6日目
「そういえば、外はどうなっているんかね?」
素朴な疑問だった。
自分の部屋からは出たことはあるが、この場所から一度も出たことがなければ気になるのも普通のことだろう。そもそも異世界であるのだから、真っ先に気にするところのはずだったろうに。
「外、ですか?」
すっかり人間とお茶友達であるヒッチは思案する。
この世界に置いて外とは――――――何もない場所だ。
ヒッチが把握している範囲の中では、生き物は一切いない。せいぜい昆虫ぐらいは見つけることができるかもしれないが、人間が昆虫を見て喜ぶタイプとは思えない。
「……外に出てみたいのですか?」
「孫もよく言ってたけど、人間太陽の光は少しでも浴びないとねぇ」
「生命活動の上で、その行為が必要ということですか?」
「気分的な問題だわな」
「そういうものですか」
ヒッチや、魔王には縁のない行為である。だからこそ、気になるというもの!
「では、外に行きますか?」
「いいのかい? なんだか悪いから、無理なら無理でいいんだよ?」
「いえ、無理ではありません。最初にお伝えしたとおり、要望は最大限叶えるという取引をしております。ですから、気にすることは何もないのです」
外に出ると決まれば早く、ヒッチは人間を自分の背に乗せて部屋を出る。長い廊下を進んでいれば、大切なことを思い出したのか人間がヒッチに声をかける。
「今日は、魔王さんはいいのかい?」
————魔王さん。
この世界で魔王のことを、魔王“さん”と呼ぶのは、ヒッチの上に乗っている人間だけだろう。いつか、本人がいるときに聞きたいものだ。
「魔王様なら大丈夫でしょう。きっと今日は、自室から出ることはないでしょうからね」
「体調でも悪いのか?」
「いたって健康そのものですが、定期的にあることです」
「なんだか、人間みたいだねぇ」
呑気に笑う人間の言葉に、ヒッチは肯定も否定もしないで外へと出られる扉を開けた。緩やかな風が頬を撫ぜる。人工的でない、自然の光に人間の口角は知らず知らずのうちに、上がっていく。やはり人間は、いつだって光がないとダメな生き物らしい。
「それでは、飛びますので口を閉じていてください」
「————え?」
言葉を理解する前に、ヒッチは飛んだ。
いや、正確に言えば飛んでいない。ヒッチに空を飛ぶ機能なんて存在しない。ヒッチが行ったのは、ただの跳躍である。けれども、その高さは飛んでいると言っても過言ではない。人間は落ちてしまわないように、ヒッチ自慢の毛を握りしめる。まぁ、人間がいくらヒッチから落ちないようにしたところで、ヒッチ自身は、落ちていくのだから結果は変わらないのだけども。
瞬きのような刹那の時間だったような、永劫ともいえるような永い時間だったような滑空はヒッチの静かな着地により終わりを迎えた。
辿り着いた場所は、どこかの崖の上であった。前を見ても、後ろを見ても、崖の下には深い緑色が広がっている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。それにしても、すっごい飛んだねぇ」
楽しかった。と笑う人間に、それはよかったです。なんて心にも思っていないことを返すヒッチは、やはり生き物の気配を感じない森を見下ろして溜息を吐いた。
「にしても、すごい森だねぇ」
「すごくても、生き物はいないですけどね」
「こんなに大きな森なのに、生き物はいないのかい?」
「えぇ、せいぜい見つけることができても昆虫ぐらいじゃないでしょうかね」
ヒッチに言葉に目を丸くする人間に、もう帰りましょうと提案する。こんな森、見ていてもつまらないだけだ。————別に、はやく毛づくろいがしたいとか、考えていないとも。
「……本当に、何もいないのかい? 動物も、人間も」
「えぇ、本当になにもいませんね」
「そうかい、そうかい」
少しだけ楽し気な人間に、ヒッチは首を傾げた。
「どこか楽しそうですね」
「いや、ねぇ。昔、孫がよく言ってたもんだから。『この世界は、一回滅んだ方がいい。それでもう一回やり直すべきだよ』ってね」
「それに、理由はあるのですか?」
「なんて言ってたかねぇ」
「覚えていないのですか?」
「確かに聞いたはずだけど、それも昔のことだからねぇ」
思い出せそうにない人間は「まぁ、そのうち思い出すよ」と茶目っ気に笑った。
それから崖から降りて、一人と一匹は生き物がいない森を少しだけ散策してから家へと帰った。もちろん、来た時と同じように跳躍したとも。2回目となると、人間も慣れたのか、目の前に広がる風景を楽しんでいた。
久しぶりに太陽の光を浴びたからなのか、その日の人間は終始いきいきとしていた。
ヒッチが言っていた通り、この日魔王は自室から出ることはなかった。