罪と夜明けの記憶 1
珠姫は五歳で母を亡くした。
母がいなくなっただけで空っぽになったような家に、離れて暮らしていた父がやってきた。そうして珠姫は娘二人の小さな家と畑、雛から育てた鶏に別れを告げる間もなく、山奥の大きなお屋敷に連れていかれて、新しい母と姉だという人に引き合わされた。
「汚らしい」
新しい母が、紅を塗った唇でそう吐き捨てた。
「妹にするなら妖の方が『これ』よりずっとましよ」
新しい姉が、怖気を震うように珊瑚玉の髪飾りをつけた頭を大きく振った。
「約束通り、これは下女にしますからね」
そう言われた父は黙って項垂れていた。
亡き母が聞かせてくれた物語の姫宮のようなきらきらしい着物を着た『新しい家族』を前に、珠姫は夢を見ているような、優しかった母の死すらも幻のような気がして、ずっと上の空だった。そう感じられてしまうほど一方的に向けられる悪意は現実感に乏しかった。
この新しい母と姉が父の本当の家族で、母と自分は妾とその子ども。
妾腹の娘を我が子として迎えるなど以ての外、せいぜい下女だと、実父と継母の間で取り決められていたことを、しばらくしてから知った。
こうして珠姫は『楓屋敷』と呼ばれる広いお屋敷の下女になった。
着物は捨てられる襤褸を継いだもの。履物はすぐに足に合わなくなったので裸足で過ごした。髪を梳くことや身体を洗うことは滅多にできなかった。自分のことよりも水汲みを、家畜の世話を、畑仕事を、洗濯を、仕事をしなければ食べるものを与えてもらえなかったからだった。
「泣いて許してもらえると思ったら大間違いだよ!」
我知らず涙が溢れてしまう珠姫に、下女たちは怒鳴り声を浴びせかけた。
「卑しい女から生まれたお前を、奥様やあたしたちが躾けてやってるんだ」
「感謝もせずに泣くなんて。お前みたいなのを恩知らずというんだよ」
「気に入らないならいますぐ屋敷から出ておいき。お前なんかでも妖どもにはご馳走だろうさ」
いい考えだとでも言うように女たちは声をあげて笑う。そしてまだ泣いている珠姫を「鬱陶しい」と打ち、蹴って、動かなくなったのをせせら笑って去っていった。
(母さん。母さん。母さん)
何度となく呼んだところで、死んだ者から答えが返るはずがない。
(母さん……母さん……)
泣いていても身体は冷えていくばかり。手足の汚れも傷も何一つ変わらず、飢えや渇きが消えることもない。
どうすればいいかわからなかったけれど、このまま動かずにいても何も変わらないことはわかっていたから、重い身体を動かして外に這い出た。
空はいつの間にか夜の色に染まっていて、真っ白な月は知らない人の顔をしている。
屋敷を取り囲む森は果てしない闇に変わり、珠姫一人を飲み込んだとしても素知らぬ顔でそこに在り続けるのだろうと思わせた。
「…………?」
その闇の中に、不思議な赤い光が浮かんでいた。
篝火のような、けれど炎ではない透き通った赤い輝きが、呼吸をするようにゆうらり、ゆらりと揺れている。
(……妖?)
妖――魔物。災い。疫病。呪い。穢れ。あるいは天恵。祝福。守護者。様々な呼び名や姿形を持つ『人でないもの』。何の力も持たない珠姫のような子どもが決して近付いてはいけない存在だ。
入り込んできたのなら人を呼ばなければならない。けれど同時に、誰に伝えたところで嘘つきだと笑われたり殴られたりするんだろうとも思った。
(……でも、妖とは違う気がする……)
あの不思議な光のことを少しでも知りたくて、珠姫はふらふらと森の中へと踏み入った。
月や星の光のない闇の中で、自分の居場所すら曖昧だったけれど、怖いとは思わなかった。夜の鳥や虫たちは珠姫を愚図だとものろまだとも言わず、不躾な歩みを咎めることもない。草木は言わずもがな、邪魔もしないし道を示してくれもしない。そのことに少しだけほっとする。
地表に波打つ木の根を踏み越えた、そのときだった。
ぱきん、と薄氷を踏み抜くような音が響き渡った刹那、小さな光の群れが一斉に飛び立ったかと思うと、みるみる景色が変わり始めた。
行く先も見えない木立は、切り開かれるように小さな広場に。
深い闇は薄れ、差し込む月の光が露に濡れた緑や夜咲きの野花に降り注ぐ。
水の匂いのする風が吹いて小さな光を運んできた。
(蛍……)
ふうわりふわりと光を放つ羽虫を目で追ったその先に、男の子が立っていた。
珠姫より二つ三つ年上だろうか。賢そうな目と綺麗な顔をしている。背筋がしゃんとしていて、手足がすらりと長く、大人のように裾を絞った朱色の狩衣を着ていた。
「……誰?」
こんなところに人がいるとは思わなかったのは向こうも同じだったらしい。棒立ちになる珠姫に問いを放ち、答えがないと知ると眉を下げた。「困ったなあ」とでも言い出しそうな表情はとても妖には見えない。だからさくさくと草を踏んでこちらに近付いても、視線を合わせるように屈み込まれても、珠姫は逃げ出さずに留まっていた。
「こんばんは」
「…………」
「初めて見る顔だね。どこの子だい? 結界を超えてきたということは、君も巫術を学んでいるのかな」
笑顔も話し方も大人びていて、珠姫はいくらか気後れして小さな声で言った。
「……巫術?」
「そう、神様の力をお借りする術。――こんな風に」
微笑んだ彼は両手指をきゅっと複雑な形に組み合わせる。次の瞬間、ぴんと立った人差し指の先にぽっと音を立てて小さな火が灯った。組んでいた両手を外すと蝋燭が燃え尽きるように火が消える。
珠姫は息をするのも忘れてそれに魅入っていた。
「すごい……!」
「ありがとう。でも、君にもできるでしょう?」
「ううん、できない。その火、巫術っていうの?」
首を振ると、彼はまじまじと珠姫を見た。
「君は、蘇芳の子じゃないの?」
蘇芳というのが父の氏であり、その親類縁者を含めた一族の名で、楓屋敷とそれを取り囲む森を含めた一帯を治める者を指す言葉だということは、周りの大人たちが話すのを聞いて知っていた。
けれど決して蘇芳を名乗るなと、新しい母を奥様、姉をお嬢様と呼ぶように言われたときに厳命されていた。いと尊き御方から賜った氏を薄汚い輩にやるわけにはいかないと、継母は妖鬼のような恐ろしい顔をして、珠姫の指の腹を切り、何事かを記した紙に血判させた。とてつもなく重い約束をしたということは幼い珠姫でもなんとなくわかっている。
「父さんは蘇芳だけれど、私は名乗ってはいけないって」
「誰が」と尋ねられて「奥様だよ」と答えると、彼はため息をついた。
「……あの人たちは、本当にどうしようもない……」
「奥様は私の母さんじゃないから、あの、だから、仕方がないと思う」
珠姫の言い分を聞いた彼は何故か辛そうな笑みを浮かべて「優しいね」と言った。その目は汚れっぱなしの髪や着物、殴られた頬に注がれたけれど、何も言わずに再び両手を組み合わせた。
「[四竜の大前に 恐み恐みも白す]」
くるくると複雑な形に組まれていく手の動きに目が離せない。彼の手の内側に生まれた光が、土を捏ねるようにみるみる赤い色を帯びていくのだ。
(さっき見たあの光と同じだ)
光をまとった両の手をかざされた途端、全身が温かいものに包まれた。
身体の芯からじわじわと温められていくような心地よさにほうっと息を吐いてすぐ、ひりついていた頬の痛みが引いていることに気付く。蹴られた腹部も、倒れたときにひどく打ち付けた肩や背中も、それ以前の古い傷や痣の鈍い痛みまで消えていく。
「痛くない……」
「よかった、ちゃんと癒せたみたいだね」
「これも巫術? 巫術って、怪我も治せるの?」
「そうだよ。でも、それだけじゃない。風を起こしたり、薬を作ったり、まじないで悪いものを追い払ったり、神様の力を借りて色々なことができるのが巫術なんだ」
彼は誇らしげに言うと、懐から取り出した手巾で珠姫の頬を拭ってくれる。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「旭だよ。蘇芳旭」
「私は珠姫。旭、ありがとう。それから旭に力を貸してくれた神様も」
旭は大きく目を見張ると「珠姫の気持ちは神様に伝わったと思うよ」と優しい顔で笑ってくれた。珠姫も顔を綻ばせた。それは母が亡くなってから初めて浮かべた笑みだった。




