第18話 苗床の暴走
湿った土と苔の匂いが、肺の奥にまとわりつく。
壁一面に淡い緑光が揺れ、無数の微細な胞子が宙を漂っていた。吸い込むたびに喉が焼け、視界が霞んでいく。
足元はぬかるみ、踏みしめるたびに冷たい水音が跳ねた。
今回の任務は《苔胞子の苗床》の増殖を抑え、後続パーティーが到着するまでの時間を稼ぐこと。討伐ではなく、あくまで“遅滞”。だが、それでも難易度は高かった。
「……視界、やっぱり霞んできてるな」
結人がゴーグルを調整し、端末のログを確認する。
〈幻覚性胞子:高濃度〉の赤い警告が点滅していた。
「なぁ結人……俺、前に二体見えんだけど?」
蒼井がシールドを構え、半目でぼやく。
「本物は一体だよ!」
即答したのは彩葉。真剣な瞳で前を見据え、指先で方向を示す。
「左が本物! 右は空気が歪んでる。……幻覚だと思う!」
「おーっ、出たな! あやはちゃんの【直感】!」
陽向がにやっと笑い、工具袋を抱えて小躍りする。
「おい結人、これもう俺より彩葉のほうが役立ってんじゃねぇ?」
「何言ってるんですか。蒼井さんが盾で受けるから、彩葉さんも見抜けるんです」
結人が冷静に返すと、彩葉は得意げに胸を張った。
「そーだよ! コンビでしょ、コンビ!」
「へっ、悪くねぇな」
「ふふん♪」
一瞬の和やかさを切り裂くように――
地面の奥から、ぶくぶくと膨れ上がる不快な音が響いた。苔の苗床が脈動するように盛り上がり、胞子の芽が弾ける。
「来ます! 警戒を!」
結人の短い号令。
「よし、じゃあ陽向さん、範囲処理を頼む!」
「おっけー! 新作“爆発ピンVer.3.2”、いっけー!」
陽向は腰のベルトから小さな金属片を取り出し、楽しげに壁際へ放り投げた。
――しかし。
「……あれ? 点火しないんだけど!? 昨日は動いたのにー!」
「おいっ!」
蒼井が咄嗟にツッコむ。
「実戦で実験すんな!」
「ちょっ……昨日はちゃんと爆発したんだって! 誤作動率、たったの37%くらいで――」
「高すぎんだよ!!」
言い合う間にも、苗床から新たな胞子の芽が吹き出す。地面全体が脈打つように、ぶくぶくと膨れ上がり、広がり、地面から触手めいた根が一斉に伸びてきた。
「蒼井さん、前!」
「分かってる!」
蒼井がシールドを展開し、根を弾き返す。
「右からでっかいの来るよ!」
彩葉の声に反応して、蒼井の盾が即座に角度を変えた。直撃を受けても彼はびくともしない。
「ナイス! 間に合ったでしょ!」
「おうよ!」
結人は増殖を遅らせるべく、スモールソードを赤熱化させ、胞子の根を切断していく。焼き切るたび、地面全体が呻き声のように揺れた。
「まだ押し切れます! 陽向さん、もう一度!」
「よっしゃ! 今度こそ――爆発ピンVer.3.3!」
陽向が再投擲した“爆発ピン”が、胞子群の真上で炸裂。火花と衝撃で、増殖しかけた胞子を吹き飛ばす。
「よっしゃー! 見た!? 今の超きれいに決まったよね!?」
「気を抜かないで! まだ出てきます!」
結人が制止する。
通路の奥から新たな胞子の柱が噴き出した。霧のような胞子が押し寄せ、視界を一気に奪う。無数の根が伸びてくる。
「くっ……結人、どうする!」蒼井が問いかける。
「陽向さん、爆発ピンを散布! 蒼井さんは左に下がって、僕が中央を削る!」
「任せろ!」
「準備できたよ!」
陽向は小型爆弾を複数セットして、床一面にばらまく。爆発が連鎖して胞子を吹き飛ばすが、陽向は焦って近い床際にも仕掛け、足元まで揺らしてしまう。
「うわっ、やっべ! 足元に置くなって!」蒼井が叫ぶ。
「ひゃー、ギリギリセーフ! ……次は完璧にするから!」
胞子の霧はさらに濃くなり、視界はどんどん奪われていく。結人はスキャナーのログを頼りに、仲間の位置を確認しながら指示を出す。
「彩葉さん、本物の位置は!?」
「えっと・・! 本物は左かも!」
彩葉の声が頼もしい。幻覚の影響で何度も混乱しかけるが、彼女の直感が何度も窮地を救う。
「了解! 蒼井さん、合わせて!」
「わかった!」
盾と刃が同時に振り下ろされ、柱が叩き割られる。
わずかながら優勢に見えた――が。
胞子の増殖はさらに激しく、通路の奥から巨大な胞子の柱が噴き出し、広場全体を覆いつくした。霧が視界を奪い、幻覚と現実が入り混じる。
「うぅ……こっちも幻覚か……!」
陽向は小さな装置を取り出しては爆発させ、失敗して床を焦がす。煙でさらに視界が悪化し、蒼井は何度も「ちょ、待て!」と叫ぶ。
「やっべー、やっぱ焦げると熱い!」
「くそっ、でも止めるともたない!」
この騒ぎの中で結人は冷静に、根の切断と時間稼ぎを同時に続けた。
通路奥から、さらに巨大な胞子の柱が噴き出した。
濃霧のように白い胞子が広場を覆い、視界は完全にゼロに。
「やばっ……! 幻覚が増えてる!」彩葉が額を押さえる。
「結人君! 右と左、両方に見える……!」
「どっちかは偽物だ、落ち着いて!」
結人はスキャナーを起動し、数値の揺らぎを確認する。
「彩葉さん、どっちが“違和感”強い?」
「……右! 右が偽物!」
「数値とも一致する!!蒼井さん、左を頼む!」
「任せろ!」
彩葉の直感と結人の分析がかみ合い、致命的な一撃を回避する。
しかし。
「間に合わねぇ……!」
蒼井の声が震える。胞子は通路全体を埋め尽くし、退路すら失われつつあった。
「結人君、奥にスペースあるかも!」
結人は周囲を見渡し、倒木や岩を利用して進路を確保する。蒼井が盾で道を切り開き、陽向が小型装置で胞子を押さえ込む。細かな連携が光るが、胞子は通路全体を飲み込み、足場すら奪い始めていた。
「結人、判断を!」
蒼井の声は焦りで震えている。
結人は一瞬だけ戦場を見渡す。
彩葉の直感は的確だが、処理が追いつかない。
陽向の爆弾は強いが、安定しない。
蒼井の盾は堅いが、押し切られる。
――時間を稼ぐには足りない。
「これ以上は無理だ! 全員、撤退!」
短い号令と同時に、全員が踵を返す。
幻覚に惑わされそうになるたび、彩葉が叫び、陽向の装置が炸裂し、蒼井が盾で道を切り開いた。
ギリギリで通路を抜けたとき、背後から胞子の柱が爆ぜる音が響き渡った。
ギルドに戻ると、別パーティーが出発準備をしていた。すれ違いざま、冷たい視線と声が突き刺さる。
「やっぱ“ハズレパーティー”だな」
「守るのは上手いけど、結果出せなきゃ意味ねぇだろ」
彩葉は唇を噛み、陽向は「くっそー!」と工具を叩き込むように袋へ押し込んだ。
蒼井は拳を握りしめたまま、何も言わなかった。
ただ結人だけが静かにノート端末を開き、戦闘ログを凝視する。
「今日の敗因は“削れない”ことじゃない……」
小さく呟く。
「――時間を奪う力が、僕たちには無かった」
その言葉に、誰も反論できなかった。




