鳶色reversible
花見のために美優に作らせた弁当は、鉄の期待を裏切らない『女の子の弁当』で、赤・黄・緑の彩りと揚げ物である。普段は煮物と焼き物主体の、年齢層高めの食事をしている鉄を喜ばせた。
でも本当のご馳走は、それを広げたときの美優の顔だったかも知れない。少々上目になりながら鉄の表情を窺い、喜んでいるのを確認すると、安心したような誇らしいような顔で笑った。その可愛いこと可愛いこと……とか絶対他人には言えないが。まして昼日中の公園のことである。
誕生日プレゼントに要求したのは弁当だけだったのに、辰喜知のシャツがおまけについた。
「今年のモデル? 気ぃ遣うなよ」
「仕入値で買えるもん。こんなのでごめん」
本当はここで頭を抱き寄せてしまいたいところだが、それはまだ勘弁してやる。何せ今まで、つきあっている女を仲間に紹介したことなんてない鉄である。面倒なだけだったが、それを硬派と受け取られるのが通常になると、そのままにしておいた。そっちの方が気楽だし、見てくれと上っ面で仲良くなった女と長続きしないのは、もう納得している。
自覚済みのマザコンを、矯正する気はない。たとえ焦がれるように会いたくとも、記憶の中でしか会えない人なのだ。それでも求めるのであれば、それに近い存在を上書きするしかない。
美優は母に似ているか? 答えはノーであり、イエスである。姿かたちはまったく似ていない。写真の母は切れ長の目に顎の細い人で、どんぐり目で唇のやわらかな美優とは印象から違う。けれど言葉の端々や佇まいに、はっとすることがあるのだ。鉄に対峙する気配が、似ていると思う。
それと実は、鉄が美優を愛称で呼び始めたのは、その音をずっと口にしてみたかったってのがある。きっとこれは、本人には言えない。
「ほら、父ちゃんが手を振ってる」
逆光で、父の顔は見えなかった。とても高い場所から手を振っているのが父だと、声がかかる前から母は気がついていた。
「テツ、見てごらん。父ちゃん、かっこいいね。世界中で一番かっこいい」
「かっこ悪い。仮面ライダーのほうがかっこいいい」
「仮面ライダーより百倍かっこいいよ。テツも大きくなったら、父ちゃんみたいにかっこいい男になるんだよ」
母が度々口に出した『世界で一番かっこいい』人は、いつも作業着姿だった。他所の家のスーツ姿の父親は羨ましく思ったことはあっても、重い資材を軽々と運ぶ父は確かにかっこよかった。ただ、それを常々口に出す母に反発する程度には、鉄は育っていた。あれは幼稚園の最後の年だったか、それとも小学校に入っていたのだろうか。
現場が近いからと弁当を持っていき、広い敷地の中に伐り残された桜の木の下で待った。擁壁の中には入れなくとも、職人たちが動いている姿は確認できた。剥き出しの骨組みの中、時々大きな音が聞こえる。
「あんな高いとこから落ちたら、死んじゃうね」
「そのために命綱してるんだよ。この建物は、父ちゃんがいなくちゃ建たないんだよ。どんなに大きい建物だって、父ちゃんがいなくちゃ建たない。かっこいいでしょ?」
今思えば、強烈な刷り込みだ。すべての建造物を父が掌握してるみたいな。けれど幼い鉄の世界の半分は家庭だったのだ。
まだ桜の咲く肌寒い時期に、父や数人の職人と、外で弁当を食べた。差し入れの意味もあった母の弁当は、いくつもの容器にきれいに詰められ、陽気な昼食だった。ビールが欲しいと言いながら茶を飲む男たちは、きっかり一時間で鉄の頭を撫でて擁壁の中に消えていく。
自分もあの擁壁の中について行きたい。俺も職人になる。これも今思えば、とても幼い単純な思考だったのだ。
桜の時期に思い出すこの一連の流れで、その現場がどこなのかずっと探していたのだ。やっと見つけたのが先月のこと。マンションなのか公共物件なのか、それとも何かの施設か、それさえ知らなかった。車で移動した記憶がおぼろげにあるだけ。
記憶の桜と建物の位置関係を認めたのは、目から鱗の隣市の市役所だ。記憶との一致を認めた瞬間、変な笑いが沸いた。ああ、こんなものが原点だったのだと。
実は美優に惚れたのは、ずいぶん早かった。ただし自覚するのに時間がかかった。何故ならばそれまで鉄が考えていた恋愛感情とは、違うものだったから。欲情した結果に情がわくことを恋愛だと思っていたし、事実それも誤りではなく、そうして長続きしているカップルだって多い。だから単純に、戸惑っていたのだ。
美優の仕事帰りに、自分のバンに自転車を勝手に乗せていたことがあった。男同士なら無言の合図で、これから遊びに行こうってことだ。それまでつきあった女の子たちだって、迎えに来てくれたの、なんて嬉しそうに言っていたから、普通の行為だと思ったのだ。
美優は、説教した。他人には予定があるのだから、先に連絡を入れろと。男同士のつきあいは知らない、女には女の用意の仕方があるのだと。
実際には予定があったわけでもなく、最終的には一緒に食事をしたのだが、それまで指摘されなかった事柄を真剣に指摘した美優が新鮮だった。中学生みたいな童顔で、かまうと喰いついてくる面白い奴って認識は、そこで崩れた。
なんかさ、俺の我儘なんて放っておいても、こいつは損しないんじゃない? それなのに、直せって言ってるじゃん。そのほうが物事が円滑になるって。
母ちゃんみたい。そう思ったのは、内緒だ。
母を『みー』と呼んでいたのは、父だった。自分にはけして使えなかった母の愛称を持つ女の子が、実は自分にとても有益な子で、しかも慣れれば慣れるほど可愛くなってくるって、一体何だ。
花見の弁当を片付けている美優に、もう一か所一緒に行きたい場所があると伝えた。隣市の市役所だと言ったら、不思議な顔をするだろうか。
母ちゃん、俺もかっこいいって言われたい人がいる。父ちゃんが見栄張って意地張って、社員さんたちにも気風がいいとか男っぷりがいいとか言われるのって、母ちゃんにそう見られたかったんだなあって、最近気がついた。
俺もそうなる予定。とりあえず、母ちゃんに決意表明するわ。だから桜の下で待っててよ。
空の弁当箱をバッグに収めた美優を見て、鉄もシートを畳みはじめた。
fin.