墨月と夜廻 1
珠姫が目覚めると、墨染邸は瓦屋根も庭もすっかり白く覆われていた。昨日から強弱を繰り返して降っていた雪が今朝になって勢いを増したようだった。
さっそく皆が行き来する場所の雪かきをし、朝の早い一慶たち年嵩の者たちとも協力し合って仕事の通り道を確保した。凍える手指はいっそ熱を感じるほどになったが、汗を掻いた身体が冷えて、震えながら暖と朝餉を求めて厨に行くと、真弓から井戸が使えなくなっていることを知らされた。
「今朝のどか雪で故障しちまったみたいでね。修理が終わるまで、古い井戸を使っておくれ」
「わかりました」
答えながら、珠姫は内心で首を傾げていた。井戸が故障するということがよくわからなかったからだ。
壊れたのが滑車や桶であれば交換すればいい。それで済まないというのなら水が濁ったり凍ったりでもしているのだろうか。別の井戸を使わなければならないのはどういう状況なのだろう。
するとちょうど一緒に朝餉を食べていた桃子が「実際に見た方がわかりやすいよ」と言ったので、真弓に事情を説明して井戸を見に行く許可を得た。案内役は桃子が買って出てくれた。
「このお邸って、ご当主様や巫術師様たちが結界を張って悪いものが入ってこられないようにしたり、竈の火が起こしやすいように細工をしたり、なんだっけ、五行? が著しく偏らないようにしたり、たくさん巫術を使ってるんだけど、井戸もその一つでね」
厨にほど近い井戸には、様子を確かめる使用人たちが集まっていた。珠姫と桃子もそこに混じる。
「井戸に使われているのは、水を綺麗にして、凍ったり枯れたりしないようにする巫術なんだって」
桃子が言うのを聞いて、長く仕えている者たちも口々に言い始めた。
「何代か前のご当主様が作ってくださってずっと受け継がれているものなんだ」
「流行病の原因が水だったときに、このお邸の人間だけはみんな変わらずぴんぴんしてたって話だ」
「墨月のご主人様方は本当に慈悲深い方たちばかりだよ」
墨月一族の当主の慈悲深さは、この邸で秋冬を過ごした珠姫も実感していたことだった。立場が違うので直接顔を見ることはないが、彼らの言い様から想像するに、たとえ使用人がうっかり姿を現しても気付かないふりをするか、迷っているのだと思って道を教えてくれるような人物なのだろう。
腐敗した世襲制が続いていると聞く宮廷巫術師だが、その一席を占めている墨月一族は恐らくましな部類なのだ。結果的に快適な生活のためでも、仕える者たちのために巫術を使っているのだから。
(壊れたと言っていたけれど、どういう巫術なんだろう)
興味を持った珠姫は石積みに手をついて、屋根を見上げ、井底を覗き込んだ。
(井戸に沈んでいる石が巫術の片割れか。だったらもう半分は地上にあるはず……ああ、滑車だ)
青銅製の滑車に付与した巫術で、井戸の中を制御、操作する作りになっているようだ。よく目を凝らしてみると、滑車に刻まれた模様に傷が付いている。あの傷を消せばまた元通り仕えるようになるだろう。
「万が一毒を投げ込まれても平気らしいけど、本当かなあ」
(本当だよ)
そういう効果がある巫術だから、と一緒になって井戸を覗き込んでいる桃子に心の中で答える。
「やっぱり濁ってるよなあ。水の量も少ないし。巫術をかけ直してもらうしかないな」
「修理には時間がかかるかもしれないって真弓さんが言ってました。ご当主様は朝早くから従者の方々を連れて参内なさったみたいで、巫術師様たちはみんなお忙しいみたいだって」
「そうなの? 困ったわねえ。もう一つの井戸は遠くて、年寄りには堪えるわ」
「こればっかりは仕方がないさ。巫術が使えたら修理もできるが、そうじゃないんだから」
そんなことを言い合いながら使用人たちは諦めをつけて仕事へ向かっていく。
桃子に「私たちも行こう」と促された珠姫はその後に続きながら、仕事の合間を縫って井戸に近付くことができないかを考えていた。
(昨夜の巫術師のせいでしばらく動けないから、せめて)
あの巫術師や通報を受けただろう検非違使から逃れるため、当分の間は身を潜める必要がある。けれど何もしないのは落ち着かない。墨月一族が管理している井戸に珠姫が関わる必要はないとわかっていたが、不便に感じる者たちがいるのに知らないふりはしたくなかった。
そうして仕事を始めて、庭の掃除をし、廊下を拭いて周りながら、あの巫術師の男のことを考えた。
(……強かったな……本当に、強かった……いったいどこの誰だったんだろう……)
話くらいは聞いてやってもよかったかもしれない。
そう考えて、いやいや、と首を振った。
(どうせ四竜の力を濫用する大馬鹿者だ、うん、そうに違いない)
宮廷巫術師のみならずこの世の巫術師は四竜の力を借りている自覚がない、私利私欲のために力を使う者たちばかりだ。いくら強くても、いや強いからこそ、権威主義的な巫術師である可能性が高かった。安易に関わっていいものではない。
そうこうするうちに巳の正刻(十時)になった。
厨では昼餉の支度が始まって、正午になる前に仕事を終わらそうと皆がそれぞれ精を出し、出入りの商人をはじめとした訪問者が現れるなどして使用人たちは少しばかり忙しくなる。当主やお付きの者たちが出仕するときはさらに慌ただしくなるが、今日はすでに邸にいない。
井戸の巫術に手を加えるとしたらいまだった。
「桶の水を変えてきます」
拭き掃除をする同僚たちの「ありがとう」という声を背に受け、桶を抱えてその場を離れる。
汚れた水を捨てて新しい水を汲むのは代用の井戸ではなく、使えなくなっているいつもの井戸だ。
(よし、誰もいない)
素早く井戸に近付いて、もう一度滑車と井底を検める。やはり滑車の傷が原因らしいと思われたので、石積みに登って、刻まれている巫術の構成を確認した。
(この文様、鎮宅符に紐付けてあるのか。なるほど……)
家内安全、災難厄除に七十二種の護符を用いる鎮宅の巫術がある。その護符の紋様を取り入れて井戸の巫術を強力にすると同時に、水回りを清く保つことで鎮宅の効果も高めているようだ。よく考えて組み立てられていると感心する。
(……いけない、じっくり見ている場合じゃなかった。ええと[四竜の大前に 恐み恐みも白す])
宣詞を唱えて巫術を宿した指を、滑車の傷に滑らせる。
([補い給え])
欠けたものを埋めよと念じながら傷を撫でてしばらく。ぱっと黒い光が閃いた。
光が消えたので手を離すと、狙い通りに傷が埋まっていた。傷を埋める素材を滑車自身から補ってみたのだが、成功したようだ。井戸を使ってみると澄んだ水が現れた。
施したのはあくまで応急処置だから、後ほど墨月一族の巫術師がしっかり修繕することだろう。そのうち誰が手直ししたのかという話になるだろうが、ただの女中だと思われている珠姫が見出されることはない。危害を加えるような工作をしたわけではないからすぐうやむやになって終わるはずだ。
(自己満足でいい。それが善でも偽善でもできることをやるだけだ)
汲み上げたその水を桶に満たして、掃除に戻る。
――そんな珠姫の様子を窺っていた者がいたなどとは思いもせずに。




