自分の仕事に胸を張れますか その1
翌日ひとりで来店した鉄は、美優に皮手袋を二双出させてから、階下にいると言った。普段通りのお茶を飲みに行くって雰囲気でもなくて、何かあるのかとドキドキしながら頷いた。なにせ逃げるように返った昨日の今日である。ちょっとばかり期待したくもなるってものだ。
ユニフォームのポロシャツじゃなくて、もっと気を使った服装しときたかったな。何かの時の着替え用にロッカーに置いてあるのも、伊佐治のロゴが入ってこそいないものの、色気がないことに変わりはない。
別に何か予告があるわけじゃない。ただ何となく雰囲気が違うような気がして、それは余計な期待なんだろうかと自分を戒める気分もあって、そわそわしてしまう。
入ってきた客に挨拶だけして、ロッカールームに引き上げた。売り場に人がいるのに場を外したのなんて、はじめてだ。定時を過ぎてはいるから、別に売り場放棄したわけじゃない。ただ客の切れた隙間を縫って帰るのは、美優がいつも自分で決めていたことだった。
だけど何か、それどころじゃないオトメの一大事を感じる。勝手な予感だけれど、こんな感情は滅多に訪れない。
普段なら自転車だからと、顔なんか直さずに上着を羽織っただけで店を出るのだが、鏡を覗きこんで髪を整えてリップラインを確認した。鉄が待っていると思うと、妙に気が急いてしまう。仕事だとわかっているだから、遅くなっても文句を言うはずはないのに。
店の外に出ると、美優の自転車はもう積み込まれていた。
「お茶?」
「いや、ちょっと」
進路は帰り道でなくて、不安になる。
「どこに向かってるの?」
「そんなに遠くないよ。行きゃあわかる」
口数が少なめになっている鉄の隣に座ること、三十分が一時間に感じた。もうずいぶん遠くまで来た気がする。ここで自転車ごと捨てられたら、どうやって帰っていいのかわからない。
「とうちゃーく。降りて」
車が乗り入れたのは、街道沿いのファミリーレストランの駐車場だった。まさかこんな場所まで夕食を摂りにきたのかと、思わず鉄の顔を見る。美優の家のあたりには確かに見当たらないチェーン店だが、関東一円に展開している店である。要領を得ない顔で入り口に向かって歩き出そうとすると、腕をぐっと引っ張られた。
「ごめん、メシはあと。その前にこっち来て」
駐車場の裏側の暗い路地に進む鉄は、どこに向かっているのだろう。あたりをキョロキョロと見回しながら、半歩うしろを着いて歩く。途中から急坂になっているらしく、道の先がぽっかり空いて見えた。
そして坂の頂点に達したときに鉄がこっちだと指を指した先は、住宅街の中に建設途中のマンションだ。
何? なんで工事現場なんか…… もうほとんど仕上がっていそうな建物は、灯りが消えて真っ暗になっている。擁壁に囲まれていて、全貌は見えない。
「あれさ、あれ、見えるか?」
鉄が言う。
「ん? うん、新しいマンションが建ったの?」
曖昧な返事しかできない。現場の入場口だけが明るくなっており、そこから先は施錠されていて入れないらしい。長身の鉄の顔を見上げる。何か伝えたいことがあるのか。
「あの足場、明日バラすんだ。この現場は、おしまい」
鉄の表情が、上手く読めない。言葉は事実しか伝えていないのだろうが、その後ろにある意味を知りたい。真剣な、けれども淡々としたその言葉は。
これが、てっちゃんの仕事場なのか。もしかしたら、それを私に見せたかったの?
「てっちゃんの、お仕事?」
鉄は珍しい表情を見せた。伏し目がちに笑い、美優の顔を見ない。
「うん、俺の現場。俺が作業責任者ってやつ、やったの」
早坂興業には、もっとベテランの職人が何人もいるはずだ。それなのに鉄が責任者っていうのは、社長の息子だからなのだろうか。それすらも、よくわからない。けれど擁壁から見える足場は、確かにそこにある。
「足場を見れば、腕がわかる。俺はまだまだだ。来年は一級の試験も受けられるけど、やっぱりベテランには勝てねえ。センス磨かなきゃあ、ここまでだ」
「一級って何の?」
「とび技能士。一級持ってりゃ、独立して親方ができる」
そもそもの問題であるが、親方の正確な意味を知らない。若い職人を連れたオジサンのイメージがあって、そういう人を親方だと思っていた。
「独立って、早坂興業辞めるの?」
鉄は盛大に吹き出した。
「辞めねえよ、バーカ。次期社長が辞めてどうすんだよ」
バカって言われちゃったよ。だって全然意味が繋がんないんだもん。
「ま、当然か。俺も常務と専務のどっちが偉いのか知らねえわ」
そう言いながら、鉄は美優の肩に手を置いた。
「俺はさ、ウチで請け負える仕事は全部覚えなきゃなんねえの。足場から建方まで全部の仕事把握して、鳶なら早坂って看板背負うんだ」
置かれた手にぐっと力が入った。
「ジジイは町鳶ってやつで、神社の神輿の管理やら学校のイベントやらしながら、地域の高所作業してた。親父が外に手ぇ広げて、大物件取ってくるようになった。俺はそこに、早坂の特徴ってやつを乗せなきゃなんねえ」
声に熱がこもっている。肩に乗せられた手は冬の厚手のアウターの上なのに、そこまで熱くなっている気がする。
「てっちゃん、かっこいいね」
その言葉は、ごく自然に美優の口から出た。
「すごい。てっちゃん、かっこいい。すごくかっこいい」