巫術師の娘 1
夏の夕暮れの風が、青い稲穂と土の香りを運んでくる。
昼頃から立ち上がっていた雲は大きく育ち、重い影となって山々に覆い被さっていた。太陽は山と雲の向こう側にあり、長く伸びる影に合わせて薄闇が迫りつつあった。立秋を過ぎてから日が落ちるのが早くなっている。
――夕闇。黄昏。薄暮。逢魔が時。魔と呼ばれるものは一様に闇を好む。
陽が沈み、闇が深くなればなるほど、この世ならざるものの領域に近付いていく。
(急がなければ)
珠姫は打刀の在処を確かめるように鞘を一撫でして歩みを速めた。
長く伸びた黒髪をすっきりと一つに結え、少年と見紛う背丈に合った着物と袴に身を包み、足を保護する脚半に、馴染んだ草履を履いて、村民が踏み固めた野道を行く。手に梓の小弓、腰には矢筒と打刀、そして符や薬、野外での活動に役立つ道具の入った腰袋を帯びている。
「おお、珠姫じゃないか!」
そこに、どどっどどっ、と貴重な馬を潰す勢いで村長の息子が手綱をさばいて現れた。取り巻きたちを振り切ってきたらしく、遠くに彼を呼びながら走ってくる者たちの姿が見える。
「どこに行くんだ? あの賤家に帰るのか? 俺たちはこれから蛍狩りだ」
(妖が出たと聞いているだろうに、危機感のないことだ)
魔が現れたときは一人にならない、日が落ちてから出歩かないのが常識だ。それをこうも軽々と無視できるのは、決して自分が被害に遭うことはないと思い込んでいるからなのだろう。
「せっかくだ、お前も連れていってやろう。ほら、早く馬に乗れ」
うきうきと伸ばされる手を一歩下がって躱して「夏らしい遊びですね」とどうでもいい感想で会話を放棄する。
「なんだ、つれないな。俺はお前を好いているし、十七歳の嫁ぎ遅れでも気にしないと言っているだろう。いい加減意地を張るのを止めろ。お前がうんと言うだけで、広い家も上等な着物も手に入るし、飢えることもないんだぞ?」
自分勝手な言い分をさも当然のように語る人間を好きになるわけがないだろう、と伝えてやるほどの義理もない。そう思って立ち去ろうとしたときだった。
「村の者にありがたがられる巫術師とはいえ、所詮は女。男のように宮廷巫術師になることも官位を授かることもない。そんな卑しい辻術師のままでいたいのか?」
最後の一言だけは許せなかった。
珠姫は足を止め、振り向き、馬上の男を射抜くように見つめた。
「――それが、私の望みです」
『巫術師』は『巫術』を使う者をいう。一般的には官職を得る名家や一族出の術師たちをそう呼び、それ以外の市井の術師は『辻術師』と呼び分けられている。
狭義の巫術師は貴人に相当するため、平民とは交わらない。
よって人々が頼りにするのは、藪だったり法外な見返りを要求したり、ときには巫術が使えないいかさま師が名乗っていることもある辻術師だった。
だが、人々のために、と巫術と巫術師のあるべき形を体現しようと尽くす者もいる。
少なくとも珠姫はそうありたいと思っていた。
(何も知らないやつに貴賎をつけられたくない)
妾にしてやるという傲慢な誘いを善行を成しているかのように言う。珠姫の怒りを理解するどころか不愉快そうに舌打ちしてくる。どうすればそこまで自分に都合のいいことばかり言えるのか、まったく理解できなかった。
「ああ、きちんと妻問いをしてほしいのか! だったら素直にそう言えばいいものを」
「急いでいるので失礼します。夜の獣や妖にお気をつけて」
不愉快な会話をぶった斬った珠姫は、背を向けながら、素早く右の人差し指と中指を揃えて立てた。
(――[四竜の大前に 恐み恐みも白す])
「……ん!?」
次の瞬間、男はきょろきょろと忙しなく周囲を見回し始めた。
「珠姫? おい、珠姫! どこへ行った!?」
目眩しの巫術は、黄昏時とあってよく効いた。彼には珠姫が突然姿を消したように見えたことだろう。
大人しく出てこいだの俺を怒らせるななどと勝手なことを言っている男を堂々と目の前で捨て置いて、珠姫はさっさと目的の山に入った。
(私みたいな女が珍しいにしても、いい加減鬱陶しいな……)
人の出入りが少ない田舎だと余所者は必ず注目を浴びる。特に若者は労働力や結婚相手と見られるが、仕事柄男装する珠姫はどうしても悪目立ちしてしまう。土地や財産を持つ人間に一度目をつけられるとしつこいということを、珠姫はこの二、三年で学んでいた。だが言いなりになる理由はなく、手を出してくればやり返す、生活に支障が出たときはこの土地を離れるだけだ、 などと考えて、いまのところは適当に相手をしてやっている。
我ながらずいぶん強気だと考えて、珠姫は口の端に笑みを浮かべた。
(……子どもの頃とは大違いだな……)
そうして軽く吐いた息で笑みを消し、辺りに視線を巡らせる。
近隣の村落の者が恵みを得るために出入りする森は、奥に行けば行くほど、植物と獣の気配が濃い。
それを闇の方へ、臆さずに進んでいった。静かな心で目を凝らし、耳を傾け、刃を磨くように意識を研ぎ澄ましていく。
「――……!」
そうして一瞬で腐臭を嗅ぎ取り、軽く後ろに跳んで、降ってきた巨体を躱した。
巨大な妖だった。強烈な臭気を放つ姿は、黒い狼に似ている。しかし牛ほどに大きく、骨格が見てわかるほどに飢えて痩せていた。何より特徴的なのは半分焼け爛れて眼球を失った顔だ。牙を剥き出しにすると、血と唾液と腐肉がぼたぼたと音を立てて滴り落ちる。生きながら腐っているのだ。
――あの日の傷だ。
旭が身を挺して放った巫術が、憎い仇をいまなお焼いている。
そうと知って、ああ、とため息が溢れた。
「やっとお前に復讐できる――」
かけがえのない友を殺した妖に再び巡り合うこのときを、ずっと、ずっと待っていた。
宿敵はずいぶん弱っていた。あのとき負った傷を完治させるだけの力はすでに持たないのだろう。近くの里の者を襲ったが逃げられ、それ以降人を食うことができず、野の獣を狩ってかろうじて命を繋いできたというところか。
震えるほどの寒気と興奮、鮮やかな怒りと憎悪が長い眠りから目を覚まして、珠姫の全身を震わせる。
「……無様だね」
薄く笑った呟きを解したのか妖が吠えた。
酷薄な笑みを浮かべながら珠姫は素早く矢を放つ。
「[祓え給え]」
第一射は避けられた。横薙ぐ足を避けながら再び射る。
「[清め給え]」
第二射は足を掠めた。痛みを叫ぶ妖の尾がのたうって木々にぶつかり、はらはらと木の葉が降ってくる。
「[守り給え]」
第三射は妖ではなく落ちる木の葉を射抜いて幹に突き立った。押し潰さんと飛び込んできた巨体を後ろに跳躍して避け、珠姫は四本目の矢をつがえる。
それは目前の妖ではなく、自らの足元を穿った。
「[青竜 白竜 赤竜 黒竜]!」
最初から弓矢を直接射掛けるつもりはなかった。弱っているとはいえ、人を食う上級の妖だ。宣詞と手印だけでなく道具も利用して強力な巫術を叩き込むべきだった。
――この世に跡形も残さない。
「[安鎮を得んことを 慎みて四竜に願い奉る]!」
四本の矢を繋いだ結界が発動し、妖を縛る。
珠姫は両手で印を結び、妖祓いの巫術を放った。
「[滅せよ]」
白い炎が上がった。
山を揺らさんばかりの絶叫が迸る。妖を捕らえた結界は周囲の動植物を燃やさないためのものでもあった。そうして全力で放った浄祓の炎は七転八倒の苦しみだろう。
(でも、旭はもっと痛かった)
珠姫はじっと妖を見つめていた。顔が焼け、骨となり、それが塵となってとうとう力尽きて消失する最後の瞬間まで。
そして復讐の炎が音もなく燃え尽きた闇の中で、光と熱にひりつく目を閉じ、少し泣いた。




