アンテナは高く姿勢は低くが基本です その2
ハンガーラックをごそごそと漁っていたリョウが、ブルゾンを一枚取り出した。
「これさ、色ってこれだけ?」
光沢のある織り柄の作業服は、辰喜知の人気シリーズだ。全色全サイズなんて揃えたら、予算が足りなくなる。
「あとね、グレーとパープルがあるよ」
そう答えた後、ふと思い出した。
「それ、今季で新色が出る。いい感じのグリーンだから、リョウ君に似合そう!」
冬カタログには載っていないが、春夏のカタログはまだ来ていない。手元にあるのは展示会で貰ったリーフレットだけだ。カウンターのしたから引っ張り出して、提示する。一緒に覗きこんだリョウが、嬉しそうに買う意思を示した。
「まだカタログにもないんだ? すっげー! みーさん、俺の分予約して!」
客を喜ばせることができて、美優も嬉しい。情報を仕入れておいて、良かった。
ん? なんだか反対側にも体温を感じるんですけど。ふと逆側の横を見て、思わずリョウのほうに身体を寄せた。作業服なんて見ようともしていなかった鉄が、一枚の紙を覗いているリョウと美優の横に、ぴったりとくっついて一緒に覗こうとしているのだ。
「ごめん、てっちゃんも見たかった?」
美優が一歩退こうとしても、鉄はその場を離れない。
「いや、俺、これの紺持ってるし」
そう言いながら尚も密着している鉄に、美優の居心地は甚だよろしくない。気を使ったリョウがリーフレットから手を離し、距離を開いてくれたのが幸いである。そしてリョウが離れたのを確認したように、鉄も少しだけ隙間を開けた。なんていうか、微妙な行動である。
「会長の買い物、行くんすか?」
リョウが鉄に声をかける。
「八時に寝やがるからな、あのじじい。材料揃ってねえと、うるさくてな」
「でも会長の味噌汁、旨いっすから」
「そのおかげで、朝からうるせえ」
早坂興業の若い職人の朝食は、おばあちゃんが作っていると聞いた気がする。おじいちゃんも手伝っているんだろうか。
「お味噌汁、おじいちゃんが作るの?」
父親よりも更に鉄に似ていた老人は、台所なんて無縁に見えた。だから単純な疑問だ。
「ばあちゃんが最近腰痛いっつって。そしたら、じじいが暇つぶしに現場とか会合とか、ウロウロすんのやめたんだわ。俺も今まで職人代表みたいな顔した年寄りが、洗濯やら台所の手伝いやらすると思わなかった。巧いもんだよ、味噌汁の具が増えた」
なんですか、その萌え設定。
「……おじいちゃん、ステキ」
「面倒くせえよ。ネギ嫌いなヤツに無理くりネギ食わしたり、犬食いになってないか監視したり」
「あ、俺、箸の使い方直され中っす」
リョウが小学生みたいに笑い、慌ただしい朝の光景が想像できてしまう。
「まあ、四時には起きてるからな。とりあえず蒟蒻と焼き豆腐買ってくるわ」
あ、なんだ。今日は別にお茶とかじゃなかったのか。ちょっとガッカリして、美優は上目遣いになった。
「あとでメッセする。またな、みー」
「俺、グリーン予約ね! 早くね!」
階段を降りていく鉄とリョウを見送り、棚の見回りをする。顔を見れば一緒にいられると期待してしまう自分が、とても悔しい。乱れていた手袋のフックを直し、溜息を吐く。
先刻の行動はどういうことですか、てっちゃん。リョウ君と肩を寄せていたのが、気に入らなかったんでしょうか。ちゃんと言ってくれないと、わかんないよ。
この前、確かに通じ合ったと思った。宣言はなくとも、もう恋人同士なのだと思ったのだけれど、それが錯覚だった気がして不安になる。ぼうっと立っていると、また客が入ってきた。そろそろ美優も定時だ。
「いらっしゃいませ」
客は無言でゴム手袋の前に立ち、無造作にいくつか掴んだあとに軍手を一締め持った。
「ゴム手のSってないの?」
「在庫は置いておりませんけど、中二日でお取り寄せができます。お必要なら、取り寄せますけど」
まだ若そうにみえるその客は、職業が見えない。職人の匂いはしないけれど、誰かの代理で買いに来たのでもなさそうだ。
「じゃ、入れて置いてもらおうかな。丈夫なやつで、適当に」
「はい! 入荷後に連絡いたしますので、連絡先を教えていただけますか」
客注はダイレクトに売り上げになるので、途端に機嫌が直るのがゲンキンである。
「使うのは母ちゃんだから、母ちゃんに取りに来させる。農家がネイルとか、笑えるよな」
農家? この人、農家なのかしら。
「お客様、農業なんですか?」
「そうそう。最近市内に直売所ができたから、若い女の子も遊びに来てね」
連絡先を残し、客は手袋類を手に階段を降りていく。
農業の人いたよ、アイザックさん。しかも女の人が商品受け取りに来るって! これってサンプル見せる案件? サイズがわからないけど、手がSサイズなら標準で揃えて良いよね?
知識を持っていれば、チャンスが大きくなる。