愛より先に、自由をください
リゼット・オルブライトには、幼い頃から決められた婚約者がいる。シリル・ヴェルネール。公爵家の嫡男であり、家柄も容姿も申し分なく、学院での成績も優秀。礼儀正しく、酒や賭博にも興味を示さず、ほかの令嬢へ不用意に近づくこともない。将来の夫として考えるなら、これ以上の相手を探すほうが難しいだろう。何よりシリルは、リゼットのことを心から大切にしていた。
誕生日を忘れたことは一度もなく、何年も前に好きだと言った花を覚えている。体調を崩せば真っ先に見舞いの品を届け、夜会では必ず最初の一曲を申し込む。困っていれば頼まれる前に手を貸し、欲しいものがあると知れば、可能な限り用意しようとする。社交界では「ヴェルネール公爵令息ほど婚約者を大切にしている男性はいない」とまで言われており、友人たちから羨ましがられることも珍しくなかった。
だからこそリゼットは、長い間、自分の抱いている不満を口にすることに罪悪感があった。浮気をするわけでも、怒鳴るわけでも、冷たく扱うわけでもない。むしろ逆で、シリルは何をするにもリゼットを優先してくれる。それなのに、彼と過ごす時間が増えるほど、胸の奥に小さな息苦しさが積もっていった。
原因は、彼の愛情があまりにも細かいところまで及ぶことだった。
「明日の午後は何か予定がある?」
学院から帰る馬車を待っていたある日、シリルはいつもの調子で尋ねてきた。リゼットが、友人たちと王都に新しくできた菓子店へ行く予定だと答えると、彼は誰と出かけるのか、何時頃に向かうのか、帰宅は何時頃になるのかまで確認した。そこまで細かくは決めていないと伝えても、シリルはしばらく考え込んでいる。
「ノエリアとティファナ、それからマリベルと一緒よ。女の子だけで出かけるのだから、そんなに心配しなくても大丈夫でしょう?」
「それなら店までは送るよ。俺は近くで時間を潰しているから、帰りも迎えに行ける。邪魔をするつもりはないし、それくらいなら構わないだろう」
本人は気を利かせているつもりなのだろう。しかしリゼットにとっては、それこそが問題だった。友人たちだけで出かけたいと言っているのに、シリルは「店の中までついていかない」ことを十分な譲歩だと思っている。近くで待たれていれば、帰る時間を気にすることになるし、予定を変えて別の店へ行こうとしても、彼に連絡しなければならない。
「護衛もいるし、帰りの馬車も用意してあるわ。たまには本当に、友人たちだけで過ごさせてちょうだい」
そう言えば、シリルは一応引き下がる。ただし、納得したというよりは、我慢したという顔をする。その表情を見るたびに、リゼットのほうが悪いことをしているような気分になるのだった。
昔から、ずっとそうだった。
幼い頃は、それほど気にならなかった。十歳の頃なら一緒に遊ぶ時間が長くても楽しかったし、学院へ通い始めた頃も、同じ馬車で帰ることを嫌だと思ったことはない。それが十五、十六と歳を重ねるにつれ、少しずつ窮屈になっていった。昼食を友人だけで食べていると、気づけばシリルが近くにいる。図書室で一人静かに本を読んでいても、何を読んでいるのかと声をかけに来る。男性の友人と話していれば、相手が幼馴染であっても自然な顔で会話の輪へ入り、いつの間にかリゼットの隣を占めている。
帰宅が予定より少し遅れた日には、ヴェルネール公爵家の馬車が迎えに来たことさえあった。リゼットの家にも護衛も使用人もいるのに、連絡が遅れただけで心配になったらしい。迎えに来たシリルは怒ってはいなかったし、責めもしなかった。ただ安堵した顔で「無事でよかった」と言った。その優しさがあるから、強く拒絶することもできなかった。
リゼットは何度も、もう少し自由にさせてほしいと伝えてきた。シリルもそのたびに反省し、数日は距離を取る。けれど、しばらくすると元へ戻ってしまう。本人には束縛をしているという自覚がなく、あくまで大切な婚約者を心配しているだけなのだから、根本から考えを変えない限り同じことの繰り返しだった。
決定的だったのは、春の終わりに開かれた王宮の夜会だった。
リゼットはそこで、幼い頃によく遊んでいた伯爵家の次男と数年ぶりに再会した。相手は地方の学院へ進んでいたため、長らく顔を合わせる機会がなく、久しぶりの再会に自然と話が弾んだ。幼い頃に二人で叱られた思い出や、昔の友人たちの近況を話しているうちに、リゼットはいつの間にか声を上げて笑っていた。
そこへ、シリルがやって来た。
「随分楽しそうだね。久しぶりに会った相手なら話も尽きないだろうけれど、そろそろ次の曲が始まる。リゼット、行こう」
言葉だけを聞けば、何もおかしくはない。青年を侮辱したわけでも、リゼットの腕を強引に掴んだわけでもなかった。ただ、シリルはごく自然に二人の会話を終わらせ、自分の隣へリゼットを戻した。相手の青年も、少し困ったように笑ってから一礼し、その場を離れていった。
シリルは何事もなかったように手を差し出した。
その手を見た瞬間、リゼットは初めて、取りたくないと思った。
夜会からの帰り道でも、シリルは先ほどの青年について気にしていた。いつからの知り合いなのか、昔はどれほど親しかったのか、今後も会う予定はあるのか。声は穏やかで、本人に問い詰めているつもりなどないのだろう。だからこそ、リゼットは窓の外へ目を向けたまま、突然、自分の将来を想像してしまった。
結婚したら、毎日これが続くのだろうか。
今でさえ、誰と出かけるのか、何時に戻るのか、誰と話していたのかを気にされている。夫婦になって同じ屋敷で暮らすようになれば、今よりさらに距離は近くなる。友人と出かけるたびに迎えに来られ、少し帰りが遅れれば心配され、男性と会話をするたびに隣へ立たれるかもしれない。
それを一生続けられるのかと考えた時、リゼットは初めて怖くなった。
シリルを嫌いなわけではなかった。むしろ好きだった。幼い頃から隣にいた人であり、困った時には誰より頼りになった。真面目で不器用で、リゼットが好きなものを細かく覚えているような優しい人でもある。その気持ち自体を疑ったことはないし、できることなら、このまま彼と穏やかに結婚したかった。
けれど、好きであることと、耐え続けられることは別だった。
数日後、リゼットはヴェルネール公爵家を訪れた。会いに来た相手はシリルではなく、その父であるヴェルネール公爵だった。
突然の相談にもかかわらず、公爵は最後まで口を挟まずに話を聞いてくれた。リゼットは、これまで何度もシリルへ自由にさせてほしいと頼んできたこと、そのたびに一時的には改善するものの、結局元へ戻ってしまうこと、そして婚約そのものを嫌がっているわけではないことまで、できるだけ正直に伝えた。
「私はシリルを嫌いになったわけではありません。でも、このまま結婚しても、いつか本当に嫌いになってしまう気がするんです。それが怖くて」
公爵はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。その表情には驚きよりも、やはり来たかという諦めに近いものが浮かんでいた。
「息子のことは、私も気になっていた。あれは昔から一度大切だと思ったものに執着するところがある。君に対しては、それが特に強い。何度か注意したこともあるが、本人は守っているだけだと思っているから、聞き入れなかった」
それを聞いて、リゼットは少しだけ救われた気がした。自分が贅沢を言っているだけではなかったのだと、初めて他人から認めてもらえたからだった。
公爵はしばらく考えた末、このまま結婚させるわけにはいかないと判断した。ただし、すぐに婚約を完全に解消する必要もないという。シリルには、一度本当にリゼットを失ったと思わせる。そのうえで、自分が何をしてきたのかを考えさせる時間を作るべきだと提案した。
そうして決まったのが、表向きの婚約破棄だった。
正式な解消手続きは行わず、両家の当主間では婚約関係を保留にしておく。ただしシリルにはその事実を伏せ、リゼットとの面会も手紙のやり取りも数か月禁止する。彼が何も変わらなければ、その時こそ本当に婚約を解消する。それはリゼットにとっても覚悟のいる決断だったが、このまま何もせず結婚するよりはずっとよかった。
そして数日後、リゼットはシリルを呼び出した。
「婚約を破棄してください」
シリルはすぐには答えなかった。冗談だと思ったのかもしれない。けれどリゼットが真剣な顔を崩さないのを見て、ようやく事態を理解したらしい。顔色が目に見えて変わり、理由を尋ねてきた。
「あなたが嫌いになったわけではないの。でも、あなたと一緒にいると、何をするにもあなたのことを先に考えるようになってしまったわ。誰と話していいのか、どこへ行っていいのか、何時までに帰れば心配されないのか。私はもう、それに疲れてしまったの」
シリルは、束縛しているつもりなどないと反論した。大切だから心配していただけだと、これまでと同じ言葉を口にした。
その瞬間、リゼットは静かに首を振った。
「あなたはいつもそう言うわ。心配だから、大切だから、愛しているから。でも私は、その言葉があるたびに我慢してきたの。私は愛されたい。でも、その前に一人の人間として自由でいたい」
シリルは何も言えなくなった。
「愛より先に、自由をください」
それだけ告げて、リゼットは部屋を出た。
その日から、二人は会わなくなった。
シリルは当然、父へ婚約破棄を止めてほしいと訴えた。今度こそ本当に直す、リゼットを説得してくれと何度も頼んだらしい。しかし公爵は取り合わず、これまで何度同じことを言ったのかと尋ねただけだった。その問いに、シリルは答えられなかったという。
最初の一か月は、ほとんど変化がなかった。共通の友人からリゼットの様子を聞き出そうとし、父親に止められた。リゼットがどこかの夜会へ出席すると知れば自分も行こうとし、それも止められた。そこで公爵から、「今やろうとしていることこそ、彼女が嫌がっていたことだ」と指摘され、ようやく少しずつ考えるようになった。
二か月目に入る頃には、友人たちからも遠慮なく過去の行動を指摘された。女友達との外出にまでついていこうとしていたこと、男性と話しているだけで必ず近くへ来ていたこと、帰宅時間を把握していないと落ち着かないのは普通ではないこと。シリルはこれまで、自分がリゼットを守っているのだと思っていたが、他人の目から見れば、ただ行動を制限していただけなのだと初めて理解した。
そこでようやく、自分が本当に恐れていたものにも気づき始めた。
リゼットが危険な目に遭うことだけではない。自分の知らないところで楽しんでいること、自分以外の誰かと親しく話していること、自分が必要とされない時間を持っていること。そのすべてが不安だったのだ。だから心配という言葉を使って、自分の手の届く場所へ置こうとしていた。
その事実を認めるまでに、ずいぶん時間がかかった。
一方のリゼットは、久しぶりに自由な時間を楽しんでいた。友人たちだけで王都へ出かけ、気になる店があれば予定を変えて立ち寄った。図書館で一人過ごす日もあれば、夜会で昔の友人と長く話すこともあった。帰宅時間を誰かに報告する必要もなく、誰と会ったのかを説明する必要もない。それだけのことが、驚くほど気楽だった。
ただ、数か月が過ぎる頃には、ふとした瞬間にシリルを思い出すことも増えていった。新しい菓子店で彼が好みそうな焼き菓子を見つけた時、面白い本を読み終えた時、昔の学院生活を友人と話した時。以前なら真っ先に伝えていた相手がいないことを、少し寂しく感じることがあった。
それでも、リゼットから会いに行くことはしなかった。
今戻れば、何も変わらない。そのことだけは分かっていた。
半年が過ぎた頃、王宮で大きな夜会が開かれた。両家とも招待されていたため、リゼットは久しぶりにシリルと顔を合わせることになった。
会場へ入る前から、少しだけ緊張していた。半年間離れていたとはいえ、人の性格がそう簡単に変わるとは思っていない。以前と同じように隣へ来て、誰と話していたのかと聞かれるかもしれない。そんな想像をしながら会場を見渡していると、少し離れた場所にシリルの姿を見つけた。
向こうもすぐにリゼットへ気づいた。
けれど、駆け寄っては来なかった。
しばらくして近くを通った時に足を止め、穏やかに挨拶をしただけだった。
「久しぶりだね。元気そうでよかった」
それだけ言って、シリルは自分から離れていった。
リゼットは、しばらくその背中を見送ってしまった。
その後も、以前とはまるで違った。リゼットが男性と話していても来ない。友人たちと別の部屋へ移動しても追ってこない。誰と踊ったのかを尋ねることもなければ、帰宅時間を気にする様子もなかった。
あまりにも何もないので、逆にリゼットのほうが気になってしまった。
夜会も半ばを過ぎた頃、リゼットは自分からシリルのところへ向かった。彼は少し驚いたようだったが、以前のように距離を詰めてくることはなく、その場で静かに待っている。
「さっき、私がずっとほかの男性と話していたのは見えていたでしょう?」
「見えていたよ。少し気にはなったけれど、それと君の会話を邪魔することは別だと分かったから」
あまりにも自然に返されて、リゼットは言葉を失った。
以前のシリルなら、絶対に言わなかっただろう。
彼は続けて、自分が今まで間違っていたことを認めた。守っているつもりでいたが、実際には自分が不安にならないためにリゼットを縛っていただけだったこと。そのことに気づいたのは、リゼットがいなくなってからだったという。
謝罪を聞きながら、リゼットは半年ぶりに、彼の顔をまっすぐ見た。
以前と同じ人なのに、どこか違って見えた。
後日、両家を交えた話し合いが開かれた。そこで初めて、シリルは婚約が正式には解消されていなかったことを知らされた。驚いたのは当然だったが、以前の彼なら、その事実を知った瞬間に婚約継続を求めていただろう。
けれど今は違った。
「婚約が残っていたとしても、君が戻る義務はないと思っている。続けるかどうかは、リゼットが決めてほしい」
その言葉に、公爵も何も口を挟まなかった。
リゼットはしばらく考えた。
半年間の自由は心地よかった。シリルがいなくても、自分は楽しく過ごせた。それでも、完全に彼を忘れることはできなかったし、もう一度だけなら向き合ってみてもいいと思えた。
「すぐに結婚するつもりはないわ。それでもいいなら、もう一度婚約者から始めましょう」
シリルは少し目を見開いたあと、静かに頷いた。
「分かった。今度こそよろしく頼む」
それから二人の婚約生活は、以前とは少し違う形で始まった。
リゼットにはリゼットの時間があり、シリルにはシリルの時間がある。一緒に過ごしたい日は一緒にいればいいし、それぞれ別の予定があるなら、それを尊重すればいい。シリルは時々昔の癖が出て、リゼットの予定を細かく聞きそうになることもあったが、そのたびに途中で気づいて自分から引き下がるようになった。
ある日、友人から随分と二人の雰囲気が変わったと言われたリゼットは、少し離れた場所で知人たちと話しているシリルを見た。彼はこちらに気づいても近寄っては来ず、ただ軽く手を上げただけだった。
リゼットも、小さく手を振り返す。
愛情が薄くなったわけではない。
むしろ、相手を愛することと、相手を自分のそばへ縛りつけることが別なのだと分かったからこそ、以前よりずっと穏やかに彼の愛を受け取れるようになっていた。




