#5 数学女王
「じゃ、範囲はここまでだからなー。くれぐれも赤点取らないように。あと、ワークの提出もお忘れなく」
4限が終わり、ガラガラと椅子を引く音が響く。
やっと昼飯。腹減ったー。
購買の唐揚げ弁当を机に置き、フタを開ける。うん、美味そう!いただきま――
「おい、タク」
「ん?」
前の席のカズがパッと振り向いた。どこかやつれた表情。何事だ?
「え、どうかした?」
「……どうかした?じゃねぇよ……」
カズは盛大なため息を吐く。なんだか、お母さんに叱られる3秒前みたいな気分になる。
「お前、今度こそ赤点取るなよ?」
「いやー、そう言われましても」
俺は唐揚げを頬張りながらおどけてみせた。うん、冷めてるけど美味い。
カズが続ける。
「ヤマオ、数学の補習プリント2倍にするらしいぜ?」
「え、ちょ、まじ?」
ヤマオというのは、俺たちの担任で、生徒指導で、数学担当で、熊みたいな顔したじじい。本名は、山田……山田……あれ、なんだっけ。とにかく、閻魔大王の親戚みたいな奴だ。
「お前、去年も赤点だったよな?」
「うん」
俺は悪びれもせずに頷き、ごくりとミネラルウォーターを飲み下す。
「去年の時点で、えげつない補習プリントに苦しんでたよな?」
「思い出したくもないね」
「その倍だぞ?大丈夫か?」
「……」
額に冷や汗が伝う。
「……いや、どうにかするって」
「お前、小テストも悪ければ遅刻祭りだし……平常点も望み無しだろ?」
しみじみと見捨てるように言われ、俺はじわじわと焦ってきた。
「ちょ、そんなこと言うなって!ほら、赤点回避の裏技とかあるんだろ?」
「そんなんねぇよ」
「ほら、ここだけ覚えれば半分は取れる〜♪みたいな?」
俺は期待を込めて手のひらを合わせるが、カズは静かに首を横に振る。
「残念だが、何もない。ヤマオのテストはいつも難しい。俺たち文系の民は潔く散るしかない」
そんなぁ〜〜〜!
俺は机に突っ伏した。
「誰か、数学得意な人……」
藁にも縋る思いで周りを見渡す。が、俺のイツメンは全員文系!文系!文系!文系!もう、致死量の文系!
自分も大概だが、数字と絶交したような同盟だ。見事に「類は友を呼ぶ」を体現してしまったのが悔やまれる。
カズがいたずらっぽく笑った。
「おいおい、タク。忘れてないよな?理系といえば “あのお方” がいるじゃん」
カズはくわえたコッペパンをクイっと動かし、教室の隅を指し示す。
一列目、窓際、角の席。噂の女、相原アスカ。
彼女は弁当の蓋さえ開けず、どこか楽しげに数学の参考書を読みふけっている。
そんな姿を見て、俺はやれやれと肩をすくめた。
相原さん――通称「数学女王」。
噂では、数検一級、模試満点常連、趣味はフラッシュ暗算……という、数字界のラスボス。
漫画かよ!とツッコみたくなる、圧倒的な強さ。あの人には誰も勝てない。
「ほら、相原さんに勉強教えてもらえばいいじゃん」
カズが冗談っぽく笑う。俺は速攻で首を振った。
「ぜってーバカにされるって。……てか、話すの気まずいし」
視界の隅で相原さんを捉えながら、俺は小声で呟いた。
「あ、そうじゃん。お前、数学女王の秘密握ってんだもんな」
「うん」
「あれからなんか進展あった?」
「うーん、特に」
嘘だ。
本当は大あり。接客中に「ななちゃん推し」宣言されるなんて、進展どころか事件級だ。
でも言えない。このスクープは、ななちゃんを演じる俺だけの特権。
あの完璧な相原さんが、放課後のメイド喫茶で萌え萌え♡してるなんて、カズに知られてたまるか。
俺の前でだけ見せる、「お嬢様」の顔。俺は、得体の知れない優越感に浸っていた。
にやつく口角を隠そうと、俺は慌ててポテトサラダを口に運ぶ。
「でも、タクも気の毒だなぁ」
カズが言った。
「え、なんで?」
「だって、理想の女、ぶち壊されたんだろ?早く新しい恋見つけろよ」
なるほど、そういうことか。
俺は軽く笑って「そうだな」とだけ答えた。
でも、崩れた理想の向こう側に、何かヤミツキになるものがある気がする。上手く言えないけど。
別人みたいなあの相原さんも、だいぶ悪くない。というか、なかなかに良い。
恥ずかしながら、俺は早くも「新しい相原さん」に惚れているみたいだった。
「ま、一緒に赤点回避頑張ろうぜ」
「うわ、忘れてたのに!」
軽くカズを睨みながらも、心の中では思い浮かべてしまう。
遊び感覚で数字を弄ぶ相原さんと、金髪ツインテール男のお絵描きパンケーキにテンションを上げる相原さん。
……まったく、どうして同じ人間なんだろう。




