贖え、命をもって 4
巡り合わせ、というものがある。
――運命、さだめ、天命あるいは天意。神秘がもたらす約束に似た意志。
それに恵まれなかったのが大姫なのだろう、と玄夜は言った。
「四竜を祀る宮寺で願をかけた。もともと男に疑心があった。家族や身近な者に不信感を抱いていた。一人でいるときに妖に遭遇した。自覚なく妖を行使した。……不幸な偶然が積み重なってしまったわけだ」
朽ちる妖を見ていた珠姫は疑問を覚えて眉をひそめた。
「大姫が妖を使った? 妖に唆されたのではなく?」
「彼女が行ったのは素人ゆえにぞんざいではあるが正式な作法だ。――供物を捧げ、一意専心で祈り、願いを成就させる」
玄夜が深く息を吐く。憐れむように。
「大姫はそうして妖の力を借りて事を成した。妖の『次は』という問いは主の新たな命令を求めてのことだ。しかし大姫は拒絶し、これが主従関係の放棄と見做されて『次はお前だ』と言うようになったんだろう。関係解消の際に使役されていたものが主を食うことは珍しくない。あれらはそうやって力を強めていく」
人ならざるものは長く生きれば生きるほど、言うなれば、生き物を食えば食うほどに力を増して格が高くなる。そうして人の言葉を使ったり、狡猾になって獲物を陥れたりするようになるのだ。
この世にはそうした高位の妖を使役する巫術師もいるが、主従の契約が破棄されたときは使役者の命に関わることにもなる、非常に危険な術だった。
「貴族の姫にそこまでできるものですか?」
「才能があったんだろう。池田氏には巫女か巫術師の血が入っているのかもしれない」
人智を超えたものの力を行使するそれは、神官や巫術師の領域だ。
巫術師一族は血族婚が多いが、力の弱い分家筋の者は貴族や有力な豪族と縁を結ぶことも多々あった。そうして巫術師一族は政の中枢に食い込み、一族と縁付いた外の者たちは巫術の才を持つ後継の可能性を得る。
そうした貴族同士が婚姻関係を結ぶと、強い性質を持つ者が生まれることもあるだろう。それに当てはまったのが池田家の大姫だったのだ。
(だから誰が悪いというわけでもない……)
どちらにしても、巡り合わせが悪かった。玄夜の言う通りだった。
「玄夜様。お待たせしました」
戻ってきた椋人は、墨月一族の巫術師を伴ってきていた。
これから妖の痕跡が残る邸内を清めて回り、結界を張り直すのだ。
(顔を隠さないと)
人が集まる気配を感じた珠姫が顔を隠せそうなものを探していると、目の前に檜扇が差し出された。
「もし何者か尋ねられたら私の協力者だと言いなさい」
「……ありがとうございます」
巫術師一族の長にもなると檜扇も携帯するものなのか、抜かりない人だ、などと思いながら玄夜の扇を受け取った。
珠姫の身分では縁のないものだが、借りた檜扇は、黒の絹張りに銀の箔で雪の結晶を描いた見事な品で、顔を隠すことを忘れてまじまじと見入る。
(綺麗……)
くす、と忍び笑う気配を感じて、珠姫は素早く目を走らせた。幼い仕草に見えたのか、不慣れな様子がおかしかったのか。しかし玄夜は涼しげな横顔のままで、むっとした珠姫は檜扇の影で思いきり不機嫌顔をしてやった。
「大姫や式部少輔の様子は?」
「護衛についていた者によると、呪い返しなどを受けた様子もなく、健やかにお過ごしだとのことです。後日御礼を申し上げたいと仰っていたとか」
「問題ないなら何より。では、後は任せる」
(巫術師としても一族の当主としても優秀なのに、性格に難ありって)
ちらともこちらを見ない男の背中を檜扇で突き回してやりたい。
「かしこまりました。ご指示の通りに進めて参ります」
彼らの邪魔をしたいわけではないので襲い来る衝動をやり過ごそうと、何気なく妖の亡骸の方を見た。
消えゆく妖の残滓が、糸を縒るように、小さな獣の髑髏を形作る。
そう気付いたとき、髑髏の顎はすでに珠姫の目前にあった。
「――――ッ!」
傷を負うならせめて腕に、と左手を振り上げようとした瞬間、強い力で突き飛ばされた。
そして、夜を裂いたしろがねの光。
間を置かずに放たれた巫術が青白い炎で妖を焼き尽くす。
珠姫を押し除て太刀を切り上げた玄夜の険しい顔が、巫術の光に照らされていた。
(あ――)
――『あのとき』と同じだ。
ぞわり、と冷たい過去が這い上がる。
あのとき、妖に襲われ、庇われて――かけがえのないものを失った。
(あ、あ、ぁ、あ)
受け身が取れず、冷たい泥濘に倒れ込む。恐怖に凍りついた身体は上手く動いてくれず、焦りで足を滑らせながら、這うようにして玄夜に駆け寄った。
「珠、」
「怪我は!?」
言葉を被せて飛びつく珠姫に、玄夜が目を丸くした。しかしいまの珠姫に珍しい表情だと気付く余裕はない。
「怪我! ああ、私、気付かなくて。早く治療しないと!」
「珠。珠、落ち着け」
玄夜が珠姫の両腕を押さえ込むように掴む。
「怪我はない。かすり傷一つ負っていない。だから治療は必要ない。わかるか?」
珠姫の顔を覗き込みながら玄夜が一つ一つ区切るように言う。それでも負傷を隠しているのではないかと落ち着きなく目を動かす珠姫に「大丈夫だ」と玄夜は根気強く言い聞かせた。
「擦り傷一つない。本当だ。隠してもいない」
「でも」
「むしろ君の方が心配だ。強く突き飛ばしてすまなかった。怪我はないか?」
珠姫の返答を待つ間に、ようやく理解が追いつき始める。とにかく返事をしなければ、とまだ浅い呼吸をしながらなんとか頷いた。
「はい、私は……大丈夫です……」
「大丈夫、という顔色じゃないな」と玄夜は苦笑した。
「邸に戻ろう。君に倒れられると困る」
「あの、でも、私……」
「他の者に悪いと思うなら、調子を戻して、他の仕事をやり遂げなさい」
「……玄夜様の言う通りです」
広い敷地を清めるなら人手が必要だろう、荒らしてしまった邸の片付けもしなければ、と事後処理を気にする珠姫にそう言ったのは、その指揮を取る椋人だ。
「もうわかったと思いますが」
「……はい」
真面目な椋人のため息としかめ面に、叱責を覚悟する。
「玄夜様の守り役が務まる者は、そう多くありません。何せ人使いが荒い、仕事は多い。内容は雑事に予定調整に妖祓にと多岐に渡り過ぎていて、さらにご本人は一癖も二癖もあるくせものでいらっしゃる」
「…………え……」
戸惑う珠姫と「おい」と笑う玄夜の声が重なる。
「一族当主にずいぶんな言い草じゃないか」
「本当のことですから」と椋人は従者の態度とは思えないほど素っ気ない。
「そもそも、妖祓いに自らお出ましになる当主は玄夜様くらいのものですよ。こうした案件は一族の者に任せるものでしょう。それをしないから珠が取り乱すようなことになるんです」
予想外の会話が繰り広げられて、ただ目を瞬かせていた珠姫に「ですから」と椋人はわずかに目元を和らげた。頑なだったものを解いた眼差しには、純粋な優しさといたわりがあった。
「ここは私たちに任せて、あなたは玄夜様のご指示に従ってください。……頼りにしています」
「あ……」
そうだ、私はもう無力だった『あのとき』の私じゃない。
じわ、と胸に沁みる熱が、過去に沈み込もうとしていた珠姫の目を覚まさせる。
「……ありがとう、ございます……」
思いがけない信頼は、自分でも驚くくらいに嬉しかった。冷えた頬が熱を持っていくのがわかる。照れて言葉が出てこないなんて子どもみたいだと思うのに、どう振る舞えばいいかわからなくて、黙って俯いた。
「珠」
玄夜が呼び、珠姫を手招く。
どうしてそれだけのことに胸が震えるのだろう。
揺れ動く心に触れるように胸元を撫で下ろした珠姫は、意識を改めるように大きく息を吐くと、椋人に一礼して、ついてくると信じて疑わない背中を追いかけた。
(もし――もしも)
玄夜と珠姫を乗せた馬車は、墨染邸を目指して走り出す。
「よかったな」
泥で汚れた着物を隠すように珠姫の肩に羽織ものをかけながら、玄夜が言った。
情のこもった眼差し。
揶揄も挑発もない微笑みは、まるで春の雨だ。ぽつりぽつりと心を打たれるのを感じながら、珠姫は熱を帯び始めた目を伏せる。
「……はい」
もし、もしも、何もかもを打ち明けたら。
――私が、蘇芳一族分家の娘で、次期当主を死に至らしめたのだと知ったら、あなたはどんな目をしてこの罪人を見るのだろう?
決していまのままではいられない、それを確かに知る手は、無意識に玄夜に強く掴まれた腕に爪を立てていた。




