#26 お勉強デート?
自分との約束に従い、今日こそは家以外の場所で課題に取りかかると決めた。
昨日たっぷり寝たおかげで、瞼は羽のように軽い。
これは集中できるぞ……!
暑さで溶ける前に、さっさと屋内に逃げ込もう。
そう思って駅前のカフェを覗くも、店の中は客でごった返していた。
カウンター席は空いているようだけど……。両隣カップルか。きついな。心が。
そうだ、学校で勉強するのはどうだろう。
夏休み中も空いているし、クーラーも効いているはずだ。
そうと決まれば早い。俺は電車に飛び乗った。
相原さん、居たりしないかな。
いや、いないか。
勉強するなら塾に行くだろうし。
俺は、吹き出る額の汗を拭った。
♡
昇降口で上靴に履き替えながら、しんと静まり返った校舎を見渡す。
人が少ない。これは集中できそうだ。
やる気に満ちて、大きく伸びをする。……あー、この勢いで身長も伸びねーかな。せめて、160後半は欲しい。でも、父方も母方も揃いも揃ってチビだからな……。
「……どけてください」
「ふぇ?」
突然降り掛かる低い声に振り向くと、そこには相原さんがいた。
「……靴、入れたいので」
「あ、ど、どうぞっ!」
慌てて横にどき、ペコペコと頭を下げる。
……嘘だろ。
相原さん、なんでここに。
ぽかんとしてる俺に、彼女が眉をひそめて言う。
「そんなに見てどうしたんですか?」
「い、いや、別に」
アフヌンデート以降、初の会話。
お互い秘密を握っているだけに、気恥ずかしくて少しぎこちない。
せっかくだし、ちょっとからかってやろう。
俺はニヤリと笑った。
「ねー、相原さん」
「なんですか」
「好きな色ある?」
「……いきなり何の話ですか」
「ななちゃんの浴衣」
「えっ!ちょ、ちょっ!」
挙動不審になる相原さん。ほんと、見た目の割にチョロすぎる。
「何色がいい?」
俺はもう一度聞く。
「……ピンクで」
「はーい、了解でーす」
なんだかんだで即答するあたり、可愛いったらありゃしない。
そのあとは特に会話も無く、階段を登って図書室に向かった。しかし、受験を控えた3年生が席を占領しており、俺たち2年生が入り込む隙は無さそうだ。
「……教室、行く?」
相原さんは何も言わない。しかし、黙って着いてくるのが答えなんだろう。
2人で並んで廊下を歩くなんて、俺は夢でも見ているのだろうか。
ガラガラと戸を開ける。誰も居ない教室には、なんだか不思議な空気が流れていた。
俺は適当に窓際の席に座る。
相原さんはその隣。
……え、隣!?
隣座ってくれんの!?神回すぎるだろ!
俺はバクバクする心臓を隠すように、慌ててノートを開いた。
持参したのは、数学と化学のワーク。それから、英語のプリントも。
無慈悲に並ぶ数式は、まるで頭に入ってこない。
隣に相原さんがいる。それだけで、全神経がショートしてた。
そっと横目で彼女を見る。
何か書いてる。あ、一瞬止まった。首傾げてる。うわ、可愛い。相原さんが高校とか塾のポスターに起用されたら、俺、絶対通っちゃうわ。
思考が完全に脱線し、何も手につかなくなる。七瀬くーん、何しに来たんですかー?
おっと、いけない。集中せねば。
ペンをぐっと握り直すと、相原さんが顔を上げた。
「……大丈夫ですか?手、全く動いてないですけど」
「はっ!あ、いや、その」
「まさか、一問も解けないんですか?」
一問も解けないし、貴方に見惚れてフリーズしてたんです!
……なーんて言うこともできず、俺はバカみたいに笑った。
「うん!なんもわかんない!こんなん習った?」
相原さんはやれやれと方をすくめる。
どうせ鼻で笑われるだけだと思っていたのに、
「どの問題ですか?」
と、問題集に身を乗り出す。
ちょ、近いって!相原さん!
メイド喫茶の名残なのか知らないが、相原さんはなかなか距離感がバグっている。
「複素数ってわかりますか?」
「……すいません、わかりません」
恥ずかしさで縮こまる俺をよそに、相原さんはシャーペンを手に取った。
「……だから、ここが」
ペン先がスイスイとページの上を走る。
全く着いていけないが、相原さんが楽しそうなことだけは伝わってきた。
「……わかりましたか?」
いつもより弾んだ声。
申し訳ないが、理解は1ミリも進まなかった。
しかし、上機嫌な数学オタクの顔を見れたから、それだけで十分だ。
「ありがとう、相原さん。ちょっとわかった気がする」
「もう、絶対わかってないでしょ、七瀬くん」
……あ、敬語崩れた。
数学の話でテンションが上がっているだけかもしれないけど、なんとなく親密度が上がった気がして嬉しくなる。
「いやー、数学は苦手中の苦手で」
「ほんと、ひどいですね。どうやって高校に入ったんですか?」
「ちょ、失礼な」
息するように毒を吐く相原さんに、俺はぷっと吹き出す。
「中学時代は割と優等生だったんだよ。だから、推薦でこの高校に」
「へぇ。ってことは、内申点とかも高かったんですね」
「まあね。今となってはこの有様だけど」
俺が嘆くと、相原さんは「見事に落ちこぼれましたね」と辛辣なコメント。
こいつ、何言っても許されると思ってやがる。……調子に乗って態度がでかくなる相原さん、悪くないぞ。
「相原さんは主席だっけ。ずっと頭良いんだね」
俺の何気ない言葉に、彼女は少し間をおいて答える。
「はい。本命は落ちたので、ここは滑り止めですけど」
「え」
まずい。聞かなきゃよかったかも。
「もう気にしてないので大丈夫です」
俺が謝るよりも先に、相原さんはそう言った。
「そ、そっか」
「はい」
少しだけ気まずい沈黙。
「……てか、この高校を滑り止めにできるってすごくない?柏ヶ丘だって偏差値そこそこあるじゃん。俺みたいのはいるけど」
「まぁ、七瀬くんは統計的に外れ値ですもんね」
「やかましいわ」
気づけば始める、コントみたいな掛け合い。相原さんの強すぎるツッコミが、妙にクセになる。もしかして俺、M気質かもしれん……。
「第一志望は鷲尾高校だったんですけど。あっさり落ちました」
その言葉を、本当にあっさりした口調で言う相原さん。
鷲尾高校か……。
俺はゴクリと唾を飲む。
鷲尾高校は県内トップの進学校で、偏差値は75とか。毎年、東大京大への進学者を多数輩出している化け物スクールだ。
「すごいね」
「私はすごくないですよ。落ちましたし」
「いや、チャレンジしただけでもすごいって。尊敬する」
本気でそう思ったから、声がいつもより低くなった。
相原さんは「どうも」と言い、少し照れたように俯いた。
——この人は、一体どこまで可愛いんだ。




