湯治の時間
初めての湯治場生活は、真司にとって、時間の流れそのものが書き換えられるような体験だった。
朝は六時過ぎ。館内放送が流れるよりもずっと早く、古い木造校舎のような廊下のきしみで目が覚めた。
天井の板目を見つめながら、重たい綿布団の感触を確かめる。
隣室からは「今日は雪片付けせねばな」「んだな、腰がおっくうだ」という老夫婦の囁き声が漏れてくる。壁が薄いのではない。この建物全体が、ひとつの生き物のように音を伝えているのだ。
布団から出るのは勇気がいった。部屋の空気は、夜の間に忍び込んだ鋭利な冷気によって張り詰めている。
意を決して身を起こし、二重サッシの窓を少しだけ開けた。
途端に、キンと冷えた大気と共に、硫黄の匂いが鼻腔の奥までなだれ込んでくる。
目の前には、青白い朝の光を浴びた静寂の雪原。
排気ガスも、電子音もない。ただ、圧倒的な「静けさ」という音がそこにあった。
浴場へ向かう廊下は、冷蔵庫の中を歩いているようだ。スリッパ越しの足裏に、床板の冷たさがじかに伝わってくる。
突き当たりの引き戸に手をかけ、力を込めて開く。
その瞬間、視界が真っ白に染まった。
「酸ヶ湯の千人風呂」。
一六〇畳もの広さを誇るヒバ造りの大浴場。
もうもうと立ち込める湯けむりの向こうに、長い歳月を経て黒光りする太い柱や梁が浮かび上がっている。
濃厚な硫黄の香りが肺を満たすと、体の芯にあった都会の澱が押し出される気がした。
白濁した湯は底が見えないほど濃い。
足先を入れると、ピリピリとした刺激が走った。酸性のお湯だ。
ゆっくりと肩まで沈める。
「ふぅ……」
思わず深い溜息が漏れた。
熱い湯が、パソコン作業で凝り固まった背中の筋肉を容赦なく揉みほぐしていく。
自分の体が、いかに冷え切り、いかに石のように強張っていたかを、この熱さが教えてくれた。
「おや、新顔だねぇ」
湯気の中から不意に声が飛んできた。
振り返ると、混浴のエリアで、頭に真っ赤な手ぬぐいをほっかむりした年配の女性がこちらを見ていた。
雪国特有の色白の肌は、湯気で艶やかに濡れ、頬がりんごのように赤い。
「……あ、はい。昨日来たばかりで」
「まさえってんだ。この時期は毎年来てんの」
独特の抑揚がある津軽弁が、高い天井に反響して柔らかく耳に届く。
まさえと名乗った女性は、人懐っこい目で真司を見透かすように言った。
「観光じゃなさそうだべ?」
「ええ……ちょっと、休養しに来まして」
「んだべな。顔が『しなびた大根』みたいになってるもん」
「だ、大根ですか」
「んだ。水気がねぇのよ、あんたの顔には」
まさえは豪快に笑い、手で湯面を叩いた。ちゃぷん、と波紋が広がる。
遠慮のない言葉だったが、不思議と嫌な気はしなかった。
大阪では、誰もが言葉を選び、腹の探り合いばかりしていた。
こんなふうに、土足で心に入り込んでくる温かさに触れるのはいつぶりだろう。真司は苦笑しながらも、強張っていた頬が緩むのを感じた。
---
朝食を終え、昼下がりの光が廊下に差し込む頃。
窓の外には、屋根から滑り落ちた雪が層を成して積み重なっている。
角を曲がった先で、ざっ、ざっ、という小気味よい音が聞こえた。
青い作務衣姿の若い男が、竹箒で軒下の雪を払っている。
「おはようございます」
「あ……おはようございます」
真司が声をかけると、男は手を止めて顔を上げた。日に焼けた精悍な顔立ちに、白い歯がこぼれる。
「中村亮です。お荷物とか、何か困ったことがあったら声かけてください」
その手は、薪割りや雪かきで鍛えられたのだろう。節くれ立ち、厚みがあった。キーボードしか叩いていない自分の薄い指先とは、まるで違う生き物の手に見えた。
なりゆきで、真司も雪かきを手伝うことになった。
建物の外に出ると、雪の照り返しが眩しい。
スコップを握り、締まった雪に突き刺して、放り投げる。
ずしり、と腰にくる重み。
「都会だと、雪は邪魔者扱いですからね」
亮が手を休めずに言った。白い息が空に溶けていく。
「そうですね……。電車は止まるし、道は混むし。ニュースじゃ悪者扱いです」
真司は苦笑して、また一回、雪を放り投げた。
「こっちは雪がなきゃ水もねぇし、春の山菜も育たねぇ。めんどくせぇけど、神様からの預かりもんですよ」
預かりもの。
その言葉を反芻しながら、真司は汗を拭った。
大阪での仕事は、メールを一本返しても、すぐに次のクレームが来る。終わりのない賽の河原のようだった。
だが、ここでの雪かきは違う。
ひとすくい投げれば、確実に道ができる。
成果が目に見える「労働」の単純さが、今の真司には救いだった。
冷たい風が、汗ばんだ首筋に心地よかった。
夕暮れ時、湯上がりの休憩所には、ストーブを囲んで数人の湯治客が集まっていた。
その中心にいたまさえが、真司を見つけて手招きする。
「これ、食ってみ」
差し出されたのは、湯気の立つ小さな椀。
中には賽の目に刻まれた大根、人参、ごぼう、わらび、そして凍み豆腐。
「けの汁だ。津軽の七草粥みたいなもんだな」
一口すすると、素朴な味噌の味と共に、根菜の土の香りが口いっぱいに広がった。
決して派手な味ではない。だが、野菜の滋味がじわじわと胃の腑に染み渡り、体の内側から熱を生んでいくようだ。
「うまい……」
「だべ? 体温めねば、雪に負けるからな」
コンビニのおにぎりや、接待で食べる味がしないコース料理とは対極にある、命をつなぐための食事。
それが、空っぽだった真司の胃袋を優しく満たしていった。
---
その夜。
部屋に戻り、あぐらをかいて窓の外を眺めていた。
月明かりに照らされた雪原は、青白く発光しているように見える。
ふと、その白い世界に、ひとつの黒い点が浮かんでいた。
人影だ。
黒いコートに身を包み、雪に足を取られながらゆっくりと歩いている。
昼間、廊下ですれ違ったあの女性――美沙だった。
彼女は宿から離れた雪の中で立ち止まり、身じろぎもせず、ただ夜空を見上げていた。
風の音も、鳥の声もしない。
すべてを吸い込む雪の静寂の中で、彼女の姿だけが世界から切り取られたように孤独だった。
まるで、誰かの名前を呼んでいるようにも、何かを祈っているようにも見えた。
真司は窓ガラスに手を触れた。
冷たさが指先に走る。
理由はわからない。けれど、その背中にまとわりつく暗い影が、自分の中にある虚無と共鳴したような気がして、目が離せなかった。
布団に潜り込んでも、意識は冴えていた。
目を閉じると、まぶたの裏に大阪のオフィスがちらつく。
未読のメール、上司の苛立った声、妻の諦めたような背中。
それらを思い出すたび、胸の奥に冷たい風が吹き抜ける。
けれど、昨日までとは何かが違った。
体には雪かきの心地よい疲労感があり、腹の底にはけの汁の温かさが残っている。
外では、しんしんと雪が降り積もっているはずだ。
その雪が、真司の抱える雑音を、少しずつ音もなく埋めてくれているような気がした。
「……寝よう」
小さく呟き、真司は重い掛布団を肩まで引き上げた。
ここで過ごす七日間が、自分を変えてくれるかもしれない。
そんな予感は、雪の下で春を待つ芽のように、微かだが確かに息づき始めていた。




