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「……まっずい、寝坊した」
廊下からバタバタと慌ただしい足音が聞こえた直後、ダイニングに現れた千尋は忙しなく自分の席に滑り込む。その眠たげな表情は、テーブルの上を見た瞬間にぱっと輝いた。
「わあ、カレーだ。おいしそう……柊くんありがとうね」
「……ん」
「ちひろ、おはよお!」
「あは、なっちゃんおはよう。鈴ちゃんもおかえりなさい。学校お疲れ様」
「ただいまです。ふふ、寝癖ついてますよ」
鈴葉はテーブル越しに手を伸ばして、千尋の長い髪を撫でる。
「え、ほんと? 顔は洗ってきたんだけど……直してる時間あるかなあ」
「そんなに慌てなくても間に合うだろ。それに、多少髪が跳ねてても千尋は可愛いから」
「……ねえ、ほんとそういうとこ――ずるい」
柊の言葉に、顔を覆ってうなだれる千尋。髪の隙間から覗く耳が、今は真っ赤に染まっている。鈴葉はそんな彼の髪をそっとかき上げながら、遠い目をしてうなずいた。
「わたしも、ついさっき直撃をくらいました」
「寝起きなんだよ、僕。いろいろと眩し過ぎるよ……」
「ちひろも福神漬け食べる? なつがとってあげるねぇ」
「うん、ありがとお……わあ、たくさんだあ。僕こんなに食べれるかな」
柊の『可愛い』発言は千尋の眠気をすっかり吹き飛ばしてしまったようで。福神漬けを皿に山のように盛る夏に苦笑しながら、彼は赤く染まった顔を手であおいでいた。
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「忘れ物は?」
「大丈夫、ありがとう。じゃあみんな、明日も学校あるんだから、夜更かししないで早く寝るんだよ~」
「一歳しか違わないのにガキ扱いすんな」
「あははっ」
あれだけ心配していたが結局、千尋は時間までに身支度を終わらせて玄関に立っていた。見送りに立った柊の背後、キッチンからは女子二人のはしゃぐ声が皿洗いの音とともに聞こえてくる。
「――あいつら、ほんとに皿洗ってるだけなんだよな?」
「あの二人はいつでもああじゃない? 仲良しなのはいいことだよ」
呆れ顔の柊とは対照的に、千尋は穏やかに笑っている。彼が玄関を開けると、春の夜風が吹き込んできた。
「わりと寒いな……いつ帰ってくる?」
「いつもと一緒。朝ごはんとお弁当は作ってから寝るから、安心してね」
「帰ってきたらさっさと寝ればいいのに」
「あはは……このくらいさせてよ。おんなじ家に住んでるのに、昼間は基本会えないんだからさ」
高校に通っていない分、他の三人の負担を減らそうと千尋はいくつもバイトを掛け持ちして働いていた。彼はなんでもない風を装っているが、その仕草や表情から疲れが滲んでいることに、柊が気づかないわけがない。
「俺たちも働いてるんだから、別に無理しなくていいのに」
「無理っていうか……こうしてないと落ち着かないだけだよ。君たちが学校に行っている間、僕もできることをしたいだけ」
「……」
「学校に行けないのは、もうどうしようもない事だからさ」
ふわりと微笑む彼を、柊はじっと見つめる。今の言葉はすべて、千尋の本心だった。
(だから、たちが悪い)
千尋は今の状況を、本当になんとも思っていない。学校に行けないことと、労働の疲労と対価とで釣り合いをとって安心しようとしている。その心の支えを折れるほどの勇気を、生憎柊は持ち合わせていなかった。
「そ。なんかあったら、ちゃんと言って」
「わかってるよ。ありがとね」
ふわりと揺れた千尋の白くて長い髪は、月の光を反射して淡く輝いていた。柊はいつものように手を伸ばして、彼を引き寄せる。
「いってらっしゃい」
頭のてっぺんに唇を落とすと、頬に柔らかい髪が触れた。いつからか、こうするのが習慣になっていた。誰に教わったわけでも咎められたわけでもないが、少なくとも千尋は嫌がらないから。自分のしたいことしかしないのが、柊の生き方だ。
触れる千尋の肩がほんのわずかに震える。すぐに赤くなる耳の先。彼の方が年上なのに可愛いと思うとか、好きだと思うとか。
「……いってきます」
どれだけ取り繕っても、やっぱりその声は少し震えている。ぱたんと閉まったドアを見つめて、いつも込み上げる笑みを飲み下しているのは誰にも言えない秘密だ。