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「あいつ……当たり前みたいに、柊に触ってた」
「ああ」
頭の回転速度が落ちている。考える前に、言葉はどんどん落ちていって。でも鈍った思考で紡ぐ言葉を、柊はじっと聞いてくれる。遮られないことを、急かされないことを知っている。
安心できてしまう沈黙。
「柊は、触られるの嫌いなのに」
「そうだな、嫌いだ」
「……わたしも、あいつと」
――あいつと一緒だ。
「気に食わなかった」じゃない。怖かったんだ。
「怖い?」
「わたし今、柊に、ひどいことしてる」
柊の意思なんて関係なしに、押し倒して動きを封じて、触れている。「触っていいか」なんて聞かなかった。
あの女と自分に、なんの差異があるのだろうか? たまたまあいつより先に柊と出会ったから、今許されているだけで。たまたま柊に選ばれたから、今こうしているだけで。
「わたしじゃなくても……いいなって、思った、から」
いつでも成り代わられる位置にいる? ここは絶対の居場所じゃない?
あの女が柊に笑いかけて、腕を掴んで。自分と同じ感情を持った人間が他にもたくさんいることに気がついてしまって、恐怖したんだ。
――だって唯一じゃないから。
「だから怖いと思ったのか?」
「……うん」
柊の手首を押さえつけていた手をどける。うっすらと赤く痕がついた皮膚に後悔する。でもそれ以上に――細く指の形に沿ってついた痕に、「嬉しい」と思ってしまう自分がいる。意味が解らない、どろどろでぐちゃぐちゃになった感情が腹の底から湧き上がる。
「ごめんなさい、柊」
それ以上は動けなくて、ぼんやりとうつむいていることしかできない。柊は自分の腹の上にまたがった鈴葉を、しばらくじっと見つめていたが――おもむろに手を上げて、鈴葉の制服の袖を引いた。
「鈴」
その低い声はいつもの通り平坦で、しかしいつも以上に優しいのが鈴葉にだけわかる。目を上げた鈴葉を見つめる、藍色の瞳がすっと細められた。
「鈴は、俺に――俺たちに触られるのは嫌?」
「は? 嫌なわけないです。だってみんなは、」
「特別?」
「――はい」
困惑する鈴葉に、柊はふっと笑う。一瞬の間の後、彼の指がそっと鈴葉の指に絡んだ。
「俺とお前は同じだ」
「……」
「手を繋いでもキスしても、お前らじゃなければ気持ちが悪いだけ。でも、痛いことでも苦しいことでも――たとえ死ぬことになったとしても、お前らにもらえるならむしろ嬉しい。そういう意味で、俺とお前は一緒」
そうだろ、鈴。
手首についた痕に唇を寄せて、柊は笑ってみせる。鈴葉はその様子を茫然と見つめたまま、掠れた声を吐いた。
「わたしも、柊がいい」
「だろ?」
「柊もわたしがいい?」
「答えはもう出てる」
ようやっと、詰めていた息を吐きだした。どろどろした感情は胃の底に戻って落ち着く。自分を「特別」だと肯定されたことに、ただ安堵していた。
「落ち着いたか?」
「はい……ありがとうございます、柊」
「特殊な嫉妬の仕方だったな。いや、嫉妬とも違うのか」
「なんか、わからなくなっちゃいました。別に告白なんて、お互い珍しくもなんともないんですけどね」
好きなのは、愛しているのは「家族」だけ。お互いの暗黙の了解で、絶対的な取り決めであると頭では理解している。でも時々、こうして言葉にしなければ迷子になってしまう。
藍と緑の視線が交錯する。この瞬間は二人きりだった。
「ねえ柊、キスしてもいいですか?」
「もう四限始まるぞ」
「ちょっとでいいですから」
「……ほんとに少しだけな」
唇を触れさせる、それだけの行為。二人にとっては始まるのも終わるのも簡単で、なのにこんなにも甘くて心地がいい。
「――ん。もう終わり」
「しゅう、」
「だめ。続きは帰ってからな」
鈴葉を腕の中に収めたまま、柊は弾みをつけて起き上がる。もうすぐ授業が始まるから、動かなければならない。しかし鈴葉は、しばらくぼうっと彼の顔を見上げていた。
「ふふふっ」
「――なんだ? もう行くぞ」
「わかってます。ふふ」
ふと湧き上がってきた笑いを、こらえきれずに吐き出したといわんばかりの目。少し得意げな表情に、柊は立ち上がろうとしていた動きを思わず止めた。
「柊は……わたしとキスするときだけ、わたしの耳をいじるんです」
「……ふーん」
「わたししか知らないんです。ふふ」
柊はついっと視線を外す――鈴葉の言葉通り、彼女の右耳を揉んでいた指を離して。
恐怖も嫉妬も必要ない。だって、最初から「特別」だった。