≫9≪
「やれやれ〜、帰るのがすっかり遅くなっちゃったよぅ」
先輩とおはなししすぎた。鉛筆の芯がやたら折れた。絵の具の片付けに手間取った――原因は様々な薄暗い帰り道。学校の最寄り駅で電車を待ちながら、夏は街の風景を眺めていた。
(もうちょっとで今描いてる絵が終わるから――次はなにを描こうかなぁ)
次は油彩にしようか。水彩も捨てがたい。
風景を描こうか。先輩のように静物にしようか。それとも――
「んん……人物画は、まだハードル高いかなぁ」
この世界で一番美しいもの。例えば鈴葉の緑色の目とか、柊の横顔とか、千尋の髪もきれいで素敵だ。そういうものを描けたら、どれほどいいだろう。
目立ち始めた街灯の明かりに手をかざしてみる。ああ、身体が足りないなぁ――この手で描きたいものは尽きない。
「んふふ、楽しいかもね〜」
そんなふうに呟いて、柔らかに目を細めた瞬間、
「お嬢ちゃん、少しいいかな?」
後ろからかけられた声に、夏はハッとして振り返った。
≫*≪
「なにかご用ですかぁ?」
「〇〇駅への行き方を教えてほしいんだよね。どこかわかる?」
夏に声をかけてきたのは、スーツを着た中年の男だった。仕事帰りのサラリーマン、といった格好。優しげな微笑みを浮かべたその顔を見上げて、夏もにこやかに笑い返した。
「〇〇駅なら、あっちのホームに来る電車に乗ると行けますよぉ。こっちとは反対側なんです〜」
「ああ、そうなの」
「この駅ちょーっと難しいですよねぇ。なつも、初めてのときは迷っちゃいましたよぉ」
「へぇ……“なつちゃん”って、いうんだね。可愛いなぁ」
眼鏡の奥の目がギラッと光ったのを、しかし夏は気が付かない。ニコニコと笑いながら、親切にも反対のホームへの行き方をレクチャーしている。男はそんな夏に一歩近づいた。
「やっぱり難しいな。なつちゃん、一緒に来てくれない?」
「ええ……困りますよぅ。なつはこっち側の電車に乗らないと、おうちに帰れないんですから」
遅くなってしまったし、「家族」が心配しているかもしれない。おまけに今日は、鈴葉がアジフライを作ると言っていたからできるだけ早く帰りたい。
「そう言わずにさ……助けてほしいんだよ」
「じゃあ、駅員さんを呼びましょうよぉ。なつじゃあ手に負えませんから」
「……それは困るな」
男は微笑んでいるが、その表情に夏は嫌な予感が背中を伝うのを感じていた。また一歩近づいてきた彼に、思わず後ずさる。
あいにく、夏のいるホームは閑散としていてほとんど人がいなかった。きょろきょろと周りを見回した夏が逃げようとしていることに気がついたのか、男は彼女の細腕を掴んだ。
「っ!?」
「ひどいな……少し案内してくれるだけでいいのに」
ギリッと腕を締め上げる感覚に、ひとりでに恐怖がわきあがってくる。男は今やあの優しげだった表情を消して、ギラギラとした目を隠さない。夏は短く息を吸い込んだ。
「ほら、行こうか。あっちのホームだったね」
「い、いやっ!」
腕を引いても振り回しても、もともと力が強くない夏には振りほどけない。引きずられるように、ホームとホームとを繋ぐ連絡通路に連れ込まれる。
「こら、暴れないで」
「なんでこんなことするの!? なつはやだって言ってるのに!」
声を荒らげると、地下道の壁がびりびりと震えた気がした。埃っぽい鬱屈とした空気。男は夏を振り返って、取り繕ったような微笑みを浮かべる。
「おじさんはね、可愛い子が好きなんだよね。なつちゃん可愛いからさ」
「勝手に名前呼ばないで、気持ち悪い!」
「……ひどいなぁ。人に向かってそんなふうに言うなんて、なつちゃんは悪い子なのかなぁ」
体が震えている。うまく息が吸えなくて、視界の端が黒く狭窄してきているのがわかる。ニヤニヤとした笑みが、その視界のほとんどを埋めて――
(やだ、やだやだやだやめて……っ)
「ほら、行くよ。悪い子は後でお仕置きだなぁ」
「……やだ、」
離せ。呼ぶな。気持ち悪いんだよジジイ。
そんな言葉は恐怖の底に落ちたまま戻ってこなくて、潤んで霞がかる視界にコンクリートの床が広がる。
(たすけて……)
無意識のうちにぎゅっと瞑った目から、ぽたりと雫がこぼれ落ちる。それが床に落ちる刹那――
「なっちゃん、こんなところにいた」
よく聞き知った優しい声が聞こえ、背中がふわりとあたたかくなった。