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今日を生きる僕から、明日を生きる君へ

掲載日:2026/02/05

五月一日(木曜日)


 僕の部屋には制服が二着ある。学ランとセーラー服の二つ。

 僕は学ランを取って着替える。時刻は午前七時。家から中学校まではさほど遠くないが、あまりゆっくりしすぎていると遅刻しかねない。

 風呂場の洗面器に立って鏡を見る。男の僕だ。中性的で痩せ気味、背も低くはないが高身長とは言えない。男の僕としては、もう少し筋肉をつけてもいいんじゃないかと思っているが、それは明日の僕が嫌がる。

 歯を磨いて、朝食を食べ、飼っているカタツムリたちにキャベツの切れ端を与えて家を出る。

「行ってきます」

 返事はない。家族とは訳あって離れて暮らしている。この市営住宅の一室には、僕と鳴きも動きもしないカタツムリ二匹だけが住んでいる。

 登校中、近所の野良猫を眺めていると聞き覚えのある声がする。

「あさひー」

 自分の名前を呼ぶ方向を向くと、知った顔がこちらに歩きながら手を振っていた。髪はツンツンで男らしい顔つき、ガタイもよくて中学生なのに一七〇後半もある身長は、男の僕からすれば羨ましい存在だ。

「龍成、おはよー」

 こっちも手を振って答える。

「何見てたんだ?」

「猫」

 僕は見ていた白猫を指す。白猫は人慣れしているのか、僕たちが目の前で会話をしているというのに、気にする様子もなく目を閉じている。

「おお、かわいい。いや、結構凛々しいな、オスか」

「メスじゃない?」

 猫を触ろうか触るまいか葛藤している龍成を止め、登校を再開する。

「何でわかるんだ?」

「耳だよ。ほら、去勢手術した猫って、耳に切れ込みいれるでしょ? あれ、オスメスで左右が違うの。一般的には右がオスで左がメスだったかな」

 隣を歩く親友は、ほ~んと感心したように頷いていた。

「今日は部活来るのか?」

 唐突な龍成の質問に心臓がキュッととなる。

「行くつもり」

「そうか」

 平然を装って答えるも、龍成に通じているのかわからない。僕たちはそれきり会話といった会話もないまま学校に到着した。


  五月二日(金曜日)


 ボクの部屋には制服が二着ある。学ランとセーラー服の二つ。

 ボクはセーラー服を取って着替える。時刻は午前七時。家から中学校まではさほど遠くないが、あまりゆっくりしすぎていると遅刻しかねない。

 風呂場の洗面器に立って鏡を見る。女のボクだ。少し釣り目で髪はショートカット、可愛い系というよりかはボーイッシュな見た目。女のボクとしては、もう少し髪を伸ばしてオシャレしてみたいが、それは明日のボクが許さない。

 歯を磨いて軽くメイクをし、少し凝った朝食を食べ、飼っているカタツムリたちにキャベツの切れ端を与えてかわいいなぁと眺めていると、いつの間にか七時五十分。

「やっば!」

 ボクは急いで家を出る。


 授業が終わり、部活に行く準備をする。鞄と、運動着とバッシュが一緒に入った袋を持ち、教室を出ようとしたところで進行方向から明るい声が飛んでくる。

「あさひ先輩」

 肩までかかった明るい髪を揺らして嬉しそうな顔でこちらに手を振ってくる。

「上級生の階に来たら、また怒られるよ。ともり」

 一年生が付けている黄色のスカーフをいじりながら、ともりは申し訳なさそうに言う。

「今日って部活来るんですか?」

「行くよ。ほら」

 ボクは肩にかけていた袋を見せる。ともりは安心したようにほっと息を吐く。その所作一つ一つが小動物のようにかわいくて、少しの間目を奪われる。女のボクとしてはこういう女の子に憧れを持たないでもない。

「一緒にいこっか」

「はいっ」

教室を出るとまた別の声がかかる。

「櫛谷さん、今ちょっといいかな?」

 ボクの苗字を呼んだ声でなんとなく察しがついてしまった。幸いと言っていいのか、声の主はまだボクの後ろにいるともりの存在には気づいていないらしい。ともりを押して教室にいれ、声の方を見る。

「ちかちゃん。どうしたんですか?」

 古武千果子(こたけちかこ)。若い保健の先生で生徒の間ではちかちゃんという愛称で通っている。

「病院から、今日は授業が終わったらすぐ来て欲しいって。車で送るから付いてきて」

 ああ、やっぱり。ボクは、わかりましたとだけ言ってちかちゃんに付いていく。後ろでこっちを見ていたともりに、ごめんとジェスチャーを送ってその場を後にする。


  五月三日(土曜日)


 性同一性転換障害というものを知っているだろうか。世界でも珍しい病気の一つで、僕を含めてもその症例はたったの三人。先天性の病気で、その原因は解明できておらず、治るものなのかもわかっていない。

 性同一性転換障害とは、男の体と女の体が日ごとに入れ替わる病気で、今日男なら、明日は女、明後日は男と日付が変わるごとに性別が変わるといった具合だ。

 だから僕は夜更かしができない。日付が変わる十二時になると、気を失うように眠り、起きたら性別が変わっている。病院で一度検査、もとい研究のために裸で寝ているところを撮影した映像を見たことがある。あったものがなくなり、骨格も少し丸くなって、男の身体から女の身体に変化していく、僕からしてみれば何とも言えないものが映っていた。

実際、女の身体になった時は、男の時より骨盤が少し広がり、体も筋肉量が減少して、柔軟性が増している。胸も少しだけ膨らんでいる。ほんの少しだけ。また、性格にも影響している様で、自覚はないが口調も少し変わっているらしい。

 僕には精巣と卵巣の二つが同時に体内に存在する。もちろん、精通はしているし、生理も来ている。男の時は、精巣だけ稼働し卵巣は休眠状態に入る。その逆も然り。性別の変化は、僕の身体のホルモンバランスに依存しているらしい。

 男性ホルモンが多いときは男、女性ホルモンが多いときは女。僕の場合、その値がほとんど変わらないからか、基本一日おきに性別が変わる。「基本」というのは、ストレスや風邪なんかの生活習慣病でホルモンバランスが乱れて、時々女から男の身体にならない時があるからだ。

 そして、ここで浮かぶ疑問が一つ。精巣と卵巣が同じ体内にあるということは、精子と卵子を同じく作れるということだ。つまり、単為生殖が可能なのでは? と思って、一度担当の先生に訊いてみたのだが、染色体の数がどうの、ゲノムがどうの、僕には難しい単語をたくさん出してきて説明された。まあ、結論として、単為生殖はできないそうだ。僕にはまだセイヨウタンポポのような生き方はできないらしい。

 そんなこんなで生きてきて、もう十四年。五月に入ったというのに、まだ肌寒い日が続く今日この頃。朝の寒気に震えながら僕が訪れたのはこの市で一番でかい総合病院。昨日は生理前の臨時検査だったが、今日は違う。

 向かうのは精神病棟。その一室の扉をノックして開ける。

「……あら、あさひ? おかえりなさい(・・・・・・・)」

 僕を出迎えたのは、ベッドに横たわり本を読んでいる女性。年齢は三十半ばだが、頬や腕、病院服から見える肌は病的なまでに痩せこけていて老人のようにも見える。

「ただいま(・・・・)、お母さん」

 僕はいつものように答える。部屋へ入り、窓際に置いている花瓶の水を部屋に備え付けてある洗面器で変える。

「今日は、学校どうだった?」

「……」

 母の中じゃきっと、今日は平日の放課後なんだろう。

「お母さん、ちょっと借りるよ」

 母が寝ているベッドの横に置いてある椅子に座り、本を見る。母が読んでいたのは日記。開いていたページは去年の夏終盤の平日。

 父が出ていく数日前の日付だ。


 僕は母の胎内から出て助産師に取り上げられた時、男だった。出産前の検査でも男と判断されていたし、戸籍も男として登録された。

 問題は次の日だった。看護師が、赤ん坊だった僕のおしめを変えようとした時、付いていたはずのモノがなくなっていたのだ。当時、病院中はパニックになったらしい。性別を間違えた? 赤ちゃんの取り間違い? まさか誘拐? 母も父もパニックになり、警察まで呼ぶ羽目になったそうだ。

 結果として、僕は性同一性転換障害ということが判明した。当時、既に一つだけ前例があったことから、二人目の罹患者として登録された。

 両親は僕を男として育てた。父と母は男の子を欲しがっていたし、実際、男の子が生まれた。女の僕は誰も求めていなかった。

 家には男児向けの服やおもちゃしかなく、女児向けの物は買い与えられなかった。父と母の中で僕は男でしかなく、女の僕は無いもの扱いだった。

 男の時の「僕」と女の時の「ボク」という一人称も、両親に強制させられた。今となってはこの呼び方にも慣れた。それに、世の中には『ボクっ娘』という属性があると龍成が教えてくれた。属性というのはよくわからないが、要は一人称が「ボク」の女性がいるらしい。そう聞くと、女で「ボク」というのも周りから聞いていて、違和感がないんじゃないかと思った。

 龍成とは、小学校に上がった時に出会った。クラスのみんなが僕の体質を理由にいじめてきたとき、真っ先にかばってくれる曲がったことが嫌いな今時珍しい正義漢だ。

 僕が昔住んでいた家と龍成の家は近かったから、放課後よく遊びに行っていた。龍成の妹のともりも一緒になって遊んでいた。特に、当時の「ボク」は好きな物を買ってもらうことも、したいこともできなかったから、ともりの存在はありがたかった。

 ともりの洋服を貸してもらってファッションショーをしたり、龍成を巻き込んで一緒におままごとをしたりすることで、「ボク」は両親から受けていた抑圧を発散していた。それでも、学校ではプールの授業に参加できなかったり、他にも身体のことで気を使われたりと、もやっとすることは度々あった。

 中学に上がり、学ランが与えられた。その時、どうしてもセーラー服が着たかった「ボク」は、両親にセーラー服も買って欲しいと頼んだ。

 僕は初めて父に殴られた。今まで、「ボク」に男であることを強要して来たり、欲しい物を買ってくれないことはあっても、暴力に走ることはなかった。

 今でも、頬の痛みと怒りで血走った父の目は忘れられない。それ以来、父とは口を利かなくなった。母は一応僕を庇ってくれてはいたが、意見としては父に賛成していた。僕に、選択の余地はなかった。

 次の日、僕は女の身体のままだった。医者には過度のストレスでホルモンバランスが乱れて、一時的に性転換が起こらなかったと説明してくれたが、両親は僕を責めた。そして数日間、僕は女の身体のままだった。その後、身体は今まで通り性転換するようになったが、時々ストレスや風邪が原因で女の身体が続くことがあった。男から女になる性転換が起こらなくならないのは、女性の時の方がストレスや風邪などによるホルモンバランスの影響を受けやすいからだ。と医者は言っていた。

 女の身体で、学ランを着ることにはどうしても不快感を覚え、学校にも行きづらくなり、家庭も崩壊寸前。それが中学一年の夏の終わりまで続いた時、僕の身体に変化が起きる。

 初潮が来た。

 医者の言葉を聞いた両親は、僕に気持ちの悪い生き物を見るような目を向けた。

 僕は逃げた。病院から。両親から。「ボク」を縛り付けるモノから。落ちる夕日の中を、無我夢中で走った。ただ、あの空間にいたくなかった。いれば、両親から何を言われていたかわからない。

 もう、走れない。限界だと思った時、僕は龍成の家の前にいた。当てもなく走ったはずなのに、自然と足が向いていたのか、僕はチャイムを押す。

 出てきたのは、ともりだった。僕は咄嗟に抱き着いた。その日は女の身体だったから、男が年下の女の子に抱き着くというかっこ悪いことはせずに済んだ。その時は、ただ温もりが欲しかった。「ボク」という存在を認めてくれる、温かい居場所が。

 ともりは、あまり積極的に行動するような性格ではないが、何も聞かず優しく僕を抱き返してくれる。そのまま十数分、龍成が部活から帰ってくるまで僕はともりの胸の中でずっと泣いていた。

 龍成が帰って、ようやく家の中に入れてもらい、事のあらましを離した後、僕は泣き疲れて眠ってしまった。そして、起きた時にはすべてが終わっていた。

 龍成が、今日は僕を家に泊めたいと、僕がここに来た理由も含めて龍成の両親に説明する。承諾した龍成父が、僕の両親に心配しないよう一報入れたところ、父が僕を取り返すため、龍成の家の窓を割り侵入。龍成父に通報され、現行犯逮捕。といった流れだったそうだ。

 その後、僕の証言もあり、父は器物破損と住居侵入で執行猶予三年の懲役五年の刑が下った。僕にも接触禁止命令が出され、父は家から出ていった。

 母は、元々強い人ではなかった。父がそんなことをする人だとは思っておらず、また僕のこともあって、積もりに積もった心労が祟って、心を壊した。

 今、母の中では『現実逃避に綴っていた都合のいいことしか書いていない日記』の日々が繰り返し続けられている。

 母にとって僕は息子で、それは今日も明日も変わらない。だから僕は男の日にしか母に会いに行けない。


 日記をひとしきり読んで、母に今日の学校での出来事を話す。もちろん、今日は学校なんてないし、今は朝だ。だから噓をつく。嘘をつく時は、本当のことを半分混ぜて言うと真実味が増すと聞いたことがある。僕は母と会っていなかった数日間の出来事を織り交ぜて話す。

 母は嬉しそうに僕の話を聞き、楽しそうに相槌を打ってくれる。

 部活の話に移ると、母は僕の髪を撫でてきた。

「あさひ。髪、長くなってきたし、そろそろ切った方がいいんじゃないかしら。バスケの時も邪魔になるし、前髪が目にかかって目が悪くなってしまうわ。そうだ、今度お母さんが切ってあげるわね。男の子なんだし、髪はもっと短い方がいいわ」

 僕は、男子バスケ部と女子バスケ部の両方に所属している。病院や身体のこともあって、なかなか参加できてはいないが、体を動かすのが好きで両方の顧問に頼み込んで入れてもらった。

 僕の髪を撫でる母の手を両手で握って、僕の膝の上に持ってくる。

「じゃあ、明日にでもお願いしようかな」

 僕は適当に返事をする。こんな小さな約束、母は明日になったら忘れている。髪を切る約束をしたのも、これが初めてじゃない。

 僕がさっきまで寒い外にいたせいか、母が布団の中にいたせいか、母の手がとても温かく感じられた。

 僕は母の手を放し、帰る準備をする。母には毎週土曜か日曜に十五分程度会いに来ている。医者にはおすすめされなかったが、僕は母の笑顔が見たくて毎週通っている。

「あら、どこに行くの?」

「部屋で勉強してくる。もうすぐテストなんだ」

 テストがあるのは本当。再来週あたりには、二年生に上がって初めてのテスト発表があるのだ。今まで、成績上位をキープしている僕としては、今からでも勉強を始めておきたい。

「そう。じゃあ、お父さんが帰ってきて、夕ご飯ができた頃、また呼ぶわね」

「……ありがとう」

 僕は、病室を出る。若干のうしろめたさを背中に感じながら。


 あの話の続きだが、父が捕まって母が入院した後、しばらく西迫(龍成とともりの姓)家に居候していた僕は突然訪ねてきた市の職員さんの提案で市営住宅に一人暮らしすることになった。

父の親戚にも、母の親戚にも、僕を引き取りたいというものが出なかったため、僕の身体のこともあって、目の届きやすいところに住んで欲しい。とのことだった。僕自身、西迫家にこれ以上厄介になるのは流石に気が引けたので、提案を了承した。

 市営住宅に引っ越した時、一緒に新品のセーラー服も貰った。頼んだわけではないのだが、事情を聞いた市役所側で用意してくれたようだった。

 それ以来、男の時は学ランを、女の時はセーラー服を着て学校に行くようになった。その日の僕の着たい制服で登校できることで、学校に行ける日が増え、龍成やともり以外にも何人か友達ができた。周りにはやはり奇異の目で見られることも多かったが、今のご時世だ。野次を飛ばされるわけでも、直接何かされるわけでもない。

 小学校じゃ僕の体質のことは当たり前だったし、中学に上がってからもすぐに僕の身体のことは全員の知るところとなった。異物や珍獣を見るような目には慣れている。

 僕が嫌なのは、僕を僕らしくいさせてくれない鎖。僕を押さえつけ、自由を奪う悪意。それがなければ、僕はよかった。


  五月四日(日曜日)


 今日は、朝から龍成とともりを家に呼んで勉強会を開く。

「早すぎじゃね?」

 龍成の愚痴が早速飛んでくる。ボクの家に来て、まだ教科書も参考書も鞄から出していないのに。

「それは、自分の学年末テストの結果を見てから言ってもらえるかな」

「ぐッ……」

 胸を押さえて(うずくま)る龍成。

「あの、私もですか? 学年違うし、テストだってこれが初めてですし」

「この間、南先生に基礎練五セットプラスされてたでしょ」

「うっ……」

 胸を押さえて蹲るともり。この兄妹、すごく似ている。ちなみに、南先生は一年で英語を教えている女教師で女バスの顧問。不定期に行われるテストで十点満点中三点以下を取ると、部員だけを対象に基礎練をプラスされる理不尽を押し付けてくる。でも、そのおかげか何度かこの中学の女バスを全国に連れて行っているせいで、誰も文句を言えない状態になっているのだ。

 寝室の円卓を囲んで座る。

「じゃ、誰もこの勉強会に反対しないみたいだから、始めようか」

「……おう」

「……はい」

 龍成とともりのやる気のない返事が聞こえるが、無視する。

「各自問題集をやって、わからないところがあったらボクに訊いて。ちゃんとわかるようにヒント出すから」

「ヒントだけかよ」

「文句言わない。あ、くれぐれも答えは見ないようにね。ちゃんと目を光らせてるから、チラ見しただけでもわかるからね」

 龍成に釘を刺す。前回の学年末でテスト二日前になって真剣にカンニングの仕方を考えていたことをボクは忘れていない。結局、一夜漬け戦法で乗り切っていたようだが、赤点ぎりぎりで男バスの顧問にぐちぐち言われていた。

 それに、一夜漬けというのもよくない。体に悪いし、単に身になっていないからだ。

 この二人は、勉強になると途端に集中できなくなる。バスケの時は集中できてるんだけどなぁ。と、口の中で愚痴を零す。そして、二人とも渋々問題集を開いて勉強を始める。


「あさひ、この問題……」

「あ、それね。それは教科書の四十三ページに書いてる公式使って証明できるよ」

「おお、これか。サンキュー」


「あさひ先輩、ここの英文なんですけど……」

「ここは、このページとこのページの例文で使われてる文法が混ざってるから分かりづらくなってるけど、一つ一つ分解していけばちゃんとわかるよ」

「あ、ほんとだ。ありがとうございます」


 数十分後。


「あさひぃ、ここの答え教えてくれぇ。わからん」

「教えないってさっき言ったよ。そこ、前の問題の応用だから、頑張って」

「ぐぇ~」


「あさひセンパァイ。ここ、ここがわかんないですぅ」

「この単語は、『加える』って意味で、こっちは『間違った』って意味だから、ここの前置詞を加味して考えてみて」

「はいぃ……」

「待て、それほぼ答えじゃないか?」

「英語は半分以上暗記科目だからね。短い単語を一回一回思い出すよりも、覚えなおした方が頭に入りやすいんだよ」

「兄さん、僻みですか? 自分だけヒントしかもらえなかった僻みですか?」

「あ? 答え教えてもらってる分際で随分でかい顔するようになったじゃないか」

「二人とも、落ち着いて。互いに言ってること結構ダサいよ」


 取っ組み合いになりそうなところを静止して、休憩を取る。勉強は長時間続けるよりも、数十分机に向かって数分休憩、というのを繰り返した方がはるかに効率がいい。それに、二人とも集中力はすでに限界を迎えていた。背は曲がり、目のハイライトが消えて、虚ろな表情になってしまっている。

 ボクは、昨日病院の帰りに買い込んだお菓子とジュースを開ける。

「「おおぉ~」」

 溶けだした体と集中力を回復させるため、二人はボクの持ってきたジュースに飛びつく。ごくごくと喉に流し込んでいくと、目に活力が戻り、背中も真っ直ぐに伸びる。

 プハァ——。と、

「「あぁぁ~。生き返る~」」

 伸びていた背中は再び曲がり、二人は机に突っ伏する。やっぱり似ている、この二人。

「十分だけね。それまでは休憩しようか」


 そういえば、まだ説明していないことがあった。

 中学生一人で暮らしていくのは、市としても不安とのことなので、定期的に市役所の生活支援課の職員さんが様子を見に来る。頻度は週に二度、月曜日と金曜日の夕方。いくつかの作り置きの総菜を作って、部屋の掃除もしてくれる。

 家賃は全額市が負担してくれているし、携帯代や通信費も払ってくれている。それに、毎月生活費として十万円ほど貰える。その十万円は、家に来てくれる職員さんと一緒に買い物に行った時の生活必需品や消耗品に使われ、残りは本や運動靴、化粧水やメイク道具、服や散髪代と、ボクの娯楽費などに当てられる。と言っても、生活必需品なんてたかが知れているし、化粧水やメイク道具も、そこまで高いものを使っているわけじゃない。服も靴も本もそんなにたくさんは持っていない。ゲームは龍成の家でできるし、のめり込むほど好きってわけでもない。

つまり、貰った十万円は毎月少しずつ余っていくわけで、今ボクの口座には、十八万ほどが入っている。


 使ってないお金は、こうやってみんなと過ごすときの飲食代やもしものためにとって置いている。

「そろそろ十分経ったよ。勉強、再開しようか」

「「うぇ~い」」

 二人から、やる気のない返事が聞こえるが、ちゃんと机に向かってくれていることに感心する。二人とも、気乗りはしないがしないといけないことを理解してくれているようだ。


 それから九時間、昼食や休憩を挟みながら夕方まで勉強した。

 最後、二人は魂が抜け落ち、真っ白な灰のような状態で帰っていった。ボクも、休みの日にぶっ続けで九時間も勉強したのは初めてだったから、少し疲れた。

 後半になると、二人ともボクに頼らず問題を解けるようになっていたし、今回の中間は大丈夫だろう。


  五月五日(月曜日)


「失礼します。櫛谷さんいますか?」

 昼過ぎ、五限の数学の授業中。突然、ちかちゃんが僕のクラス……いや、僕を訪ねてきた。

 クラス全員、数学を教えていた年配の教師も含めて、僕を見る。

 僕は席を立って、ちかちゃんの方に歩いていく。

「どうしたんですか?」

「今から、病院に行くから準備して」

 ちかちゃんがここまで慌てているのは珍しい。そこまで緊急事態なんだろうか。

 僕は言われた通り、手早く帰りの支度をして、ちかちゃんの後に着いていく。


 病院に着いて、主治医の先生の下まで案内される。今回は、ちかちゃんも部屋まで付いてきた。いつもは僕を送った後、すぐに学校に戻っていくのに。

「すまないね。授業中だったろうに、無理やり来させてしまって」

 いつもの診察室で、待っていた先生が禿げた頭をかいて、申し訳なさそうに言う。

「いえ、それは大丈夫なんですけど、今日呼ばれた理由って何ですか? 別に検査の日でもないですよね。何かあったんですか?」

 先生は、僕の質問に少し言い淀み、ゆっくり答える。

「アメリカの、イヴリン・スミス。覚えてるかい?」

「……? はい」

 イヴリン。僕より二つほど年上の、世界で初めての性同一性転換障害の罹患者。イヴリンは、僕と違って女性として生を受けている。去年の冬一度、日本であったことがあるが、病気にかかっているとは思えないほど、明るく活発で、生き生きとしていた。

「ここでは、彼女と呼ばせてもらおう。彼女が先ほど亡くなったと、アメリカのカリフォルニア州にある病院から連絡があった」

「え?」

「今から一時間ほど前だ。アメリカのカリフォルニア州の時間で、夜八時頃か。自室で、倒れているところを発見されてね。病院に緊急搬送されたが、間に合わなかったそうだ」

 頭がまとまらないうちにどんどん説明が進んでいく。

「待ってください。え? 何て? 亡くなった? 何で? どうして? だって、だって、イヴリンは……」

 イヴリンが死んだ? そんな突拍子もないこと、冗談だとしても趣味が悪すぎる。でも、先生の顔はいたって真剣だ。だからきっと、これは冗談でも何でもなくて、事実なんだろう。

 想像もしていなかった。だって、最後に別れる時、彼女は元気で、笑顔だった。互いに困難があるだろうが、頑張っていこうと。当時、精神的に不安定だった僕を励ましてくれた彼女が、死んだ?

 突如眩暈に襲われて、椅子からずり落ちそうになるところを、ちかちゃんに後ろから支えられる。

「気持ちはわかるよ、突然のことだ。まだ心の整理も済んでいないだろうが、これは君にとっても重要なことだ」

「僕にとっても?」

 先生は机に置いていたファイルから一枚の紙を取り出し、僕に渡す。

「彼女の死因は、突然の心停止。原因はまだ分かっていないが、我々は、かねてよりあった一つの不安が現実になってしまったと、考えている。今、イヴリンの両親の同意の下、彼女の身体を解剖し、原因を探っているところだ」

「不安って何ですか?」

「その紙を見て」

 言われた通り、視線を紙に落とすと、そこには図形や表や数字が大量に書かれた資料のようなものだった。

「あのこれは?」

「ここ一年の君の心電図と心拍数をまとめたものだ。問題は、男性の時と、女性の時で、そこに変化が生まれていること」

 普段、勉強を頑張っているとはいえ、専門的なことになってくると、やはり頭が付いていかなくなる。なるべく先生の話を理解しようと、僕は黙って聞き続ける。

「男性の時よりも女性の時の方が心拍数が多く、女性の時よりも男性の時の方が心電図の振れ幅が大きい。まあ、微々たる差だがね。だが、その差が、今回の事件の真相だと我々、日本とアメリカの合同研究チームは考えている」

「……僕らの病気が原因?」

 段々と、先生の言いたいことがわかってくる。そして、僕の呼ばれた理由も、なんとなくわかってしまった。

「差はごく僅かだ。しかし、それが同じ人間の中で、頻発しているとなると、話は違う。君たちは、日付が変わる時間に性別も変わる。その時に心臓の鼓動も、それぞれの身体に合った動きに変化する。骨格自体、性別に会った形に変わる。その変化による負荷が、身体の中に蓄積されていった。負荷というものは、一日二日でものでもないし、無限に溜められるわけでもない。溜まった負荷は、決壊し、身体を壊す」

「それが、イヴリンが死んだ原因だってことですか?」

「消去法だよ。それ以外に、彼女の死に不審な点は見つからなかった。我々だってバカではないんだ。性転換よる身体の負荷は計算していた。だが、これはあまりにも早すぎる。完全に想定外だった」

 先生は頭を下げる。

「申し訳ない。なにぶん新種の病気だ。どうしても対処が後手に回ってしまう。……そもそも、これが病なのかも、我々には判断できていない。仮の名として『性同一性転換障害』と名付けただけなんだ」

「病気じゃないって言うんですか? でも、イヴリンは死んだんでしょう? 病気じゃないなら、なんだっていうんですか?」

 問い詰める僕に、先生は下を向いたまま静かに答える。

「一言で言うなら、これは進化だ」

「は?」

「ダーウィンの進化論はもう習ったかな? 生き物は環境に適応するため進化し、できないものは淘汰され、今がある。だが、進化は今も続いている。パンダやコアラなんかがいい例かな。それは、人間も同じだ」

「それと、僕らの身体に何か関係があるんですか?」

 先生は体を起こし、僕の目を見る。

「進化に必要なのは、遺伝子の突然変異。つまり、種の中に生まれる一つのエラーだ。そのエラーが今までのプロトタイプより優れていた場合、そのエラーとエラーの部分を受け継いだ子孫たちだけが生き残る。説明はいろいろ省いたがこれが進化だ」

「は、はい。その辺は知ってますけど……」

「では、そのエラーが悪い、もっと言えば自身に害をなすような方向に進化した場合を考えたことはあるかい?」

「え?」

「進化と言っても、エラーの一つがいい方向に転じただけ。そのほとんどは、自身の体に悪影響を及ぼす、不具合なんだ。……難しい話はここまでにして、我々の見解を————」

 ピロン。と、机のパソコンに通知が入る。先生が届いたメールを開き、確認する横で、僕も覗き見る。

『Our prediction is correct.』

 内容はこの一文だけだった。

 先生は、深くため息をついてメールを閉じる。

「できれば、この予想は外れて欲しかった」

 僕に向き直り、重い表情で言う。

「我々の予想は、今事実になった。検死の結果、彼女の死因は、性同一性転換障害による性転換で身体に負荷がかかり過ぎた故の心停止と判断された。君たちの身体は、自身の進化に耐えきれなかったようだ」

 僕の心臓が、かつてないほど早く脈打ち、しかし、凍えるように冷たくなっていた。これが、近いうちに自分が死ぬ事実への恐怖からくるものなのか、それとも、本当に死に近づいているからなのかはわからなかった。

「イヴリンの性転換の頻度は、週に二度ほど。君よりも少ない彼女が今日亡くなったんだ。ほぼ毎日性転換している君に、どんな負荷がかかっているかわからない。今日はこのまま入院して欲しい。古武先生」

「わかりました。学校にも、そのように伝えておきます」

 今まで黙って先生の話を聞いていたちかちゃんが席を立って、お辞儀を一つしてから診察室を出ていく。最後に、

「櫛谷さん。きっと大丈夫だから、気を強く持って、生きることを諦めちゃダメ」

 と僕の肩を掴んで言って行った。

 僕は返事をする暇も、その言葉について深く考える暇も与えられず、次に入ってきた看護師たちによって、緊急入院させられた。


  五月十二日(月曜日)


 あの後、ボクは金曜日までの五日間入院させられ、あらゆる検査を受けた。尿検査に血液検査、レントゲンにMRI検査。ほんとに色々受けた。

 結果として、心臓や身体にこれといった異変はなかった。先生曰く、僕の心臓はイヴリンよりも変化に強く、まだ猶予はあるらしい。が、平均で見ても、やはり心臓の老化が早く、エヴリンの検死から得た情報をもとに計算しなおすと、このままでは二十歳を過ぎる前に、心停止で死ぬだろうと言われた。

『このままでは』

 先生は僕に選択肢を用意した。

 このまま何もせず、二十歳になる前に死ぬことを選ぶか、


 男性か女性、どちらかに性別を固定するか。


 そんなことができるのか? 先生はできると言った。手術で片方の性器と性腺を切除し、ホルモン投与でホルモンバランスに偏りを出すことで、理論的には可能らしい。今はまだ机上の空論だが、ボクが選択するまでには、実用段階に移行できるようにしておくと約束してくれた。

 性別を固定すれば、心臓にかかる負荷が激減し、少なくとも六十歳くらいまでは生きられるそうだ。ボクは長生きしたいと願った。

 検査を終え、退院してからの二日間。母の所にも行かず、ボクは考えた。男と女、どっちになるか。


 答えは出なかった。

 朝。学校を一週間休んで、今日から登校できる。もうそろそろ出ないと遅刻になってしまう。勉強も遅れた分取り返さないといけない。

 ボクは、服も下着も着ず鏡の前に立つ。女のボクだ。髪はショートカットで、顔もかわいいというよりボーイッシュ。胸も大きくなくて、スレンダーと言ってしまえばそれまでだが、背は男子中学生の平均よりも少し高い百六十八センチ。

 ボクだ。いつものボク。でも、『僕』じゃない。両親に望まれて生まれてきたのは、『僕』であって、ボクじゃない。望まれずに生まれてきたボクは、望まれていた『僕』に消えてくれなんて言えるわけがない。

 性別を決めるというのはそういうことだ。どちらかが残り、どちらかが消える。なら、元の性別だった『僕』を残して、ボクが消える。それが一番簡単な解決法だ。

 でも、それは明日の『僕』が許さない。

 いつからだろう。『男の僕』と『女のボク』を別で考えるようになったのは。龍成に教えてもらった『ボクっ娘』を真似て、心の中で「僕」と「ボク」を区別するようになった時からだろうか。それとも初めから、『僕』の中にボクという寄生虫が住み着いていたからだろうか。

 いつの間にか、『僕』と『ボク』は同じ体と記憶を共有する別人のようになっていった。今日のボクは明日の僕のために生きているだけに過ぎない。

 ボクは、性別をどちらかに決めないといけない、と聞いた瞬間から、自分が消える覚悟はしていた。覚悟が出来ていないのは、『僕』だけだ。

 ふと、時計を見る。針は九時過ぎを指していた。今頃一限が始まっている頃だろう。月曜日の一限は国語だったな。

 ボクは慌てることも、急ぐこともなく、セーラー服に着替え、家を出る。このセーラー服を着ることができるのも、あと数回が限界だろう。


 学校に着くと、丁度昼休憩に入るチャイムが鳴るところだった。いろいろ考えて歩いているうちに、そんな時間になってしまった。

 教室に入り、弁当を食べている友達に挨拶してから自分の席に着いてから気づく。

あ、弁当忘れた。

 いつもは作り置きの総菜を一パック持ってきていたが、今日に限って忘れたようだ。仕方ない、購買に買いに行こうと、席を立つ。昼休に入ったばっかりだしまだ何か残ってるかな? 

教室を出ると、龍成と鉢合わせる。

「「あ」」

 目が合ってしまった。少しの間会ってないと、ちょっと気まずくなるのはボクだけではないはず。

「おはよう」

「もう昼だよ。重役出勤お疲れ様。昼はもう食ってきたのか?」

 いつも通り普通に接してくれることに安堵しながら、質問に答える。

「まだ。今日いつもの弁当忘れてきちゃって、今購買に行こうと思ってたところ」

「へー、珍しいこともあるもんだな。俺も丁度飯買いに購買行こうとしてたんだよ。一緒に行こうぜ。あと、あの総菜しか詰まってないパックを弁当と認める気はないからな」


 購買で総菜パンを買ってから、教室に戻ろうとすると、龍成に止められる。

「実はお前が休んでる間に、いい穴場見つけたんだよ」

 そういって案内されたのは、校舎の屋上だった。

「アニメや漫画じゃ、屋上が開放されてるとこも多いんだけどな」

 龍成はそう言うが、うちの学校はもちろん開放なんかされていない。一応、落下防止用の柵は付いているが、気休め程度の物で簡単に跨げてしまう。

 ボクらは屋上の柵を背に並んで座り、食べ始める。

「よく鍵なんて持ってたね」

 訊くと、龍成は自慢げに屋上扉の鍵を見せてくる。

「男バスの中で、密かに受け渡されてきた伝統ある鍵らしい。次の部長はお前だからって、部長に渡されたよ」

 その設定ちょっとカッコイイかも。……ん? でも、

「それっていけないことじゃないの? 今までの龍成なら、真っ先に先生に報告しそうなのに」

「いつの話してるんだよ。俺は、あらゆるジャンルのアニメを見て、知ったんだ。必要悪という言葉を」

「それはちょっとダサい」

「え」

「あ」

 しまった。声に出てしまっていた。思わず口をふさいで龍成から顔を逸らして、残った総菜パンを口に放り込んで食べきる。が、思っていたより残っていたせいで、なかなか飲み込めず、頬がリスのように膨らんでしまう。

 そんな姿を見てか、隣で笑う龍成の声が聞こえる。

「まあ、ダサくてもいいけどさ。それで、お前が話しやすくなるなら、俺はいつだって悪くなるよ」

 口の中の物を飲み込み、ついでに座り直してから聞き返す。

「それってどういうこと?」

「病院でなんかあっただろ」

 その言葉に、心臓がキュッとなる。背中から冷や汗が伝い、体育座りする手に力が入る。

「…………どうしてそう思ったの?」

 龍成の顔を見ることができない。自分の膝に顔をうずめて、返事を待つ。

「どうしてって……お前、今日会った時の最初以外、なんか目ぇ合わせてくれないし、時々暗い顔して下向いてるし。何もなかったっていう方が無理な話だろ」

 驚いた。龍成がそんなにボクのことを見ていたなんて。

「そ、そんなにわかりやすかったかな?」

 少し声が震える。

「何年、友達やってると思ってんだよ」

 どうしよう。すごく嬉しい。

「ここは屋上だし、俺以外に人はいない。お前が話したいと思える範囲でいいから、話してくれ。俺ら、友達だろ?」

 龍成の気遣いが、心に染みる。龍成の顔を見たいのに、振り返ることができない。振り返ればきっと、ボクの涙で汚れた顔を彼に見せてしまうから。

「……うん」

 ボクができたのは、彼の厚意に甘えることだけだった。


 ボクは龍成に、三つのことを話した。このままでは二十歳になる前に死んでしまうこと。それを回避するためには男性か女性、どちらかの身体に固定するしかないこと。そして、その回答をまだ出せていないこと。

 ボクと『僕』の違いのことは離さなかった。今欲しいのは、龍成の意見だ。

 しばしの沈黙の後、龍成は口を開く。

「あさひ」

「何?」

 どんな答えでも、受け止める準備はできている。

「もしも俺がこっちの性別がいいって言えば、お前はきっと、その性別になるんだろうな」

「…………」

 龍成は正しい。ボクはきっと龍成の願いを聞けば、その性別になろうとするだろう。でも、 それは責任の押し付けだ。縛られるのが嫌だったボクが、相手を縛ってどうする。龍成に告白するのは間違っていたのか。そう思った時、

「俺は、お前に性別を押し付ける気はない。かといって、自分の性別は自分で決めた方がいいなんて、薄っぺらい言葉を吐きたいわけでもない。でも、お前が『自分が成りたい自分』を決められる切っ掛けぐらいは作ってやれる」

 龍成の誠実さが、いやというほど伝わってくる。そういえば、龍成はこんな奴だった。話したこともない、いじめらている子供を身を挺して守り、たった一人で複数人に立ち向かっていく、度を超えたお人好し。その子供が抱えていた問題を意に介さず、周りと同じように接してくれた、唯一無二の親友。彼の背中は、身長の差があまりなかったころからずっと、ボクには大きく見えていた。

「覚えてるか? 修学旅行の時。お前、行きたくないって最初は言ってたよな」

「え、うん……」

 唐突に、小学校の思い出を掘り起こされる。

「えっと、確か。お風呂の時にみんなに裸を見られたくないから行きたくないって、言ってたんだっけ?」

「そうそう。で、そのあと俺がなんて説得したか覚えてるか?」

「覚えてるよ。ともりの服をこっそり持ってきて、二日目にいつもはできない女の格好で出歩こうって言ってくれたよね」

 親の目のないところで、好きな格好ができる。当時のボクにとって、それはとても魅力的な誘いだった。

「まあ、結局。出発前の所持品検査で見つかって、持って行けなかったんだけどな」

「あった、あった」

 作戦は成功しなかったが、結果的に修学旅行は楽しいものになった。当時のことを思い出して、自然と笑みがこぼれる。

 すると、キーンコーンカーンコーンと昼休の終わりを告げるチャイムが、下の階から聞こえてくる。

「もう、こんな時間か」

 龍成が呟く。本当だ。お昼を食べて、少し話しているうちにもう昼休が終わってしまうなんて。

「それじゃ、そろそろ行こ——」

 立ち上がろうとした龍成の服の袖を、咄嗟に掴んでしまう。この居心地のいい空間を、終わらせたくなくて。彼とのひと時を、まだ続けていたくて。

「もうちょっとだけ、まだ話してたいかも」

 ボクの懇願を聞き、龍成は何も言わず、隣に座り直してくれる。

 そして、会話は続く。次のチャイムが鳴っても、そのまた次のチャイムが鳴っても。他愛のない話をずっと。


 チャイムが鳴り、六限の終わりを知らせる。

 ずっと話していたくても、放課後までは出来ない。ボクはともかく、龍成は次期部長だ。サボりなんて許されないだろう。立ち上がって、スカートに付いた汚れを掃う。

「ありがと。今日は楽しかったよ。ボクは帰るから、部活頑張って」

 女バスは今日、顧問の南先生が時季外れのインフルエンザに罹った影響で休み、あとは帰って明日のボクに託すだけ。

「まだ、今日は終わってないぞ」

「え?」

 振り返ると、龍成は屋上入口の方を向いている。再度視線を移すと、屋上入口のドアが開いて、そこにともりが立っていた。走って階段を上って来たのか少し息が切れて、ドアに手を突いている。

「ともり? えっと、何でここに?」

「兄さんから、連絡貰って、私、あさひ先輩とここ一週間会ってなかったから、どうしても会いたくて」

 龍成の方を見ると、スマホのストラップに指をかけてプラプラと揺らしていた。まったく、どこまで気が利く男なんだろう。

「じゃあ、一緒に帰る?」

「は、はい!」


「兄さんと、何を話してたんですか?」

 帰り道、進行方向正面に傾いた太陽を眩しく感じていると、隣を歩くともりが訊いてくる。

「んー、そんな大したことは話してないよ。昔のことだったり、部活のことだったり、勉強のことだったり」

「なら、将来のこととか、話しましたか?」

 ぴたりと、ボクの足が止まる。そういえば、そんな話はしなかった。知らないうちに、また龍成に気を使われていたらしい。少し先に行ったともりの不思議そうにこちらを窺う顔を見るに、何も知らずに言っているんだろう。

 彼女にも、ちゃんと話さないといけない。ボクの身体のことを。

「ともり」

「はい?」

「ちょっとそこの公園で話さない?」


 ともりを公園の隅のベンチに座らせ、ボクは自販機で小さいペットボトルに入ったアップルジュースを二本買い、一本手渡す。

「ありがとございます」

 うちの学校は登下校中の買い食いは禁止だが、これくらいは許されるだろう。

「懐かしいね」

 ともりの隣に座って、公園を眺める。ここは、幼稚園時代から小学校低学年の頃までよく三人で遊んでいた場所だ。砂場で山や泥団子を作ったり、ブランコでどちらの方が高く漕げるか勝負したり、ジャングルジムで鬼ごっこをしたり。公園自体が狭いし遊具と呼べるものもさっき言った三つくらいしかないが、学校が休みの日はいつもここに集まっていた。

「はい。あの時はもっと広く感じていたんですけど、今はとても狭く感じます」

 確かに、時間にしてみればたった数年前の話だが、今ここで遊ぶのは少し狭すぎる。何が楽しかったのか、あの時は昼から遊び始めて、影がずっと伸びるまで遊んでいた。一緒に来ていた母を困らせるくらいには、ここが大好きだった。

「楽しかったね」

「毎回、あさひ先輩を引っ張って帰るお母さんが大変そうでしたね」

 遠い所を見るような目で遊具を眺めるともりの言葉に、ボクは苦笑いする。

「あの時は、公園から出ていくことよりも、二人と離れる方が嫌だったんだよ。きっと」

 自分の言葉にハッとさせられる。大事なのは、どこにいるかより、誰といるか。

そうだ。ボクは公園ではなく、二人と一緒にいる公園が好きだった。自覚した途端、鼻から息が抜け、口元が緩む。そして、うっかり離れるのが嫌だったと当事者の一人に言ってしまって、少し恥ずかしくなった。

 ペットボトルの蓋を開ける。

「ごめん。話逸れちゃったね。将来の話だっけ? 確かにしてないよ」

「あ、そうでした」

「でも、なんで将来の話?」

「えっと、兄さんと長い間話してたっぽいので、話題被ったら嫌だなって」

 なんだ、そんなことか。

「ボクは、全然気にしないよ?」

「私が気にするんです」

 そう言って、拗ねた様子でともりはペットボトルの蓋を開ける。

「同じ話題で、同じこと言ってたら、私たちが似た者兄妹と思われるじゃないですか」

 うん、もう十分似た者兄妹だよ。

「嫌なの?」

「なんか嫌です」

 そっか。

「じゃあ、ともりは、将来何になりたいの?」

「え、私ですか? えっと、まだ具体的なことは決めてないんですけど、服飾関係の仕事に就けたらいいなって思ってます」

「へー、なんか意外かも。ともりって、外で遊ぶの好きだったし、ボクや龍成よりもバスケ上手いから、バスケ選手とか、そっち系に行くのかと思ってた」

「確かにバスケは好きですけよ? でも、私、忘れられないんです」

 飲みかけのジュースを眺めながら、ともりは続ける。

「あさひ先輩とやったファッションショーが」

 ああ、

「私の服を着たあさひ先輩を見て、私、すごくドキドキしたんです」

 この子はどこまで、純粋なんだろう。

「あの時は両親に買ってもらった市販品でしたけど、今度は私がデザインした服を着て欲しいんです」

 少し照れくさそうにしながら、ボクに言う。

「だから、私の将来の夢は、あさひ先輩に私の服を着てもらうことです」

 …………。

「私は言いましたよ。次はあさひ先輩の番です」

 照れ隠しなのか、早口で少し強引気味に催促される。

 ボクは、残りのジュースを飲み切ってから口を開く。

「ボクさ、先週ずっと入院してたんだ」

「? はい、それは兄さんから聞いてますけど……」

 唐突な切り口にともりは少し戸惑っている。将来の話をしようとしているときに、先週の話を出されれば、そんな反応になるのも当然だ。

「検査入院だったんだ」

「はい……」

 ボクの話に訝しげな反応を見せるともり。空になったペットボトルを眺めながら、ボクは続ける。

「ボクさ、このままだと二十歳になる前に死んじゃうらしいんだ」

「え?」

 ボト、と中身の入ったペットボトルが落ちる音がする。見ると、ともりはベンチから立ち上がり、蓋の開いたペットボトルが地面に自身の中身を注いでいた。

「だから、今はあんまり将来のこととか考えられないかな」

「あ」

 ともりは自分の口を抑える。自分の発言を後悔しているのか、肩が震え、目じりから涙がにじみ出ている。

 卑怯だ。こんな、彼女を追い詰めるような真似、したくなかった。今更ながらに、自分の選択を悔いる。もっと早くに打ち明けておくべきだった。

 ペットボトルを横に置いて立ち上がる。

「あの、私知らなくて、ほんとに、何も、ごめんなさ———」

 ボクはともりを抱きしめて、言葉を遮る。謝るのはボクの方だ。

「ごめん。ともりを責める気はなかったんだ。ただ、言う機会を見失って。でも、ちゃんとともりには伝えておこうと思って」

 耳元で、すすり泣く声が聞こえてくる。

「あさひ先輩。いなくなっちゃうんですか?」

 ともりの手が持ち上がり、離さないように両の手でセーラー服の裾を掴まれる。

「大丈夫。手術で性別をどっちかに固定したら、まだまだ生きれるって、お医者さんが言ってたから」

 ともりの手がセーラー服から離れた。と思ったら、今度はボクの背中に周り、ぎゅっと抱き返してくる。

「あさひ先輩」

 顔は見えないが、不安なんだろう、声が震えている。

「なに?」

「私、あさひ先輩が好きです」

「うん」

 知ってる。ともりの思いは、とても純粋で真っ直ぐだから、ずっと気づいてた。

「男とか、女とかじゃなくて、あさひ先輩が好きなんです」

 ボクを抱きしめるともりの腕に力が籠もる。

「だから、長生きしてください」

 その願いに、ボクも自然と涙が零れる。泣くつもりも、泣き所でもなかったのに、あとからあとから、涙が溢れてくる。

「あさひ先輩」

 再度、ともりから話しかけてくる。

「なに?」

「私と、……私と結婚してください」

 声に震えはない。確かな意思を持って、ボクに告白する。

「絶対に、絶対に幸せにします。結婚してよかったって思わせて見せます。だから」

 もう、それ以上の言葉はいらない。

「ありがとう。すごく嬉しい。こんな素敵なプロポーズ初めてされた」

 そうして、お互いしばらく抱き合ったまま、涙が止まるまで、時間は過ぎていった。


 抱き合っていた腕を解き、ベンチに座り直す。腕は解いても、手は繋いだまま、さっきよりも近い位置に座る。

 二人とも、目を赤く腫らした状態で、互いの存在を知覚し合う。

「嬉しいです。あさひ先輩に結婚の約束を了承してもらえて」

「あ、そのことなんだけど。返事は一時保留でお願い」

「え⁉」

 ベンチから立ち上がり、転がっていたペットボトルを持ち上げ、付いた土を掃う。中身はもうほとんど残っていない。

 振り返ると、ともりがさっきとは比べ物にならないほどの大粒の涙を流していた。

「え、ちょっ」

「あさひ先輩。嬉しいって言ってくれたのに。こんな素敵なプロポーズ初めてされたって言ってくれたのに。どうして……」

「えっと、ボクは結婚するとも、付き合うとも言ってないけど……」

「確かに……じゃあ、私のただの勘違いだったんですね……」

 まずい。今のは逆効果だったか。

「ともり、聞いて」

 ペットボトルを置いて、ともりの前に膝を突き目を合わせる。

「ともりの告白。とても嬉しかったし、今すぐにでも返事したい」

「じゃあ……」

 ボクは首を横に振る。

「でも、今のボクはすごく不安定なんだ。こんな状態のままで、ともりの想いに答えたくない。だから、ボクがボクでいられるようになったら、今度こそちゃんと返事させて欲しい」

 ともりの手を取って、強く握る。

「少しだけ待ってて、必ず答えを出すから」

 ボクには、そういうことしかできなかった。

 これは、少しばかりの時間稼ぎ。揺らいだ覚悟を再び決めるための、緩んだ帯を締めなおすための、猶予が欲しかった。


 目が覚める。

 目が覚める?

 あれ、何をしてたんだっけ。確か、あの後、ともりを家まで送ってから、自宅に帰って、お風呂に入ることも、着替えることもせず、ベッドに倒れて、そのまま……。

 辺りを見回す。

 ここは、ボクの部屋ではない。それどころか、現実世界なのかもわからない。

 凹凸のない黒い床が見渡す限り広がっており、曇り空のような薄灰色の空がこれまた見渡す限り広がっている。

 ここはきっと夢の中なんだろう。明晰夢というやつか、初めて見た。

「やあ、ボク」

 声がかかってきた方向を見る。

「僕?」

 僕だ。ボクじゃない、学ランを着た僕だ。そう言うボクもセーラー服を着ている。まあ、セーラー服を着たまま寝てしまっているから、当たり前と言えば当たり前か。

「直接話すのは初めてじゃないかな?」

 僕が言う。確かに、ボクと僕は一日おきに入れ替わってるわけだから、直接話す機会なんてあるはずがない。

「えっと、何でいるの?」

「さあ、別れが近いからじゃない?」

 ボクが訊くと、僕が答える。不思議な空間だ。なにぶん同じ顔をしているから、鏡を見ていると錯覚してしまう。

「僕らの違いって何かな?」

 今度は僕が訊いてくる。ボクらの違い。

「たぶん、性自認だよ。(きみ)が男で、ボクが女。それ以外に違いはない。性格も、思考も、好きな人も」

 ボクは答える。性別が違えば、考えも変わってくる。それは、同じ体のボクらでもそうなる。だから、別れた。

「ボクはもう準備できてるよ。この身体は元々、(きみ)のモノだったんだ。消えるのは、ボクでいい」

「ほんとに? 今日、二人と過ごして、消えたくないって思ったんじゃない?」

 ボクと同じ記憶を持っている僕に隠し事はできないらしい。

「それでも、(きみ)が残るべきだ。だって———」

「男の僕じゃないと、ともりと結婚できないからって?」

 …………。

「ともりは、そんなことを気にするような子か?」

 違う。でも、それじゃともりとの約束が果たせない。

「ともりを言い訳にするな」

「っ⁉」

 僕がボクに詰め寄ってくる。

「ボク(きみ)が頑なに消えようとしているのは、僕に負い目があるからだ」

 ボクは、僕から顔を逸らす。

「ボク(きみ)がいたから、家族は壊れた。お父さんが捕まったのも、お母さんが精神をおかしくしたのも、全部ボク(きみ)がいたからだ。って思ってるんだよね」

 そう言うと僕は、ボクから離れて背を向ける。

「でも、僕はそう思ってない。家族が壊れた原因は僕にもある」

「え?」

「だってそうでしょ? 僕がいなければ、ボク(きみ)は女として生まれて、女として育てられた。まあ、あの両親のことだから、扱いに差はあっても、ちゃんと育ててくれたはずだよ」

 僕は何もない空を見上げる。

「僕とボク、一緒に生まれてきた方ダメだったんだ。僕がたまたま先に出てきただけで、ボク(きみ)が先に出ることだってあったんだ」

 だから、負い目に感じる必要はないと、僕は言う。

「それに、僕はボク(きみ)が羨ましかったんだ」

「え」

「ともりの服を着れるのは、ボク(きみ)だけだったからね」

「……」

 それはどうなんだろう。ボクがともりの服を着るのは大丈夫だとしても、僕がともりの服を着るのは、また別の変態的な意味が生まれてくるのではないだろうか。

「冗談だよ」

 よかった。冗談か。

「でも、羨ましかったのはホントだからね」

「わかったよ」

 会話の中に、自然と笑みが生まれる。ボクと僕が話す、ただの独り言に過ぎないのに。まあ、いいか。ここは夢だし、他に誰もいないし。

「ねえ、ボク」

 振り返った僕がボクに話しかけ、また近づいてくる。

「ちゃんと幸せになるんだよ」

 どうやら、どうあっても、僕の気持ちは変わらないらしい。

「わかったよ。ボクの負け」

 根競べでは、ボクは僕に歯が立たなかった。なら、

「明日は(きみ)が会いたい人に会っておいで」

 せめて、僕が心置きなく去れるように。


  五月十三日(火曜日)


 昨日はどっと疲れた。一気に二日分の体力を持っていかれたような気分だ。おかしな夢も見るし、まだ頭がこんがらがっている。

 とりあえず、今日は学校を休んで、昨日の僕が言っていた通り、会いたい人に会いに行く。

 病室のドアをノックする。返事はないが、構わず入る。病院の面会可能時間が始まってすぐ来たからか、母はまだ起きていない。まあ、起きている母に会おうと思って来たわけではないから、問題ないわけだが。

 母は穏やかな顔で眠っている。

しばらく顔を眺めた後、僕は花瓶に飾っていた花を新しいものに変える。この間の花はもう萎れてきてしまったから、母も起きた時は、若く生き生きしたものを見たいはず。

新しく花を飾った花瓶を、窓際に置き、僕は病室を出る。その時、

「あさひ?」

 振り返ると、寝ぼけた目を擦りながら、母が僕を見ている。

「お母さん」

 母を呼ぶ。

「なぁに?」

 寝ぼけているのか、母の口調もなんだかおっとりしている。

 僕は母に言う。

「さようなら」

 僕はもう母に会うことはない。母はきっと、明日の僕を拒絶する。でもいつか、母の病が治って、『ボク』のことを認めてくれるなら、それはどれだけ嬉しいか。

「あら、そう? いってらっしゃい」

 何と聞き間違えたのか、母は軽く手を振り、優しく笑う。

 やめて欲しい。せっかくした決心が、揺らいでしまうじゃないか。

 僕は母に返事をせず、出ていく。行先は決まっている。


 扉をノックする。

「どうぞ」

「失礼します」

「ここに来たということは、どちらにするか決めたようだね」

「はい、僕は———」


  六月二日(月曜日)


 ボクの部屋には制服が二着ある。学ランとセーラー服の二つ。

 ボクはセーラー服を取って着替える。時刻は午前七時。家から中学校まではさほど遠くないが、あまりゆっくりしすぎていると遅刻しかねない。

  歯を磨いて軽くメイクをし、少し凝った朝食を食べ、飼っているカタツムリたちにキャベツの切れ端を与えてかわいいなぁと眺めて、家を出る。


 進行方向に、よく知った二人の背中が見える。

「おはよー。お二人さん」

 ボクは龍成とともりの間に割って入る。

「おう、あさひ……」

「あさひ先輩、おはようございます……」

 ともりと手を繋いで、そのまま三人並んで歩き始める。

「二人とも、元気ないね」

「当たり前だろ」

「です」

 龍成は肩を落とし項垂れる。ともりに至っては、敬語の部分しか言葉にできていないようだった。

 今日からテスト返しだ。二人とも、その結果に戦々恐々しているのだろう。

「大丈夫だよ。龍成もともりも、勉強頑張ってたし。テスト、結構解けたでしょ?」

「まあ、いつもよりわかった気はするけど……」

「でも、怖いものは怖いんです」

 ボクは、怖がり過ぎだって、と苦笑いするしかなかった。

「そう言う、あさひ先輩は余裕そうですね」

「え」

 話題が急にボクの方に向く。

「テストの日にしか来てないのにな」

 龍成からも追撃が飛んでくる。仕方ないじゃないか、テスト当日まで手術で入院してたんだから。それに、ボクがテスト結果を不安に思っていないのは、

「普段の積み重ねがあるからね。テストは、いつもどれだけ勉強しているかを計るものだから、ボクみたいに毎日勉強してたら、テストなんて怖がることないんだよ」

 それに入院中、ちかちゃんに頼んで自宅から勉強道具一式を持ってきて来てもらって、勉強してたから、遅れを取ることもないだろう。

「積み重ね……それ、私にも分けてください」

 自信満々なボクを見て、ともりが羨ましそうに言う。

「あはは、流石にそれは、可愛い彼女にお願いされても難しいかな」

積み重ねを分けるって……寝ぼけているのか? と、ともりの頬を軽く引っ張る。

ボクとともりは今付き合っている。さすがに今の年では結婚できないし、そもそも、現代の日本の法律では同姓間での結婚はできない。でも、それはわかっていたことだ。

「ともり、龍成」

 二人の名前を呼ぶ。

「はひ?」

「なんだ?」

「ボク、将来の夢、ちゃんと決まったよ」

 ともりと以前話した将来の話。あの時は考える余裕がなかったが、手術を終え、テストを終えたことで、ようやく先を見れるようになった。

「ともりは服のデザイナーで、龍成は警察官だったよね」

 三週間前、ともりを家に送った際、龍成にも将来のことを訊いた。龍成は、警察官になりたいと言っていた。なれるかはわからないが、弱きを守る仕事がしたいと、彼らしい理由で。

「ボク、医者になりたいんだ」

 龍成と同様、なれるかわからない。きっと難しい道だろう。でも、ボクの命を救ってくれた先生の背中に、憧れてしまった。ボクも、先生のように、誰かの命を救いたい。

 性同一性転換障害の三人目の罹患者は、まだ生後十か月らしい。今はまだ手術で性別を固定してはいないが、その子が現在のボクのような年齢の時に選択を迫られた際、医者になったボクが何かの助けになるかもしれない。

「素敵です!」

 ともりが繋いだ方の腕にギュッと身を寄せてくる。付き合い始めてから、なんだか遠慮がなくなったような気がするのは、ボクの気のせいだろうか?

 視線を龍成の方に向けて、どうかな? と目配せしてみる。

「いいんじゃないか? お前らしくて」

 龍成の言葉にともりが突っかかる。

「なんですかその言い草は、もっと何か言うことあるでしょう。あさひ先輩がやっと見つけた将来の夢なんですよ? 兄さんももっと応援してあげてください」

「ああ? いいんだよ、こんなもんで。お前ら熱々カップルと違って、俺らは常にドライな関係なんだよ」

「何が、ドライな関係ですか。かっこいいと思ってるんですか? 全然そんなことないですからね」

「はあ?」

 ボクを挟んで行われる兄妹喧嘩に、思わず吹き出してしまう。

 そしてボクは、龍成の腕を掴んで、ともりの手を引っ張って、走り出す。

「うお⁉」

「あさひ先輩⁉」

「ほら、二人とも。早くいかないと遅刻しちゃうよ」

「いや、まだ時間あるだろ!」

 構わず走り続ける。走りたい気分だった。

 ボクの未来には、まだまだ困難があるだろう。でも、きっと大丈夫だ。

 今日を生きたボクは、明日も、そのまた明日もずっと生きていく。

 ボクを愛して、信頼して、託してくれた想いは、ボクの力の根源になる。

 それがある限り、ボクはいつまでだって、どこまでだって頑張っていける。

 ボクは走る。学校に向かって。いつか来る、将来に向かって。


春秋冬と書いて『ナツナシ』と言います。作品の感想はお気軽に。一応校閲はしていますが至らない所もあると思いますので、誤字脱字の指摘・不明点の質問についてもしていただけると助かります。出来る限り修正・解答いたします。

 また、「つまらない」「面白くない」といった中傷コメントは私の心が耐えられませんので出来る限りおやめください。

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