ノスリの見る夢 1
ノスリ 小型猛禽類、別名クソトビ
ごろんと横になったままテレビのニュースを見流していた少年は、口の中で小さくケッと吐き出した。少年犯罪の報道だったが、その中の言葉に反発を感じる。十七歳の鳶職の少年による、と報道は伝えていた。
クソッタレが、ちゃんと調べて言えよ。鳶ってのは高所作業なんだから、その年齢はありえねーっての。ロードーアンゼンエーセーホウってやつで、十八になるまでダメだって散々言われてんだから。十七なら下回りの鳶見習いか、法律守んないクソ会社がやらせてるか、どっちかだろ。
少年、柴田リョウは腹筋で起き上がって温くなった炭酸飲料のペットボトルを口に当てた。予定のない昼は長い。横目でちらりと投げてある漢字ドリルを見た。バカはバカのまま、頭を下げに行けないでいる。
戻りたいよお。社長、クロガネさあん!
ことの発端は、中学校の同級生たちと遊んだことだった。馬は馬連れってのは上手く行くものだが、バカがバカ連れなのは碌なことがない。おつむの具合がリョウと同程度でも高校に行った人間の中には、もうすでにフリーターに早変わりしているのが何人かいた。そしてそういう奴に限って、金を稼げば大人だと思っちゃってるのである。
「え? 家に金入れてんの? オマエんちの母ちゃん、子供の金取んの?」
「きつそうなこと言うけどさ、給料安くね? 俺、派遣だけどオマエより金貰ってるぜ」
「今時ドカタとか、だせぇ。汗臭くて汚ねえし、オヤジ臭いのがうつりそう」
(土方と鳶を同じに扱っちゃいけません。両方建築関係ですが、仕事内容も作業する場所も全く違います)
好き勝手言われてムカつきながら、誘われて居酒屋へ入った。同年代同士っていうのが久しぶりで、離れがたかったのだ。そして何杯か酒を飲み、未成年の癖にベロベロに酔っぱらったヤツを路上で引きずって帰る途中に、補導された。散々説教され、住所氏名を答えた後に身元保証を求められ、仕事中の母親を呼び出すわけには行かずに、仕方なく社長の名を答えた。居酒屋の調理場で十一時まで働く母を蔑ろにしていたつもりはなく、みんな飲んでるんだから大丈夫ってノリだけの飲酒だった。
引き取りに来た社長は巡査に頭を下げ、顎で示しただけでリョウを車に押し込んだ。説教はなかったが、笑いもしなかった。黙ってリョウのアパートの玄関まで送り、母親に引き渡した後にこう言っただけだ。
「法律ってのは国の決まり事だ。決まり事には理由があるんだってことも知らないんじゃ、仕事はさせられねえ」
その言葉で震えあがる程度には、リョウはバカじゃない。殴られたほうが百倍マシだった。そして夜明け近くまで寝付けなくて、今度は寝坊した。最低最悪なタイミングだ。現場にはベテランの車に同乗させてもらうはずだった。どう考えても一時間は前に出発しているだろう。
謝りに行かなくてはならないのに、また叱られるのが怖くて足は会社に向かない。同年代なら少なくはない興味本位の飲酒が、自分の中で大事になってしまった。
何でだよ。クロガネさんだってやってたろ? 俺にだけあんなの、ないじゃん。しかも無断欠勤したのに、どうしたのかって連絡すらない。俺なんて辞めちまえってこと?
二日間無断欠勤したら、本当に行けなくなった。三日目に母に蹴飛ばされ、菓子折りを持たされて向かった場所は、早坂興業ではなくてゲームセンターだ。リョウの操る原付が、どうしてもそちら方向に曲がってしまったのだ。
ああ、俺もうダメだな。クロガネさんですら、どうしたのかって言ってこない。見捨てられたんだな。
そうして菓子折りはゲームセンターのベンチに置いて帰って来た。夜は母親が帰宅する前に家を出て、公園に溜まっている顔見知りの中に入って行った。
五日目に母親に出て行けと怒鳴られ、金さえ入れれば文句ないだろうと言い返して、手っ取り早く派遣会社に登録して、すぐにダンボール開梱の仕事を紹介される。ひどい人手不足だったとみえて、翌日からに行ってくれと時給を提示され、一も二もなく承諾した。
鳶見習いの給料よりも、一日の稼ぎが良い。暑かったり寒かったりしないし、動きが悪いと大声を出されることもない。持っていくのはカッターと軍手だけで、ジーンズで行けるから、作業着に金もかからない。これはもしかして、良い場所を見つけたかも知れない。
もうキツい肉体労働をしなくても、返事が悪いと尻を蹴られなくても、友達にダサいと嗤われなくてもいいんじゃないか?
初めての仕事は、おそろしいくらいラクだった。ダンボールの箱を開梱して、中身を籠に入れて台車に乗せる繰り返し。何も考えずにカッターを持つ手が動き、身体が勝手に籠を運ぶ。昼の休憩のころには辺りを見回す余裕ができ、自分のペースが他人よりもずっと早いことに気がついた。カッターの刃を入れる角度が違う、ダンボールを潰すスピードが違う。あんなにトロトロ仕事をしていて給料を貰えるのかと、午後からは手を抜いたくらいだ。
帰りに就業証明のサインを貰ったら、事務所に呼ばれた。
「君、いいねえ。早いし真面目だし。明日も来てくれるのかな」
「派遣なんで、会社から言われれば」
「こっちからリクエストするから、名前教えといて」
帰り途中で派遣会社から連絡があり、そこの会社で継続して仕事をするようにと言われた。楽勝楽勝、人生イージーモードだ。身体は疲れてない、稼ぎも減らない。汗臭くならない。
一週間もしないうちに、飽きた。毎日同じことを繰り返し、上手くなる必要はない。一緒に働いている人間は日によって違うので、話し相手はいない。派遣先の会社からは必要以上に褒められて、派遣会社を通さずに直に契約のアルバイトにならないかと誘われる。
「正社員にはなれないですか」
「それは難しいかな。ここの会社の採用基準、高卒からだから」
そこで行く気がぽっきり折れたが、母親への意地でその後二日は出勤した。その間に同級生たちと公園で飲酒し(今度は見つからなかった)ドカタ卒業おめでとう、なんて言われたりする。卒業って何だ?
高卒じゃないからと言われて三日目には、どうしても行く気になれず、派遣会社に連絡して休んだ。家にはいられないから、ブラブラと時間を過ごすうちにビルの改修工事の現場を通り過ぎた。それを見た瞬間、ぶわっと脳裏に広がった風景がある。
『見ろよ、リョウ。おまえが働いたから、キレイな足場が組めたんだぜ』
早坂興業に入社して、一番最初に入った現場の親方だった。何もわからずに右往左往している新人に、怒鳴ったり頭を小突いたりする怖い人だと思っていたのに、親方は笑っていた。
『よく頑張ったな。まだ子供なのに大したもんだ』
肩を抱かれて見入った光景がリアルに迫ってきて、リョウの胸から繋がっている瞳に、何かが溢れた。
母親が出勤した昼過ぎを狙って、アパートにこっそり戻った。テレビをつけてその前でゴロリと横になる。
俺、すっごくバカだ。ラクで先のない仕事で、この先も同じように続けていける気になって。あの仕事で、俺は何を覚えた? 手の抜き方は、確かに覚えたな。別に行きたくもないトイレに何回も行ったりしてさ。手本にしたいカッコイイ人もいない、使い捨ての人間ばっかりの職場で、学歴もないからどこにも行けない。他の奴ら、それでも良いと思ってんのかな。
イヤだ、と強く思った。この先ずっとこんな生活をしていたくない。母子家庭で調理師の仕事をしながら自分を育ててきた母親に、こんなバカに高校は行っておいてくれと泣いた母親に、フリーターを続けるとか言いたくない。まして、自分は現場作業が好きだったのだ。
高所作業はまだできないが、見上げた足場の上の夏空。金属を打つ音。威勢の良い指示の声。そんなものが、ひどく懐かしい。
戻りたい戻りたい、戻りたいよお。だけどどの面下げて戻りたいって言えば良い? もう一月近くになるのに、都合好いこと言うなって撥ね付けられるのがオチ。
夕方までグダグダしていて、やっと社長の息子の彼女に気がついた。六時まで仕事のはずだから、まだ店にいるだろう。クロガネさんが何か言ってないか、教えてくれるかも。