≫6≪
(……だる)
袖の布地ごしに伝わってくる体温が気持ち悪い。目の前でキャンキャン何事かをわめいている、甲高い声が耳に響いてうざったかった。
こんなことならいっそ、足を止めずに通り過ぎてしまえばよかった。周りの視線も話し声も、いい加減不愉快だ――まあ、後悔してももう遅いのだが。
「先輩! 聞いていますか?」
柊の腕を掴んだままの、目の前の女がまた吠える。いつもなら、こんなのさっさと無視して逃げ出せるのに。久しぶりに「助けてほしいな」と思った。
――そして、彼女はまるでそのSOSに応答するように現れた。
「あ、冬澤くん! こんなところにいたんですね」
(相変わらず役者だな、こいつ)
まるで、たった今柊を見つけたと言わんばかりに。まるで、目の前で繰り広げられているクソみたいな茶番など目にも入っていないかのように。人混みの中から可愛らしさを装った小走りで現れたのは鈴葉だった。
「……春成」
「探したんですよ冬澤くん。図書館司書の先生に、わたしと冬澤くんが呼ばれてるんです。たぶん次回の委員会の話で――あら?」
美人で愛想がよく成績も優秀な人気者。なのにどこか抜けていて、天然で危なっかしいところは守ってあげたくなる。それこそが「第一高の“桜の姫”」なぞというふざけたあだ名をつけられたこの女、春成鈴葉が創り上げた出来の悪い虚像だった。
「ご、ごめんなさい。お話し中、でしたよね?」
「今終わったところだ」
鈴葉は大きな目を少し潤ませて、ぱちくりと瞬かせる。柊から見ればただのわざとらしい仕草だが、周りからは「天然可愛い」と拝まれるのだから恐ろしい。
鈴葉に気をとられて緩んだ手を振り払って、柊はやっと詰めていた息を吐きだした。
「あっ! 待ってください先輩、まだ……」
「これ以上話すことはない」
「でも、」
「――いい加減にしろ、急いでいるんだ」
柊のセリフに合わせて、鈴葉が控えめに柊の袖をつまむ。不安げに寄せられた眉と、相手が相手なら一撃必殺の上目遣い。まるで演劇でもしている気分だった。
「ごめんなさい、大切なお話し中だったのに、わたし……」
「委員会の仕事の方が重要だろう。さっさと行くぞ、春成」
申し訳なさそうな“美人”の表情と、柊には似合わない四角四面な正論を叩きこんで相手にダメージを与えるのも忘れない。目が合うだけでお互いがお互いの意のままに動く。柊と鈴葉はそういう間柄の二人だった。
「……っ」
流石に相手も分が悪いことを理解したのか、おざなりに頭を下げると逃げるように廊下を走り去っていった。
周りの視線も、茶番の終幕に興味を失って一つ、またひとつと去って行く。やっと喧騒に背を向けて、柊は鈴葉と共に歩き始めた。その刹那――
(……ああクソ。しくじったな)
ちらりと盗み見た鈴葉の深い緑色の目が、昏くくらく濁っているのを見つけてしまった。
≫*≪
『ダンッ!!』
図書館の前の廊下はスルーして、鈴葉は近くの空き教室に柊を引きずり込んだ。ドアを閉めた彼をそのまま床に押し倒す。少し埃っぽい床に、彼のダークグレーの髪が散った。
「司書の先生はいいのか?」
「あんなの嘘に決まってんだろ――あの女になにされたんだ、柊」
取り繕いきれない感情があふれて、乱暴な言葉になって飛び出していく。おしとやかで、可愛くてあざとい「春成鈴葉」は自分を守るために演じる「役柄」に過ぎなくて、本物の鈴葉はずっと昔からこういう人間だった。
体の下から柊の心音が聞こえてくる。一定のリズムを刻むそれにはわずかの動揺も含まれず、淡々と鈴葉の本性と激情とを受け止めている。
「ずっと見てただろ。お前が見ていた以上のことはされてない」
「――柊はわたしたちのものだ。それなのにあの女、」
「ああ、知ってる。俺はお前らのものだし、お前らは俺のもの。なにが気に食わないんだ、鈴」
どれだけその手首を握りしめても、どれだけその体を圧迫しても、こうなったときの柊は絶対に抵抗しない。彼はいつもこうやって、冷静さを欠いた鈴葉のぐちゃぐちゃになった気持ちをほどいていく。淡々と、論理的に。この瞬間だけ、立場がいつもと逆転する。
「……あの女、」
「ん?」
「勝手に柊に触った」
――ああ、そうだ。
脳裏にさっき見たあの場面がよみがえる。柊の右腕を無遠慮に掴む両手。鈴葉のものと大して変わらない大きさの、でもなんの変哲もない、ただの。
「それが気に食わないのか?」
「……」
「言って、鈴。俺があいつに触られて、それの何が嫌だったんだ?」
首を傾げてみせる柊の、右耳につけられたピアスがきらりと光った。