第1話 敗者の朝
志摩結人は、うだるような夏の暑さの中、どこにでもある平凡なバスに揺られていた。窓ガラス越しに照り返す陽光は、まるで彼の存在を照らすかのように、容赦なく身体に降り注ぐ。車内の空気は、冷房の効きが悪く、湿った熱気と人々の体温が入り混ざって淀んでいた。
窓外を流れる街並みは平凡そのものだった。古びたビルの壁に張られた広告、路地裏の自動販売機、子供たちがはしゃぐ公園――どこにでもある景色。しかし、その平凡の中にたった一つ、異質な光景が混じっていた。
空を突き破るかのようにそびえ立つ、巨大な岩の塊。「ダンジョン」――突如として地上に出現し、人々に「スキル」と「特性」という力を与え、この世界の秩序を根底から塗り替えた存在。英雄を夢見る者たちは、こぞってこのダンジョンに殺到した。
結人もまた、その一人だった。
彼の夢は、子供の頃に読んだRPGの物語の主人公、「勇者」になることだった。剣も槍も弓も扱えるがどれも一流にはなれない。火も水も魔法も使えるが、大魔法には届かない。あらゆるスキルを浅く広く扱う――いわば「器用貧乏」の存在。しかし、そんな勇者が、誰にもできない方法で世界を救う姿に、結人は深く憧れた。
なぜなら、彼自身が「器用貧乏」の何たるかを、誰よりも理解していたからだ。学生時代、何をさせても「それなりにできる」優等生。バスケではパスは正確だがシュートは入らず、絵を描けばどんなモチーフも形にできるが、誰の心も揺るがせなかった。決して勝てないわけではない、でも誰にも負けない「強み」が存在しない。そんな自分に、常に劣等感を抱えていた。
だからこそ、その勇者像は、いつしか彼の英雄願望そのものとなっていた。
しかし現実は、非情だった。結人のスキルは「ウォッチャー」――戦闘にほとんど役に立たない「ハズレ職」。他人の動きを観察し、状況を分析する力はあるが、直接戦闘にはほぼ無力。得られる報酬は、Eランクの雑用任務程度に過ぎない。
彼の「器用」特性は、どんなスキルも浅く広く使える代わりに、どれ一つとして極めることができない。まるで、彼の人生そのものが、この特性に集約されたかのような、皮肉な現実だった。
『志摩くん、また今日もソロ?』
バスを降りようとしたとき、見知らぬ探索者たちの声が耳に入る。
『ウォッチャーじゃパーティー組めないよな。ソロじゃEランクの雑用任務くらいしかできないし』
『あいつ、俺が昨日倒したスライムの死骸処理してたぞ。可哀想に……』
悪意のない言葉でさえ、胸に鋭利な刃のように突き刺さる。
(わかってるよ。俺は、ハズレなんだ……)
結人は何も言わず、バスを降りた。足元に砂利が踏みしめられる感触が伝わる。ダンジョンへと続く道は、朝だというのにすでに探索者であふれかえっていた。
赤いバッジを輝かせるSランクの精鋭たちは、メディアの取材に応じ、群衆の羨望を一身に受けている。Aランクは最新の装備を自慢し合い、談笑を楽しむ。Eランク――つまり彼と同じ「雑用ランク」の者たちは、パーティーを組もうと必死に声を掛け合い、惨めな顔を見せていた。
結人は人混みを避け、ギルドの掲示板に向かう。そこにはEランク探索者が請け負う「雑用任務」がずらりと並んでいた。
「スラッジ(スライム系)の死骸処理」
「トリックスパロー(小型鳥型)のアイテム回収」
「コガネマル(金属虫)の擬態調査」
(今日もこれか……)
彼はため息をつき、スマートフォンを操作して任務の詳細を確認する。推奨人数1人、報酬は5000円。時給換算すれば、コンビニのアルバイトより少しマシな程度。
(でも、これしか俺にはできない……)
任務を受注し、ギルドの受付へと向かう。受付嬢の冷たい視線が、彼の存在の軽さを改めて突きつける。
「志摩結人さん、ですね。スラッジの死骸処理、確かに承りました」
ダンジョン内部は、外の喧騒とは打って変わって静寂に包まれていた。湿った土の匂いと、微かに漂う血の匂いが混じる。岩肌に沿って進むと、腐敗したEランクモンスターの死骸が点在していた。
(これが……昨日の誰かの成果か……)
小型のスキャナー付きゴーグルを装着し、死骸に近づく。ゴーグルには、死骸の成分や周囲モンスターの動きがリアルタイムで表示される。
『スライム死骸:腐敗度98%。回収可。』
(よし)
結人は特殊な薬剤を振りかけ、ビニール袋に慎重に詰めていく。その間も、ウォッチャーとしての能力は常に周囲を観察していた。
『個体:トリックスパロー。距離:20m。状態:警戒』
『個体:コガネマル。擬態:木の葉。距離:15m。状態:待機』
(トリックスパローはまだ気づいてない。コガネマルも擬態したまま……よし)
慎重に、しかし手際よく作業を終えた彼の姿は、まるで誰かの戦いを陰で支える「影」のようだった。
(いつか、俺も勇者みたいに戦えるようになれたらな……)
子供の頃の憧れは、遠い夢のように思えた。今の自分には、誰かを助ける力も、敵を打ち倒す力もない。あるのは、ただ「観察する力」だけ。
任務を終え、再びバスに乗り込む。揺れる車窓に映るのは、疲れ切った自分の顔。
(今日も、何も変わらなかったな……)
敗者の朝は、今日も、そして明日も、きっと変わらない――そう信じていた。




