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蝶々ロング!  作者: 春野きいろ
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アンテナは高く姿勢は低くが基本です その4

 上機嫌で美優が帰宅すると、珍しく父親が帰宅していた。

「美優は最近、ずいぶん頑張ってるらしいな。叔父さんが褒めてたぞ」

 褒めるくらいなら時給を上げて欲しいところだが、給与査定は来月である。

「売上上げてるもん。ガタガタだった売り場を立て直したんだから、感謝してもらいたいよ」

 言いながら、自分の分だけコーヒーを淹れる。お砂糖もいっぱい入れちゃお。

「客商売は波があるからな。全部自分の手柄だと思ってると、失敗したときに折れるぞ。ただ運が良かったって低姿勢でいれば、まわりの評価も変わってくるし」

「はいはい」

 機嫌の良さに説教で水を差された気がする。けれども言われたことは尤もで、自分の力で売ってやったなんて自慢する人は、美優だって感じが良いとは思えないだろう。


 気をつけないと、客にまで傲慢な姿勢を見せてしまうかも知れない。私が仕入れてやったから欠品してない、私が揃えているから最新モデルが見られる、それが事実であっても、その情報は客には必要ない。

 あくまでも過不足のない接客と、必要なものが揃っているか否かが大切なのだ。逆を考えれば、売り場のラインナップと接客の態度いかんでリピーターが来る。そしてリピートする客が、売り場を美優の個性だと捉えるのだ。強い自己主張は必要ない。低姿勢を保っていれば、客は勝手に自分が買う立場だと認識する。

 それは買う側と売る側の上下関係でなく、利益を支払う側と利益を得る側の立場の違いだ。売買の取引っていうのは、そういうことである。


 店の中で基本的な接客の教育を受けられているわけではないから、傍目八目の父の言葉だってたまには頭に残しておいたほうがいい。けれど身内の説教なんて大抵鬱陶しいものではあるし、隅っこでちらりと覚えておいて、トラブルになってから思い返すのが順当である。もちろん美優もご多聞に漏れない。



 鉄が連絡もなく来るのは毎度のことだが、本来は客なのだから文句を言う筋合いはない。資材や工具を買いに来たのでもないらしく、まっすぐに階段を上がって来たらしい。

「あれ? ひとり?」

「今日はガチで買い物だから。取り寄せる時間ないから、見つからなかったら他に行く。今ここで上下揃ってて、打ち合わせにも現場にも使えるやつってある?」

 打ち合わせに使うってことは、きっと鳶装束じゃない。上下が揃っていないかもって危惧は、個人店の在庫の少なさから考えれば必ずある。

ひらズボン? どんなの?」

「丈夫で普通っぽいやつ。肩とか動きにくいとダメ」

 普通のって言われたって、何を基準に普通というのか。

「街で着て歩けそうなやつ? それとも早坂興業のユニフォームみたいなの?」

「デニムとかでいい。何かある? うるさい現場で、超超穿いて来んなってとこの仕事が来た」

 ときどき、そんな話を聞くことはあった。大手が街中での現場で、服装規定をすることがある。鳶装束は威圧的に見えるから禁止、みたいな。


 展示会で鉄に似合そうだと思いながら見た商品は、発注していない。売り場をぐるりと見回して、濃いカーキ色のブルゾンを手に取った。トップスは確かLL、ウエストはいくつだっけ?

「これ、どう? 辰喜知のカジュアル」

 振り向けば、鉄はエンジ色のパンツを手に取っていた。

「なんかこれ、変な形だな」

「あ、そこのメーカーさんの新作、立体裁断なの。穿くと足のラインが綺麗だよ。試着してみる?」

 美優が差し出したものも気になると言って、鉄は両方の商品を手に試着室のカーテンを開けた。鉄が着替えている間に、美優はもう一枚候補を見つけてカーテンの前に立った。


 着替え終わった鉄が、カーテンを開けて出てくる。地厚な綿の生地に敗けない肩のラインと、長い足。

「似合う! かっこいい!」

 瞬間で裾に目を遣り、裾上げの必要がないことを確認した。エンジ色の上下はハンガーに掛かっていると躊躇するような色合いだが、実際に身に着けると粋だ。

「みーが持ってきたそれもいいな」

 そう言う鉄の肩に持ってきた商品を当ててみようとすると、さりげない仕草で手首を掴まれた。


「なんだよ、リョウとはもっと近かったろ」

「え?」

 何故この場で、そんなことを言い出すのか。

「っていうか、いつも客との距離近いよな。今だって普通に肩とか触ってるじゃん」

 身に着けるものであれば、引っ張ったり当てたりでどこかに触れることは、確かに多い。

「仕方ないじゃない。余裕があるかとか、皺の寄り方とか見なくちゃならないし」

 手首を掴まれたまま、言い訳をしてみせる。大体なんでこんなことを言われなくてはならないのか。まだ鉄からは、何も明言されてないというのに。


「みーは自分が売り場にいるとき、すっげー色っぽいの知らないだろ」

 色っぽいって言葉は、美優から遠い言葉だとずっと思っていた。不本意ではあるが童顔は自覚しているし、売り場のユニフォームは作業服メーカーのポロシャツなのだ。

「中学生みたいな顔してるくせに、どこからでも掛かって来いみたいな迫力でさ、そこだけ大人に見えんの。ずるいよな」

 一体なんの文句だ。

「親父だって、あの子は大化けするから先に手ぇ打てって言うし、惚れさせろって言われたってどうしていいかわかんねえし」

 待って! こんな場所で、こんなシチュエーションで、何を言い出してるの、てっちゃん?


 美優の手首を掴んだまま、鉄は後ずさりして試着室に入った。当然美優を引っ張っている。

「少なくとも、みーも俺と同じ気持ちだと思ってるんだけど」

「同じって、どういう?」

 鉄が帰ったあと、きっと定時まで自分は仕事にならない。それに今客が入ってきてしまったら。

「同じって、こういう」


 美優の手首を捕まえている逆側の手で、鉄は試着室のカーテンを閉めた。中から何か軽い音が聞こえ、そのあと慌てて美優が転がり出る。

 美優が首から上がすべて赤くなっていることや、鉄が試着室の中に靴のまま入っている理由は、美優と鉄しか知らない。


 あとで迎えに来ると言って商品を抱えて階段を降りる鉄を見送って、美優はカウンターの中にへたりこんだ。

 売り場にいるときは、どこからでも掛かって来いって迫力があるんだって。それって、何を質問されても対応しますって見えてるんだよね、違う?

 きちんとプロに近づいてるんだろうか。そうだといいな。


 はい、私は作業服のプロフェッショナルですってね。


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