感情の欠片① ー短編集ならぬ断片集ー
胸の前で両手を絡めるように組み合わせた。息を軽く吸い込んだ。すると、視界が少しだけ明るくぼんやりとした。私は少しだけ顎を引くと、目を瞑る。
やんわりとした陽の光が、閉じた瞼を通して私の眼球に降り注ぐ。…それすらも、どこかこの状況を神秘的なもののように感じさせる舞台装置に過ぎなかった。
私は息を吐くように祈りの言葉を唱え始めた。
…この声が、祈りが、雲の上におわす女神様に届くことを願って。
ふうっと吐き出された側から、息が形になっていく。
ぱきん、ぱきん…と、涼やかな氷の音と共に蕾のついた蔓のようなものが伸びていく。私が息を吐くたびに、それは段々と伸びて伸びて、ゆるく螺旋を描きながら空へ空へと伸びていく。
私の体を取り囲むように伸びたそれは一定の長さに到達すると、一気に砕ける。
ピキンッと、硬くも軽やかな音が響いた。粉々に砕けた氷の蕾と蔓が、まるで花が綻ぶかのようにゆっくりと私に降り注ぐ。
私は目を開くと、ゆるりと上を見上げた。陽の光を浴びてきらきらとした氷の粒と共に、女神様のお声が降りてくる。
私はそれを、一語一句聞き漏らすまいと耳を澄ませた。氷のさざめく音の奥の方から、微かだが確かに、女神様のお声が聞こえた。
『機を逃してはなりませんよ。』
私は組んでいた手を下ろすと、ほうっと息を吐いた。
私は立ち上がった。
まだ微かに宙を舞っている氷の残滓が、ステンドグラスを通して入ってきた陽の光を淡く跳ね返していた。そして、ひらひらと氷が降り落ちたカーペットの上にはもう、氷は跡形もなく溶け失せていた。
優しい陽光が降り注ぐ寂れた教会を、私は後にした。もう、迷う必要などなかった。
ー・ー・ー
ざぶんと、全身を打ちつける衝撃と共に鼓膜が大きく揺さぶられた。体が重い。
みるみるうちに体が沈んでいく。暗い暗い水の底へ。
本能的に水面に手を伸ばした。
それは届くはずもなく、水面はただ絶えずゆらゆらと明るくゆらめいていた。
水の中特有の音が聞こえる。しんとしているのに、どこか恐ろしい。ああ、ここが死地なのかと、心の中で何処か諦めた。
私はゆっくりと瞼を下した。これから死ぬのなら、せめて醜く足掻くまい。これは、私なりの精一杯のプライドだった。
敵も味方も戦場に出れば皆等しく死ぬ。皆分かっていた。けれど皆、自分の死だけはどこかふんわりとしか理解していなかった。だから目の前に逃れられない大きな死がやってくると、皆一様に足掻くのだ。それが美しいと、足掻くからこそ生きているのだと、言うものも居たけれど、私はそうは思えなかった。
逃げられないと分かりきっている最後の瞬間まで足掻いて足掻いて足掻いて、結局死ぬだなんてそんなの、そんなの…
ゴボッと、喉から空気が逃げ出し始めた。思わず伸ばした手のひらの隙間から、踊るように空気がすり抜けていく。丸くなった空気が水面へ水面へと近づくのに合わせるように、私の体は下へ下へと落ちていった。
…苦しい。
どうしようもなく息苦しかった。物理的には当たり前だけれど、精神的にも息苦しかった。多分、自分の足で立つようになってから、ずっと。
そうだ、息苦しかったんだ。私の中で何かが腑に落ちた。
苦しくて苦しくて、どこにも落ち着ける場所がないと逃げ出して。逃げて逃げて逃げた先に辿り着いた戦場でもまた、言いようのない息苦しさに襲われている。
…私もまた、足掻きながら生きていたのだと実感した。
足掻かずに生きている人間なんていない。多かれ少なかれ皆息苦しさを抱えて生きている。そしてそれを少しでも減らそうと足掻くのが、人生。
ああ、今際の際になってようやく分かるだなんて。そっか、そうだったんだ…
視界がだんだんとぼやけ始める。本能でもうすぐ死に至ることを理解する。
生理的な涙が込み上げた。そしてその中に紛れるように溶かし込まれた、淡く優しい、心からの涙。
それらはすぐさま水に溶けていく。けれど私は不思議と、悲しい気持ちは込み上げてこなかった。
どこかふわふわとした達成感と、これからも続く誰への祈りを心に湛えていた。
全身の強張りが、一気に緩む。
…ありがとう。
ー・ー・ー
どくん、どくんと、耳の中が心臓の音でうるさかった。
ひんやりと冷えた指先と、それに反するように熱くなった体。そして脳みそだけは、いつものように澄ました顔をしていた。
いける、大丈夫と、心の中で何度も唱えた。しかし、ばくばくと跳ねる心臓の裏側には、体から溢れんばかりの期待と高揚が舞台に喰らいつくように見つめていた。
もう一度、あの場所へ行けるのだ。私がかつて居たあの場所へ。明るくてひんやりとしているのに世界で一番熱いあの場所へ。
唾をごくりと飲んだ。丁寧でいてキツく結い上げられた髪が、私を少しだけ冷静に、非日常にする。
さあ、もうすぐだ。
私は舞台袖から、あの場所を覗き見た。舞台の真ん中だけ、ぽつんと明るく照らされていた。孤独ながらも、誰よりも誰かを味方にできるあのスポットライト。私はその光を食い入るように見つめていた。
引き摺り下ろされて伽藍堂みたいに過ごしてきた日々が一瞬にして走馬灯のように駆け巡る。そしてそれと同時に、光の中で心の底から笑う私を。
今の私には、また空っぽな自分に戻るかもしれないと言う不安よりも、またあの場所に立てるのがどうしようもなく嬉しかった。
あの光の中でしか、私は私であるとどうしても思えないのだ。あの光に包まれた場所にいる私が指を少し揺らすたびに、私を見ている人も揺れ動いた時の感情をもう一度味わいたい。
できるなもう一度、もう一度だけでもいいから…誰か、私を見てほしい。
私は息を大きく吐き出すと短く息を吸った。そして、そっと一歩をを踏み出した。
さあいこう。…もう一度、光の中へ。
ー・ー・ー
気がついたら、泣いていた。
蹲って、這いつくばって、ただとめどなく溢れてくる涙をそのままに垂れ流していた。泣き声を必死に押し殺して、押し殺した声の代わりにただ地面に爪を立てて引っ掻いた。
獣みたいな呻き声が喉から漏れ出る。嗚咽と共に吐き気も込み上げる。
悲しさも怒りも通り越して、そこには何もなかった。私の中に今までなみなみと堪え続けられた言葉と気持ちの渦が、今更言葉じゃない何かになってこぼれ落ちていた。
思いが溶け出した言葉の波は、私の体にこびりついた何かも同時に、洗い流した。
…ああ、明るい。
私がどんなに泣こうとも吐こうとも、世界は今も明るくあり続けていた。そしてまた日は沈んで夜が来て、暫くしたらまた、昼が来る。
私は仰向けに寝転がった。まだ目元から涙が溢れていたが、先ほどのような勢いがない。細い筋のようにさらさらと流れた温かい水が、私の頬を伝って、床に落ちた。
泣き疲れた目元が虚に揺れた。泣き終わった後に訪れる、心から言葉と感情が全て洗い流されて空っぽになった感じ。けれど虚しさは無い。
全て無くなったはずなのに、元から私のものでは無かったもの。けれど確かに、私の中にいたそれら。…ほんの少しだけ、ほんの少しだけの悲しさを覚えた。
…ああ、このまま泥のように眠れたら、どんなに良いだろう。




