9日目
早朝から、魔王は少し、ほんの少しだけ駆けるように廊下を進んでいく。楽しみを待ちきれない、けれど早朝から部屋を飛び出したのもバレたくない行動は、幼い子どものようである。
速足でたどり着いた場所は、現在ノックスが使用している部屋だった。はやる鼓動を落ち着かせるように、深呼吸を数回した魔王は扉をノックする。
「ノックス、ノックスいるか?」
魔王の言葉に答えるように、ゆっくりと扉が中から開いていく。
「やぁ、いい朝だね」
「やぁ、ノックス。いい朝だ」
ヒッチのような上司と部下ではなく、まるで友人のように挨拶を交わしながらノックスは、魔王を室内へと招いた。
「今回の旅はどうだった?」
「そうだな。今回も素敵な旅だったよ」
マーネとの旅を一つ一つ思い出しながら、大切に言葉を紡ぐノックスの声に耳を傾けながら、その情景に想像を膨らましていく。
「それと、やっぱり人間は見つけられなかったよ」
ノックスの言葉に、魔王は静かに頷いた。
薄々、気づいてはいた。無事にすべての人類を滅ぼしつくしたと。それでも、もしかしたら生き残りがいるかもしれないという恐怖から、旅人たちに探してもらっていた。
「もう怖い者は、この世界にいない。だから――――――安心していいんだぜ」
言葉の通り、ノックスは安心させるように魔王の手を握る。その温かな手に、あのしわくちゃの手を思い出す。
――……怖い者、か。
枯れ枝のような細く、頼りなくて、肉が無くなり、血管が浮き出て、お世辞にも綺麗とは言えないのに、とても素敵な指先。
なんだか無性に人間に会いたくなった魔王は、自身の手に重なるノックスの手を上から握りしめ、立ち上がる。
「行くぞ!」
ノックスの手を引き、勢いのまま扉を開け、廊下を走る。走る。
人間の部屋を乱暴に開け、靴を脱ぎ捨てる。慌てて入ってくる二匹を、穏やかに「今日は遅かったねぇ」と迎え入れた。
「人間! 食材や、機材は使ってもいいか?」
「いいよ、いいよ。好きに使ってちょうだい」
「では、ノックスは人間と待っていろ!」
颯爽と台所に向かっていた魔王を、人間とノックスは見送った。
台所からガチャガチャと音が絶え間なく響き、魔王の行動にノックスはハラハラと落ち着かなかった。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だよ」
「心配はしていないんだ。ただ、あんな楽しそうな顔を見たのは初めだったから、さ」
成長した姿に喜びと、手から離れてしまうかもしれない寂しさを織り交ぜた横顔に人間は、この数日で魔王が作った折り鶴、風船、お手玉―――――――旅人たちのために作った“てるてる坊主”を見せた。
「……恐ろしくも、嬉しいものですね」
いろいろ終わったのか、粉まみれの魔王に人間は「おやおや、まぁまぁ」と笑いながらタオルを差し出した。渡されたタオルで、汚れを落とした魔王はノックスに、人間と過ごした数日を語って聞かせた。楽しそうな魔王の声に、ノックスは耳を静かに傾けた。
話に一区切りがついたタイミングで、ピーっという高音が響き渡る。ほのかに漂う甘い香りに、魔王は焼きあがったソレを取りに行く。
「あれ?」
不思議そうに首を傾げる魔王は、型からケーキを取り出せないでいた。前回はスポリと型から落ちてきたというのに、魔王は台所が人間を呼ぶ。
「取り出せないんだが?」
「バターは塗った?」
「……………あ」
自分でやっていない工程なんて、すっかり忘れていた。
「しかしバターを塗らないだけで、ここまで取り出せないとはな」
感心する魔王にカラカラと笑いながら、人間は包丁を型に合わせて入れていく。なんとか、剝ぎ取ったケーキはボロボロであり、見栄えは最悪だ。
「初めて一人で作ったケーキにしては、上手にできたねぇ」
自分のことのように喜ぶ人間に、実は少しだけ落ち込んでいた魔王はヘラリと笑った。
「これなら、わざわざ切り分けなくてもいいから楽だねぇ」
「、楽なのはいいことだな」
ボロボロのケーキを大皿に盛りつけ、ノックスのもとへ戻る。盛り付けられたケーキを見てノックスは、かすかに震える。あまりの出来の悪さに驚いて声も出せないのか、と思っていれば何に照れているのか、頬を少しだけ赤く染めたノックスは真っ直ぐ魔王を見た。
「……僕が食べてしまってもいいのかい?」
吐き出された科白に魔王は静かに頷けば、ノックスは花が咲くように笑った。
「きっと僕は、今世界で一番幸せ者かもしれないな。君に手作り料理が食べられるなんて」
「そんな大げさだな」
魔王が初めて一人で作った不格好なケーキは、すべてノックスの食べつくしてしまった。