ! 逃げたつもりで捕まって、逆ギレかましやがったんだよ!」
「だから、何故に捕まえる必要があるの。会いたくないから逃げたんでしょ?」
「じゃあ何で、ここにいるんだよ」
自分のせいで言い争っている鉄と美優のやりとりを聞き、リョウの頭は少し冷えた。こんな展開にするつもりなんてなくて、ただ自分をどう思っているのか知りたかっただけなのだ。本当に見捨てられたのか、それとも惜しいと思ってくれているのか。そして自分が今取るべき行動がわからずにヘタレのセオリー通り、即ち逃げようとした。引き留めたのは、鉄の言葉だ。もちろん、優しい言葉なんてものじゃない。
「オンナを盾にしといて逃げんな、ガキ!」
たいそう尤もなせりふである。思わず納得して足が止まる。別に自分から美優を盾にしたつもりはなくとも、後ろに隠してもらったのは本当だ。
「言うこと、あんだろうが」
その言葉に、カチンとくる。まだ頭の中は半分くらい、逆ギレの途中なのだから。実際に会うまでは、この頼りになる兄貴分に、また可愛がってもらいたかった。けれど今、リュウの中にあるものは反発だ。飲酒したのも仕事をエスケープしたのも確かに自分で、それは詫びるべきことかも知れない。詫びが必要なのは、交番まで迎えに来てくれた社長や、仕事の段取りを狂わせたチームの親方に対してで、鉄に対してじゃないだろうと思う。
「クロガネさんに言うことなんて、ないっす」
くるりと後ろを向いて走り出しながら、自分はやっぱりバカだと思う。あそこで頭を下げて、社長に話を繋いでもらうほうが絶対早かった。それなのに、逃げた。背中で聞こえた鉄の声と美優の声。走って走って、工業団地を抜けるころに振り向いたら、追ってきてはいなかった。
俺のスクーター、置いてきちゃった。どうやって取りに行こう。
一時間ほどウロウロと時間を潰し、自販機で買った缶コーヒーを飲んでいると、かなり頭は冷えた。鉄に反抗したことで、ヤケクソな度胸ができた気がする。伊佐治の駐輪場でスクーターのエンジンをかけると、リュウは早坂興業に向かった。先に電話をして約束をしたりすれば、そちらに行く勇気は出ないような気がする。社長に直接会って、まだ自分は戻れるのかと確認しよう。ダメならダメで、職人の求人はいくらでもある。それが法律で決まっていることを曲げて人を使うようなクソ会社だとしても、鳶は鳶だ。
早坂興業の駐車場にスクーターを停めると、資材置き場から音が聞こえた。職人たちの車は残っていないから、社長だろうとアタリをつけ、扉を開く。空調機のない、ホコリっぽく淀んだ空気の中で社長はフォークリフトを動かしていた。
早坂社長は、事務所に戻って来た職人に無理をさせない。どのチームも現場の段取りと積み込みで目いっぱいのときは、資材置き場の整理は自らが行う。現場で人工が足りなければ、自分が下回りを引き受けるような人なのだ。だからこそ職人たちはついてくるし、元請けの信頼は厚くなる。
こんな忙しい人に迷惑かけたんだ、俺。しかも謝りに行けって尻蹴飛ばされても、まだ自分は悪くないって思ってた。運が悪かっただけだって。
リョウに気がついた社長は一度フォークリフトを止め、こちらを向いた。
「ちょうどいいところに来たな。ちょっとその籠、運べや」
まるで今現場から戻ってきたばかりの若い職人に、指示を出しているみたいに。それが嬉しくて涙ぐみそうになりながら、入社当時に躾けられたように大きな声で返事をする。
「はい! 柴田入場します!」
そして縄張り用のトラロープの入った籠を持ち上げる。俺はここにいたい。社長がフォークから降りたら、土下座でもなんでもするから。
作業を終えた社長に近づくと、いきなり仕事の話が出た。
「明後日から、中央公民館の外壁塗装の足場。リーダーは田村な」
「あの、社長」
「メシ食ってくか? テツの分、食っちまっていいぞ」
「いや、家で食います。じゃなくって、俺」
「ああ、面倒臭いから、野暮な話はやめとこうぜ。戻る気になったんだから、いいじゃねえか」
「申し訳ありませんでした!」
「だから、いいって。明日田村に連絡して、集合時間だけ確認しろよ」
上手く謝れないまま駐車場に押し出されたが、リョウの頬は上気していた。またここで働ける!
スクーターのエンジンをかけていると、鉄の車が入って来た。慌ててヘルメットをかぶり、発進する。何故鉄に反発したいのか、自分でもよくわからない。一か月前みたいに、クロガネさんみたいになりたいって思えなくなったんだ、さっきから。