さんちゃんのアイス
自転車のチャイルドシートのベルトを外すと、鳥が飛び立つようにして美咲は自転車を下り、ブランコを目指して一直線で駆けていった。全く落ち着きのない子どもだ。
この四月から近所の幼稚園に通い始めた。三歳児クラス年少組。クラスの中でも月齢は真ん中辺りなのに他の子ども達と比べると美咲は幼く見える。同じクラスの早生まれの子の方がしっかりしていてびっくりした。
幼稚園に通い始めるとママ友の間では、おけいこごとの話題が出る。ピアノ、スイミング、ダンス、英会話、バレエ……後、科学教室みたいなものや幼児教室なんかも名前が出る。
そして、みんな一つもしくは二つ、多ければ三つおけいこに通わせていた。私はおけいこごとなんて考えていなかったので驚いた。
ここでみんなと同じ道に駒を進めないと美咲の将来が危うくなる気がした。
そして私も美咲をおけいこに通わせることにした。昔、私自身が習っていたからという理由で近所のピアノ教室に申し込んだ。ところが美咲には合わなかった。練習しない、レッスン中もぼんやりしている、しまいにはレッスンに行く度泣き叫んで抵抗するようになり、それを宥めすかすのに私が疲れてしまってやめた。通ったのは三ヶ月。週一回のレッスンだったから十回ちょっとしか行っていない。
入会料それなりにしたんだけどな、と思いつつも泣き叫ぶ美咲をどうこうする方が私には切実な問題だった。だから今はおけいこをさせていない。
幼稚園の友達はそれぞれおけいこに通っているから、幼稚園が終わった後、一緒に遊べる日は限られている。今日は紫葵ちゃんも友哉君も沙優実ちゃんも、みんなそれぞれのおけいこに通う日だから美咲と二人でいつもの公園に来た。
美咲はブランコをぐいぐいこぐ。あんな高くまでこげるようになっていたんだ、と驚く。友達がいなくても美咲はへっちゃらだ。ブランコに飽きると、滑り台やらトンネルやらがついた総合遊具に行き、上ったり滑ったり、くぐったりをひたすらくり返す。
そんな様子を私は近くにあるベンチに座って眺めている。「よく飽きないなぁ」と一人ごちながら。
そうしてしばらく遊ぶと、おねだりタイムに入る。公園の隣には〝まんじゅや〟という店名の駄菓子屋さんがある。駄菓子だけでなく、小さなアイスクリームやクレープも売っている。どれも子どものお小遣いで買える値段だ。
店にいるのはおばあさんとその娘さん。子ども達に愛想よく、けれど、小学生がイタズラをしたらぴしゃりと叱る、とても心強い方々だ。だから美咲たちみたいな幼稚園児を一人で買い物に行かせてもちゃんと面倒を見てくれる。
親にとっては楽だし子どもにとってはちょっとした冒険の場所。それがまんじゅやだった。
案の定、一通り遊具を制覇すると美咲は「まんじゅやいく」と言い始めた。百円を小さな手のひらに乗せると、にこっと嬉しそうに笑いスキップしながらまんじゅやへと向かっていった。
美咲が買ってくるものはだいたい決まっている。ガムやラムネ、小さい容器に入ったヨーグルト、グミ……それらをいくつか組み合わせて買ってくる。おそらくおばあさんか娘さんが一緒に計算をしてくれているのだろう。今日は何を選ぶのかな? と思いながらベンチに座っていると、いつもより早く美咲が戻ってきた。
その右手にはピンク色のコーンに乗せられた白いアイスクリームを持っていた。アイスクリームを買ってきたのは初めてだ。私の隣に座ると美咲はその小さな唇をそっとアイスに近づけた。
「つめた」と嬉しそうに笑う。アイスクリームはシャーベットに近い感じがした。それを見て私の記憶が風に乗るようにして過去に遡った。
*
私が子どもの頃、休みの日は両親と妹と一緒によく公園に遊びに出かけた。アスレチックがある公園、飛行機の遊具がある公園、小さな動物園を併設している海の近くにある公園。
毎週ではなかったけれど、それなりの頻度で連れて行ってもらっていた。その中でも一番好きだったのは小さな動物園を併設している海の近くにある公園だった。
その公園にはとある屋台が来ていた。屋台といってもワゴンタイプの車に駄菓子が乗っていて、車の外で眼鏡をかけてでっぷりとしたおじさんと、バンダナを頭につけているおばさんがアイスやたこ焼きを売っていた。その屋台の名前は、さんちゃんといった。
さんちゃんが公園に来ている日は必ずアイスクリームを買ってもらった。さんちゃんのアイスクリームは氷のしゃりしゃりした感じがあって、あっさりと甘く、ほろりと口の中で溶けた。とても美味しかった。 スーパーで売っている普通のアイスクリームも好きだったけれど、さんちゃんのアイスクリームは特別だった。どうやったらこんなおいしいアイスクリームを作れるんだろう? と子どもながらに思った。最後にさんちゃんのアイスクリームを食べたのはいつだろう。
思い出せないのに、あのアイスクリームの味はありありと思い出せた。
*
「ママ、ちょっといる?」
美咲の呼びかけで我に返る。綺麗な半円を描いていたアイスクリームはでこぼこになっていた。
「いいの? ありがとう」
アイスクリームを差し出す美咲の手からそれを受け取り、一口食べる。アイスクリームのしゃりとした食感が歯に伝わる。うん。おいしい。さんちゃんのアイスクリームとは違う味だけど、まんじゅやのアイスもおいしい。
「おいしいね」と言って美咲にアイスクリームを返すと「うん。おいしいね。つぎもまんじゅやいったら、これかおうっと!」と言う。
さんちゃんのアイスクリームが私の心や味覚に残っているように、美咲にはまんじゅやのアイスクリームの記憶が心や味覚に残るといいなと思った。
読んでいただき、ありがとうございました。