第3話 見えない壁
結人は、今日も任務を終え、疲れた足を引きずりながらダンジョンを出た。湿った土と古い血の匂いが、まだ衣服に染み付いている。帰り道、夕暮れ色に染まる街の雑踏を歩きながら、彼は無意識にスーパーの特売コーナーへ目をやった。
(……もやし、安いな……)
レジ袋一つで夕食を済ませる自分の姿を想像し、少しだけ苦笑した。隣を通り過ぎる探索者たちは、どれも光り輝く戦果を手にして、楽しそうに会話している。
「この前のバイラントモール、やばかったわ! 音響デバイス使ったけど、まじで手こずったぜ!」
「いや、俺の毒槍の一撃が効いただろ? 流石、俺の槍!」
「俺の罠がなきゃ、二人とも死んでたんだぞ!」
彼らの笑い声と軽口が、まるでガラスの壁を隔てているかのように、結人を孤独の中に押し込む。彼はふと立ち止まり、静かにため息をついた。
(……僕には、あんな会話は、できないんだ……)
「ウォッチャー」という彼の能力は、戦闘の華やかさとは正反対の存在だ。仲間と肩を並べ、敵を討ち、笑い合う喜びには縁がない。彼は常に影に潜み、他人の戦果を拾い上げて金に変える。誰も褒めてはくれないし、感謝さえもされない。それが自分の役目だと、頭では理解していても、心は折れそうになる。
スーパーのレジに並ぶ。自分の手元にはレジ袋が一つ。隣の高ランク探索者たちは、装備品や高級食材を山のように買い込んでいる。彼らと自分とを隔てる「見えない壁」の厚さを、改めて痛感した。
(僕には……あんな人生は、手に入らないんだ……)
帰宅し、もやし炒めを作る。フライパンの中でパチパチと跳ねる油の音に、少しだけ心が和む。しかし、一人で食べる夕食はあまりにも静かで、咀嚼の音だけが空気を震わせる。
(……おいしいのに……なぜ、こんなに虚しいんだろう……)
食後、彼はスマートフォンを手に取り、探索者用掲示板アプリを開く。今日のダンジョンでの戦果や愚痴、相談がリアルタイムで流れ、まるで世界の騒がしさを凝縮したかのようだった。
【速報】Dランクパーティ「ライトニング」、バイラントモール群の討伐成功!
「Dランクでも、やっぱり一筋縄ではいかない相手だったらしい」
「俺らのパーティはまだまだだな、次は連携を見直さないと」
【愚痴】うちのパーティ、今日全然連携取れなくてやばかった…
わかる。うちも。もう解散したい…
【相談】ウォッチャーの人いますか? 本当に役立たずなんですか?
経験者だけど、結論から言うと無理。パーティ組めないし、ソロだと雑用しかできない。
結人は、最後の書き込みを読み終え、スマートフォンをそっと置いた。掲示板に流れるのは、戦いの熱と苦悩の声。自分の居場所は、そのどこにもない。
(……やっぱり、僕は……ただのハズレなんだ……)
どれだけ工夫しても、どれだけ努力しても、この「見えない壁」を超えることはできない。ウォッチャーは、ウォッチャーのままだ。敗者は、敗者のまま。
それでも心の奥で、小さな声がくすぶる。
『本当に、このままでいいのか……?』
幼い頃、憧れた「勇者」の姿が脳裏をよぎる。仲間と肩を並べ、敵を打ち破り、喜びを分かち合う──そんな姿は、遠い幻影のように感じられた。今の自分には、そこに届く力はない。あるのは、誰かの戦いの残骸を拾い、静かに日銭に換える力だけだ。
夜が深まり、街の灯りが窓に映る頃、結人はもう一度小さなため息をつく。孤独な朝はまだ続く。だが、どこかで微かな希望もくすぶっていた。
その日の夜、結人は、日課であるノートの記録を始めた。
今日の出来事を、淡々と書き込んでいく。
そして、その日のページの隅に、いつもとは違う文字を書き足した。
「観察の可能性」
それは、彼が「敗者」の朝から抜け出すための、最初の、そして、かすかな光だった。




