#11 続・貸し借りはチャラで?
相原さんのおかげで課題が片づき、俺は無事に数学の単位をゲット。見事に留年の危機を回避した。
プリントを提出したときのヤマオの顔ときたら――驚きすぎて、口が半開き。
「お前、ほんとに全部解いたのか?」って言葉が顔に書いてあったから、俺は勝ち誇ったようにニヤッと笑ってやった。
そもそも、生徒が解けない前提で課題を出す教師ってどうなんだ、とも思ったが……。
そんなこんなで、俺の平穏で平凡な日常が戻って来た。
進級できる安心感で、久しぶりにのんびりできそうだ。駅前のロフトでイラスト用のノートでも買って帰るか。
上機嫌でスニーカーに履き替えていたとき、ふと気がつく。
「あ、財布……」
やらかした。教室のロッカーに置きっぱなし。
「……くっそ、めんどくさ」
俺は舌打ち混じりに上履きに戻り、急いで階段を駆け上がる。
2年のフロアに着く頃には、息が少し上がっていた。
ガラガラと乱暴に戸を開けると……ん?誰かいる?
教室の隅で人影が動いている。
部活にも図書室にも行かず残っているなんて。
誰だろうと思って目を凝らすと――その姿に見覚えがあった。
「相原さん?」
思わず声が漏れる。
俯いていた人影はパッと顔を上げ、怪訝そうな顔つきで俺を睨む。
まずい、怒られる。
俺は何も悪いことをしていないのに、反射的に謝罪の体勢を構えた。
お辞儀の角度は45度、手は太もも横、指先までピンと伸ばして――
そう覚悟を決めかけたとき、相原さんの口から、予想外の言葉が落ちた。
「……借りって、返されてないことにできますか?」
♡
どさくさに紛れて、俺は相原さんの近くの席に腰掛けた。
漂う淡いせっけんの香り。ガラス細工のように繊細な輪郭には、少しだけ動揺の色が映っている。珍しい。例のポーカーフェイスはどこに行ったんだ?
「借りを返してないことにするって、どういう意味?」
俺は首を傾げる。
“借り”ってのはきっと、俺が相原さんに宿題をやってもらったことだろう。
思い出すのは今朝の会話。
「久々に面白い問題に出会えて楽しかったので、それでお互いウィンウィンということにしましょう。貸し借りはチャラです」
脳内で再生される相原さんの声。
……えっと、つまり?
これを無しにするってことは、俺が相原さんに借りっぱなし状態ってことか。
「だから、その……。少し、手伝ってほしいことがあって」
相原さんは、恥ずかしそうに呟いた。
全く、貸し借りなんて気にせず、素直に頼ってくれればいいのに。相原さんに呼ばれたら、俺は地球の裏側にだって飛んで行くだろう。この人はプライドが高くて、妙にお堅い。でも、そこが可愛い。
「お安いご用!何すればいいの?てか、俺にできること?」
わざと軽い調子で返すと、相原さんは消え入りそうな細い声で言った。
「……針に、糸を通してください」
……は?
全くもって想定外のお願いに、俺は口をあんぐりと開けた。
♡
相原さんの手元には、何やら真っ黒な毛玉が転がっている。
「ちょっと状況が飲み込めないんだけど……今、お裁縫中?」
「そうです。でも、針に糸が通らなくて、途方に暮れていました」
開き直ったようなその言い方に、吹き出しそうになる。
メイドカフェで会ったときに不器用だと言っていたけど、まさかここまでだとは……。
「なるほどね。じゃあ俺が糸を通せばいいんだ?」
「はい。お願いします」
相原さんはそう言って、俺に針と糸を渡した。
糸通しなんて朝飯前。
俺は針の小さな穴に、黒い糸をすっと通す。
「どうぞ」
にこっと笑って差し出すと、相原さんは感動したように目を丸くした。
「……すごい」
その純粋な表情に、思わず笑ってしまう。
「いやいや、これくらい誰でもできるって」
「私はできません」
キッパリ言い切る相原さん。
相原さんって、できないことあったんだ……。
夢でも見てるんじゃないかと、思い切り自分の手をつねる。しっかり痛い。現実だ。
「……で、何作ろうとしてたの?」
沈黙が気まずくなり、俺はそう切り出した。
相原さんは照れたように答える。
「マスコットみたいなものを」
……ほう。なんだか聞いたことがあるぞ。
「いいね、頑張って」
そう言って立ち去ろうとしたけれど、彼女の手元があまりに危なっかしい。
このまま放置したら、確実に流血沙汰になるだろう。
「あのさ。相原さん、裁縫の経験ある?」
俺は思わず尋ねる。
「いえ、全く無いです」
でしょうね!だって、糸も通せないんですから!
「……どうやって作ろうとしてるの?」
相原さんは一瞬首を傾げ、それからぎこちなく笑った。
「作り方、教えてくれますか?」




