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「ねえねえ聞いた? 『首都第一の“氷の王子”』、また告られて振ったんだって」
「それどこ情報?」
「有女のファンクラブサイト。ちなみに今日の昼休みの話」
「いや情報はや……正直、ちょっと怖いわ」
窓から入ってくる陽の光が、空気をあたためて眠気を誘発する。ツンと鼻を刺す油絵の具の匂い。
ドアを一枚挟んで聞こえてくるのは、美術室と音楽室をつなぐ廊下でいつも練習をしている吹奏楽部員の話し声だった。
「他校でもファンクラブができるくらい有名なのに、ほんと浮いた噂一つないわね」
「今回は廊下のど真ん中で告って、ぼこぼこに振られたらしい。なんか“姫”にも邪魔されちゃったらしいし。まあ当たり前だよね。廊下のど真ん中って……情緒なさすぎでしょ」
「“姫”って、あの? あの二人仲いいの?」
「さあ? でも美男美女でお似合いって、推してる人もたくさんいるっぽいよ」
(しゅうとすずは今日も仲良しさんだぁ。いいな~)
賑やかな話し声はそこで途切れて、代わりに金管楽器のチューニングが響いた。
眼の前のキャンバスには下描きの風景画。汚れた分厚いエプロンを着て、ひとり伸びをする。部員は四人でそのうちの二人は幽霊。朝咲夏が所属しているのは、“有女”こと有明女学院高校の美術部だった。
「なつもおんなじ学校に行きたかったなぁ」
ぷくっと頬を膨らせて、鉛筆を片手に窓の外を眺める。首都第一高校は、有明女学院高校の一つ先の駅が最寄だ。ビルの隙間を縫って、遠くにちらりと白い建物が覗いていた。
別に学力が足りなかったとか、そういうことではない。ただ夏以外の三人が、夏が共学の学校に通うことに猛反対したというだけで。
『夏ちゃん、お願いですから男がいるところにはぜっっったいに行かないでください。え、わたし? いやわたしなんてどうでもいいんですよ。かわいい夏ちゃんになにかあったら、世界を滅ぼさないといけなくなっちゃう……』
『できるだけ夏の意見は尊重したいけど……共学だけは絶対にやめてくれ。夏が他の男に見られると思うだけで吐きそう』
『僕もできればその……うん、なっちゃんの意見だってわかるよ? でも、ほんとは女の子にも、というか僕たち以外の人間には会ってほしくないというか――え? いやだって、なっちゃんはかわいいから』
(しょうがない。三人とも、なつのために言ってくれたんだし)
“なつのため”とはすなわち、自分に向けられる愛だ。これを愛しいとは思っても、嫌だと思うことはありえない。多少腑に落ちないことがあったっとしても、最後は結局「嬉しい」と思って終わる。
(なつってば~、愛されてるぅ!)
今まで誰にももらえなかった、愛とはこういうものらしい。たとえこの認識が間違っていたとしても、正解にたどり着くことになったとしても――きっと、この“愛”以外はいらないモノ。
これだけあれば生きていける。だって、今までゼロだったんだから。
「朝咲ちゃんおつかれさま〜」
「あ〜! おつかれさまですぅ、先輩」
上機嫌な鼻歌は、古ぼけた美術室のドアを開けた音と先輩の声に遮られた。それでもなお、夏の楽しげな表情は消えない。
「なんかご機嫌?」
「えへへぇ、“愛”を再発見しておりました〜」
「おう、そいつはいいねぇ。スケッチが捗っちゃう」
「先輩今度は静物ですかぁ?」
廊下から響く金管の騒がしさったらないのに、美術室に入る音はまるで水底に沈んだかのようにくぐもっている。机の上に転がった偽物のりんごが、赤い光を反射する。
「そーだ! 夕焼けにしちゃおう」
思いつきは新鮮なうちに。キャンバスの上に組み立てられた完成図に心が踊る。
夏は再び、鼻歌交じりに手を踊らせ始めた。