プロローグらしき前振り
工具店の朝は早い。七時の開店から店内には人が入り、その日現場で必要なものを調達していく。前日に受けた注文を揃え、店長の松浦は愛想の良い顔で客の雑談に応じる。九時に社長が連れてくる人間に若干の不安を抱きながら、礼の一言で客を送り出す。
「いってらっしゃいませ!またのご来店をお待ちしております!」
その工具店の屋号は『伊佐治』という。先代の社長の名をそのままに、入り婿である今の社長が受け継いだ。三つの店舗を持つ工具店で、ここ、二号店は本店よりも大きな売り上げを収めている。工業団地の真ん中という立地と、車で入りやすい店舗。伊佐治二号店は個人企業の問題を抱え、従業員に問題を持ちながらも元気である。そこに新しい従業員が入社する。そいつが本日のメインイベントかも知れない。
「相沢美優です。よろしくお願いしまーす」
頭を下げた女の子は、思い切り良く童顔だった。会社が潰れて家でゴロゴロ遊んでいる姪がいるから、使ってやってくれと社長が連れてきたのだ。四十代・五十代の男が数人いるだけの店舗だ。若い従業員は、大抵仕事を覚えたころに辞めてしまう。どちらかと言えば半ちくな人間の寄り合いのような職場で、十年選手は松浦とレジの宍倉だけだ。そんな場所に、わずか二十一の女の子なんて、勤まるのかどうか怪しい。
「松浦君、みー坊には二階の責任者になってもらってね。今まで担当、居なかったでしょ?価格のつけ方だけ教えれば、レジはやらせなくっていいから」
社長の言葉にに、美優が首を傾げて頷く。多分とても簡単な説明で、気楽にアルバイトを引き受けた証拠のように、きょとんとした顔をしている。
まずはタイムカードを打刻し、美優は店内を案内された。工具店と一口に言っても、店によって扱う系統はずいぶん違う。伊佐治は建築工具をメインにしており、産業機械云々の工具には弱い。一般家庭でも置くような庭箒やノコギリは置いてあるが、ミクロン単位の穴を開ける錐などは無いわけである。案内をしているうちに松浦の胸の仕事用携帯電話はひっきりなしに鳴り、そのたびに説明を中断する。客商売は客の都合優先である。
「さて、それでは君の職場をお見せしましょう」
「えっと、その前にトイレとロッカールームは」
ロッカールームなんてものは、存在しない。今まで男だけの職場だったので、倉庫の片隅に個人の持ち物を積んである。トイレは掃除のおばちゃんが毎日綺麗にはしているが、松浦は女子トイレの中を覗いたことはない。
「私物はカウンターの下に置いてください。着替えは……後から考えます」
階段の上のフロアは、工具じゃない。
「作業着って、これ全部そう言うんですか?服だけじゃないの?」
好きなようにフロアを一周して、美優が溜息と共にそんな言葉を吐き出した。叔父から聞いて想像したものとは、違うらしい。
「うん、これ全部君の担当。ずっと売り場に人が居なかったから、荒れ放題になっちゃってる。だから美優ちゃんのセンスで売り場を復活させて、尚且つ実績を期待してます。わからないことがあれば、聞いてください。まず、何があるのか把握してね」
全然期待していない口調で、松浦はそう告げた。若い女の子には面白くない職場だし、一ヶ月どころか一週間で辞めてしまうかも知れないと思いながら。